ハンカチに刺繍する権利と資格
最近お義母様はよく刺繍をしていらっしゃいます。
私の腕前はちょっと……あれなのですが、刺繍は貴族女性の嗜みの一つ。
お義母様が刺繍をしていても不思議ではないのですが、その様子が少しこう……鬼気迫っていらっしゃるのです。
理由を尋ねたらお義父様のためのハンカチでした。
「これまで使っていたハンカチが古くなってきたから新しいのが欲しいと旦那様に言われたの」
「そうなのですね」
宰相閣下が愛妻のハンカチをそこかしこで自慢しているのは昔から知っていました。
そんな素敵なご夫婦が私の義親になるなんて、ちょっと不思議でとても嬉しいです。
「仕方がないのよ、宰相なんて立場の方が毎日同じハンカチを使うわけにいかないでしょう?」
仕方がないと仰っていますが、お義母様のお顔は嬉しそう。
お二人は政略結婚ですが幼馴染だったため長い間友人関係にあり、夫婦となって最初は友だちの延長だったが次第に互いに愛するようになったそうです。
「ルシールもやらない?」
え?
「
お義母様としては何気ないお誘いなのでしょうが……言葉に詰まります。
でもいつまでも隠しておけることではありません。
「実は刺繍は壊滅的に下手なのです」
「練習する時間もなかったから仕方がないわよ」
ルシールにも苦手があるのねとお義母様は笑っていらっしゃる。
謙遜だと思われていることに心苦しくなります。
「練習しても一向に上達しないほど下手なのです」
刺繍に限らず絵を書いたり楽器を奏でたりといった芸術的なことは総じて苦手です。
「ダンスだけはリズム感の良さに救われたな」というのがお兄様の私の芸術面への評価です。
そして、それをローク様にも知られてしまいました。
いえ、まだ絵と楽器はばれておりませんが……刺繍についてはハリネズミを「なんだ、これ」と……思い出しても恥ずかしいです。
でも刺繍が下手だと知られてしまったあの夜、動揺して裁縫箱を倒してしまって散らばった針を二人で笑いながら探したのは恥ずかしいけれど楽しい思い出になっています。
「ルシールさえ良ければ私が教えましょうか?」
「よいのですか?」
お母様も匙を投げた私の腕前がどうにかなるかもしれません。
「もちろんよ。私は娘に刺繍を教えるのが夢だったのよ。産まれてきたのが“あれ”だから諦めていたの、私にとっても願ったり叶ったりだわ」
その言葉に甘えて刺繍を習うことにしました。
「目標は一カ月後、ルシールが刺繍したハンカチをロークに贈りましょう」
「ローク様に……」
貴族の男性たちは婚約者や妻が刺した刺繍のハンカチを周りに自慢する。
粗末な刺繍で恥をかかないために貴族の女性たちは刺繍を嗜んでいると言っても過言ではありません。
刺繍のハンカチを持っているかどうかは貴族の男たちのプライドに関わる問題。
中には見栄をはるために母親や姉妹に頼んだり、馴染みの娼婦に土下座して情に訴えてまで手に入れる方もいらっしゃるそうです。
なぜなら刺繍のハンカチは愛の告白の必須アイテム。
「いつもあなたを想っています」という意味が籠っています。
刺繍のハンカチは一度贈ってお終いではありません。
いつまでも古いハンカチを使い続けるのは女性の愛情の薄れを意味します。
だからお義父様のように男性は「いまも私を愛してくれていますか?」という意味を込めてハンカチを催促し、「私は今日もあなたを愛しています」という意味を込めて女性は定期的に男性にハンカチを贈ります。
ローク様に刺繍のハンカチ……。
妻なので贈る権利はありますが、資格はあるのでしょうか。
でもお義母様の課題ですし……あっ!
「お義母様、ローク様ではなく別の方でもいいですか?」
「ええ⁉」
「……お義母様?」
「あ、と……ごめんなさい。ちょっと驚いてしまって……ほら、私の勘違いかなとか……」
勘違い、ですか?
