片思いの夫は夜の甘い苦さに苦しむ(ローク)
いつものように夫婦の部屋に行くと、今夜もルシールは男物のハンカチに刺繍をしていた。
一針一針丁寧に刺すルシールの表情はとても楽しそう。こんな彼女なら永遠に見ていたいと思うが、あれが誰かのためと思うと心が苦しくなる。
せめて刺繍を見るのは止めよう。
そんな弱気な自分を哂うように、俺に気づいたルシールが凶悪なほど可愛い顔で「見てくださいな」と刺繍していたハンカチを見せてくる。
「……犬?」
ずいぶんと間抜け……ユニークな顔立ちの犬だな。
いや、犬のように見えだけで本当は違うのか?
「はい」
よかった、どうやら合っていた。
「あっという間に上達したな」
「お義母様のおかげですわ」
ルシールの嬉しそうな顔に心臓がぎゅっと締め付けられる。
誰のための刺繍のハンカチなのか問いたい。
でも嫉妬する権利のない俺に問う資格はあるのか?
―――ルシールが恋しているみたいなのよね。
頭の中で母上の声が響く。
愛しくて堪らない妻が想いを寄せる男。
どんな奴なのだろう……憎らしくて堪らない。
この刺繍の中に答えがあるのか?
犬の毛は黒ということは黒髪の男?
俺と同じだな……彼女は俺の腕の中でその男を想っているのかもしれない。
想像と嫉妬心が膨らみ頭の中で黒髪の男たちのリストができていく。
いや、もしかしたら黒い犬を飼っているのかもしれない。
しかしこんなユニークな顔の犬だとしても、黒い犬を飼っている男のリストなど作れるわけがない。
幸せ。
恋しい女性の夫であるこの生活は幸せだと思う。
でもルシールが他の男に恋をしているなら幸せなのは俺だけ、そう思うと独り善がりな幸福など空しくなる。
夫だから手を伸ばして触れることができる。
でも伸ばした手が拒まれないのはルシールがそれは妻の義務だと思っているから。
政略結婚で最も重要なことは子どもを生むこと。
ルシールもセシリア夫人もそれを理解しているから夫である俺たちに抱かれている。
それを責めているわけではない。
俺だって恋心を自覚するまでルシールを抱くのは義務だと思っていた。
そう、ただ俺の気持ちが変わっただけ
ルシールは何も悪くない。
「ローク様?」
いまだって、この手を伸ばせばルシールは俺を拒まない。
でも彼女は俺の腕の中で違う誰かを思い浮かべているのかもしれない。
「どうかなさいましたか?」
「すまない……仕事が忙しくて疲れているんだ。今日は先に休ませてもらうよ」
今日
我ながら下手な言い訳だ。
「わかりましたわ、お休みなさいませ」
ルシールも信じてはいないことは探るような目で俺を見ているから分かる。
触れるのが怖い。
――― 静かに泣いているんだ。
カイルの言葉が頭から離れない。
もしルシールも泣いたら俺はどうする?
自分が夫なのだと開き直る?
……今夜も長くなりそうだな。
先に寝ると言っておきながら眠れない。
最近は夢見が悪い。
ふわっと漂う甘酸っぱい苺の香りを辿っていくとルシールがいて、俺が名を呼ぶ前に振り返ったルシールは瞳に恋情を灯した恋する女の微笑みを浮かべていて、駆け出したルシールは俺の横をすり抜けて背の高い男のカゲがに駆け寄るんだ。
俺はそれを見ながら足が動かなくて、男の影に寄り添うルシールの後ろ姿を見送ることしかできなくて……。
やはり「理由はないけれどとにかく好き」などあり得ない。
ルシールが好きな理由などいくらでも言えるし、ティファニーのときのように他の男と一緒になるのを応援して見守るなんてできない。
怒り狂うか。
泣き縋るか。
どんな反応をするのか俺自身も分からない、だってこれが初めての恋だから。
「痛っ!」
「ローク様⁉」
強烈な痛みに視界が歪み、立ってられずに思わず膝をつくとルシールが慌てて駆け寄ってきた。いつも通りふわりと苺の香りがする。
――― ローク、お願いがあるの。
ルシールの苺の香りがティファニーの蠱惑的な花の香りに入れ替わろうとする。
気持ちが悪い。
「……だ」
俺は縋るような気持ちでルシールの腕を掴む。
もしかしたら痛みを感じているかもしれないのに、ルシールは俺に素直に掴まれていてくれた。
――― ローク、お願いがあるの。
まただ……またティファニーの声がする。
どうして?
城で会ったからか?
今日、ティファニーが突然俺に会いにきた。
カイルとの話が尾を引いていたのか思わずティファニーの顔をジッと見てしまい「あまり見ないでよ」と照れ臭そうにする女の顔はティファニーだったが、ただそれだけだった。
どちらかと言えばちょっと引いた。
記憶の中にある卒業パーティーで着ていたドレスとあまり変わらなかったが、なぜあのとき自分が「よく似合っている」と褒めたのか分からないほど品のないドレスだった。この格好で城の中を歩いてきたのかと目を疑うほど露出度が高かった。
唇が動けば吐き出されるのは不平や不満ばかり。
教育係はお妃様になる自分に嫉妬して意地悪している、あの仕事をしない侍女は殿下を狙っているに違いない。文句を連ね続ける声はうるさく、歪んだ顔は可愛くなかった。
「ローク様、医者を手配しますわ」
「大丈夫だ。疲れがたまっただけ、だから」
「……でも」
「大丈夫、だから」
大丈夫、というだけでも息苦しい。
まるで首を何かに締めつけられているようだ。
「やっぱり医者を」
ルシールが離れていこうとすると頭の中でルシールが薄れてティファニーがその上に重なる感覚がしてゾッとする。
待って。
声に出せないまま力加減を忘れて腕を引いたから驚いただろう。
申し訳なく思いつつも縋る様にルシールの体を抱き込む。
苺の香りの間を縫って近づいてこようとしたあの花の匂いが遠ざかる。
「ルシール……ルシール……」
腕に力を込めて頭の中から消えそうなルシールを繋ぎ留めたい一心で抱きしめる。
「どうなさったのです?」
どうしたのか。
それこそ自分が聞きたいくらいだ。
「ローク様……」
「すまない……」
―――ローク、お願いがあるの。
まるで自分を忘れるなというようだ。
頭の中で響くティファニーの声から逃れるようにルシールを強く抱きしめ続ける。
「もう少しだけ、このままで」
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