苺の甘酸っぱい香りにほろ酔う(ローク)
「若旦那様、コーヒーをどうぞ」
隣室の騒ぎが治まったタイミングで公爵家の執事であるセバスがコーヒーを出してくれた。
「聖堂の騎士たちが来る前に殿下はどうにかご令嬢を連れ出せたようですね」
「それでも十分な醜聞だがな」
だからこそ母上たちは怒ったのだろう。
「奥様は今日という日をそれはもう楽しみにしていましたから」
「待望の娘だからな」
母上は「花婿の準備は見ていてもつまらないわねえ」と言って隣のルシールの控室に行ってから戻ってこないし、戻ってくる気もないだろう。
「嫁と姑の仲が良いことはよいことです」
「そうだな」
頭に数人、嫁と母親の仲が悪いことに悩む者が浮かぶ。家に帰りたくないのだろう、彼らは一様にやつれた顔をしていて残業が多い。
殿下の側近として婚約者だったルシールとは他の者より接する機会が比較的多かったが、あくまでも比較的で俺はルシールと婚約するまで彼女と挨拶以外をしたことがなかった。
知っていたのは……なんだろう。
「冷血の
ルシールの表情のない怜悧な美貌からつけられた二つ名らしいが婚約してからルシールを知ると、この二つ名がとても似合わないものに感じた。
それは先ほど見たルシールの姿ひとつからも十分分かる。
結婚式だから自分の良いと思うものを新しく作ればいいのに、義母上がデビュタントで着た思い出のドレスを着て、首には母上が大事に引き継いできたアンティークの首飾りを付けていた。
カールトン侯爵家で育ったことへの感謝、そしてこれからソニック侯爵夫人として母上の跡を継ぐという覚悟。
その姿に涙ぐむ者が続出。
公爵家の侍女長などハンカチを三枚も濡らしたらしい。
「花嫁衣裳はもちろん嫁入り道具も奥様は楽しそうに侯爵夫人と選んでおいででしたね」
嫁入り道具は本来花嫁の家であるカールトン侯爵家が選び揃えるものだが、その選ぶのにルシールは母上も誘ってくれた。
そしてルシールは嫁ぐ準備を手伝ってほしいと、普通は自分の母親だけなのに母上まで誘ってくれた。
ルシールは自分のセンスに自信がないからだと微笑んでいたが四歳から王家の英才教育を受けてきたルシールにセンスがないなど誰も信じず、しかし誰もその噓を指摘せず楽しそうな母上たちとルシールを見守っていた。
「若奥様はソニック公爵家の御子がお一人であることから色々察したのでしょう」
「母は俺ひとりを産むのが精一杯だったからな」
公爵家は王家の血を保管する役割を持っており、俺の幼い記憶にはもっと子を持つよう泣きながら父上に妾を薦める母上の泣き顔がある。
父上は母上の願いでもそれだけは聞かず、親戚にも散々言われただろうに母上以外の女性を迎えることはなかった。
「父上に謝罪された」
昨夜、独身最後の夜だからと晩酌に誘ってきた父上にこのことを謝られた。
自分のしたことは公爵であることよりも男としての気持ちを優先させ、結果として公爵家の責務を俺一人に押し付けた形になったからだと。
「若旦那様はお二人を恨んでいらっしゃるのですか?」
「全く恨んでいない。それとは別の理由でくそ爺、くそ婆と思うことはあるがな」
セバスの目がふっと優しくなる。
「男爵令嬢に篭絡されても坊ちゃまは私の自慢の坊ちゃまでございます。じいは安心しました」
「……坊ちゃまと言うな」
***
「先ほどの騒ぎの件ですが、大変申しわけありませんでした」
え?
「なぜ君が謝る? あの原因は君ではなく俺だから、謝るなら俺が謝るべき……か?」
なぜか「謝るべきだ」と言い切れなかった。
どうして……ティファニーの言葉に思うところがあったから?
「私に聞かれましても……恋物語に出てくる方たちはお慕いしている方を侮辱されると怒っていることが多かったので」
「そういうものか……」
俺の言葉にルシールがキョトンとした後、楽しそうに笑う。
これも婚約してから知ったこと。
ルシールはよく笑う。
「恋をなさっているのはローク様でしょう?」
「そう……だな」
恋を……しているのだろうか。
「恋物語のように手に手を取ってお逃げになりますか? ティファニー様は望まない結婚からローク様を助け出そうとしてきたのかもしれませんわ」
これは笑い飛ばしてしまっていい冗談なのだろうか。
望まない結婚。
愛することはないと言った俺がこの結婚を望んでいないとルシールが思うのは自然のことだ。
ではルシールにとってこの結婚は?
きっと聞いても答えは「政略結婚ですから」だろう。
硝子人形の穏やかな微笑からは何も読み取れない。
「お祖母様が小剣を振り回して追いかけてくる図しか浮かばないな」
冗談ということにしようと下手な冗談で応えればルシールの表情が笑み崩れる。
この笑顔を見るのがクセになっている。
「それじゃあお祖母様が待ちくたびれているだろうから行こうか」
「はい。先ほどのこともありますので、より仲睦まじく見せるで宜しいですか?」
ルシールの言葉に同意を示すために腕を差し出すと、にこりと笑ったルシールは俺の腕に手を置いて前を見る。
前を向いたルシールの横顔は静かだ。
先ほどの騒ぎなど大したことではないと言っているその表情に安堵しつつも、胸に何かが
ん?