「あの、誰に贈るのか聞いてもいいかしら」
「はい、お父様です……お義母様⁉」
お義母様の両目から涙が流れました。
えっと……どうしましょう。
いま持っているのは例のハリネズミのハンカチなのですが……。
「お義母様、お使いください」
「ありがとう、ルシール……とても可愛い猪の刺繍ね」
いいえ、ハリネズミです。
でも黙っていましょう。
「大丈夫ですか?」
「ごめんなさいね。ルシールがとてもいい子で……娘から贈られる刺繍のハンカチなんて幻とと言われるほど貴重なものを作るいい子が私の義娘なんて感動しちゃって」
お義母様の説明によると、母親や姉妹からの刺繍のハンカチは低く見られる一方で娘からの刺繍のハンカチには羨望の眼差しが集中するらしい。
「さっそく今から始めましょう」
とりあえずこれを縫ってみて。
そう言われたのでチクチク、チクチク……。
「基礎からはじめましょう」
「……よろしくお願いします」
こんな調子で最初は全く上達しませんでしたが、お義母様の指導は丁寧で分かりやすい上に程よくスパルタなのでとても上手になった気がします。
「とにかくゆっくり、よ」
「はい」
今までの王子妃教育に追われた生活の祟りか「急いで仕上げないと」と気持ちが先走ってしまい刺繍糸を強く引っ張ってしまうクセが私にはあり、そのため生地が歪んで奇天烈な刺繍が完成していたようです。
「一日一刺しでもいいのだから、余計な力を入れずにゆっくりとね」
「はい」
ゆっくりだけを念頭にいれ、時間をかけて完成した刺繍は―――。
「若奥様、花に見えますわ!」
侍女たちに拍手されました。
お義母様が数秒で仕上げる簡単な花の刺繍に十分以上かかりましたが、完成した花の刺繍はいままでの“花もどき”とは雲泥の差ですわ。
***
「今夜はずいぶんと楽しそうに刺繍しているのだな」
近くで突然聞こえたローク様の声に驚いて振り返り、「君も鼻歌を歌うことがあるのだな」と笑うお顔に顔が熱くなりました。
「恥ずかしがることはない。とてもきれいな歌声だった」
「なぜいつも恥ずかしいところを盗み見るのですか」
「偶然だし、夫婦だからそういう場に居合わせるのが多いのは自然だろう?」
そう……かもしれませんわね。
「刺繍……これは誰かに贈るハンカチか?」
「ローク様?」
空気をピリッと振るわせるような声にローク様を見ると、ローク様は私の手元を見ていらっしゃる。
決まっているわけではないが青色のハンカチといえば男性の持ち物。
大きさも女性のものよりも二回りほど大きなハンカチで、刺繍入りのハンカチと言えば―――。
「あの、これは……」
「すごいな、とても上達しているじゃないか」
……ああ、そうですわよね。
すっと気分が落ちて、先ほどまでの自分が期待していたことに気づいてしまった。
愚かですわ。
ローク様のお顔にあるのは好奇心だけなのに。
貴族男性であるローク様が刺繍のハンカチの意味を知らないはずがありません。
それでも気になさる様子はない。
私がティファニー様だったらもう少し違う反応だったかしら……なんて。
「痛っ」
ぼんやりしたまま針を動かしてはいけないと、人差し指の先に赤い血の球が浮かぶのを見つめる。
「ルシール! 大丈夫か?」
「はい、ちょっと刺してしまっただけですので」
赤い血を見たローク様はお顔を青くし、上着から出した薄い青色のハンカチを差し出しました。
「とりあえずはこれで止血しよう。そうしたら侍女を呼んでくる」
「ありがとうご……」
ローク様が広げたハンカチに刺された刺繍に言葉が止まりました。
白バラの見事な刺繍。
その下には「ティファニー」という文字。
ローク様は悪くありません。
ローク様は結婚する前に「君を愛することはない」と仰いました。
それでも構わないと言ったのは私で、分かっていてローク様に恋をした私が悪いのです。
白バラの刺繍がぼやける。
これが失恋の胸の痛みなのでしょうか。
本で読んでいたことをこうして体験するとは……。
汚れどころか皺ひとつないハンカチをぐちゃぐちゃにしてしまいたい。
ローク様の恋が羨ましいです。
私にはローク様のように思う方が他の人と幸せになる姿を祝福して見守ることなどできそうにありません。
私の初恋は苦くて醜い。
衝動のままティファニー様の「綺麗」を私の血で穢してやりたいと思うほどに。
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