胸に痞えたものの正体に手が届きそうなところで扉が開き、目に射し込んできた照明の明るさにそれを掴み損ねる。
音楽が鳴り始めたので追うことはできず、軽い苛立ちを深呼吸して宥めると目の前のことに集中する。
この場は次期公爵夫妻として初めてのお披露目の場。
この場にいる全員が俺たちを審査している。
腕に力を入れることでルシールに合図を送れば添えられた華奢な手に力が入り、俺たちは同時に一歩目を踏み出す。
添えられた手の強張りから緊張を感じるが前を見る瞳は凛としていて、強烈な光の中でも足並みは乱れず何十人の視線が突き刺さっても淑女の微笑みを浮かべたまま。
これが王太子妃教育の成果。
隣にいるのは次の王妃になるはずだった女性。
『共に歩く』の言葉の意味をいま理解した気がする。
披露宴会場の上座を見れば国王陛下の代理人として殿下が立ち、その隣には婚約者であるティファニーがいる。
思い返せばティファニーとこうして歩くことを考えたことはなかった。
考えてみればおかしな話だ。
俺たち貴族にとって男女交際は結婚に直結するもので、遊びだと割り切っていれば別だがそれなりの付き合いをするならば結婚も意識しなければならないというのに。
俺は殿下やカイルたちと違ってティファニーと男女の仲にはなっていない。
つまり俺は彼らほどティファニーを手に入れたいと思っていなかったのかもしれない。
結婚したことを寿がれながら考えていいことではないが、もしいま隣にいるのがティファニーだったらこうやって歩けないと思う。
いまティファニーが殿下にくっついているように、ティファニーは俺にぶら下がる様にくっついてきて俺の庇護下にあることをアピールするだろう。
守りたい男と守られたい女。
恋物語に出てきそうなぴったりな組み合わせ。
でも現実はそんな風にはいかない。
いまルシールに守られている感じがして安心している俺が情けない男なだけかもしれないが、男だって隣に心強い存在がいてほしいと思うものだろう?
今まではティファニーに傍にいてほしいと思っていて、今度はルシール?
実は俺は気の多い男なのだろうか。
たった半年だぞ?
ティファニーが殿下の子を宿して、俺の手が届かない存在になったからだろうか。
それとも俺は父上に似て妻となった以上ルシールをそれなりに特別に思うのだろうか。
分からない。
「ローク様」
ルシールの小さな声にハッとして、気づけば目の前にはフレデリックとティファニーがいた。
「結婚おめでとう」
「ありがとうございます」
内心はどうか分からないが殿下の祝いの言葉に俺たちは揃って頭を下げる。
「ローク、このあと少し話せないか?」
「このあとですか?」
殿下が俺から目を逸らして隣のティファニーを見る。
殿下の視線を追った俺と目が合うと、ティファニーは婀娜っぽい微笑みを俺に向けた。
ふわりと蠱惑的な花の香りが漂う。
「このあとは……」
この結婚はソニックとカールトンの強固な繋がりを見せるためのもの。
俺の行動でそれにヒビを……これ以上の醜聞は……。
――― 醜聞ナンテ気ニシナイデ、ホラ、コッチヲ見テ。
ダメ……だ―――。
「ローク様」
!
ルシールの声と……苺の香り?
俺は思わず苺の爽やかな甘酸っぱさを思いきり吸い込む。
「このあとのダンスは私と踊ってくださると約束なさってくれましたわよね」
濃い靄が晴れた視界でルシールの目が「より仲睦まじく。醜聞、だめ、絶対」と訴えていて……ちょっと笑える。
「もちろんだ。今夜の俺は君とだけ、今夜の君は俺とだけ踊るんだ」
……ちょっと気障な台詞だったか?
まあ、いいか。
「より仲睦まじく」と言ったのはルシールだし。
俺が手を挙げて楽団に合図を送ると、それに応じた彼らが若夫婦のために少しテンポの速い曲を奏で始める。
「殿下、このあとのお誘いはお断りさせていただきます」
「あ、ああ……そうだな。無理を言った、忘れてくれ」
殿下の安堵した表情に本人も納得した打診ではなかったことを悟る。
大変だな、と思った。
「御前を失礼いたします。行こう、ルシール」
ルシールをエスコートしてダンスホールの中央に向かう。
本当ならこのあと挨拶だったか……まあ、いいだろう。
「ダンスが挨拶代わりになってしまいましたわね」
「それはいいな、俺はあまり話すのが得意じゃないから」
「私もですわ」
中央に立ち、ホールドすると苺の香りが一層強く漂ってくる。
甘くて、爽やかで。
果実特有の酸っぱさが隠れている、美味しそうないい匂い……って、俺は何を?
「いま聞くことではないがダンスは好きか?」
コミュニケーション能力がぽんこつ過ぎる。
数秒後には踊り始めるというこのタイミングで聞くことか?
「好きですわ。ローク様は?」
「俺は……」
彼女の顔を見て「好きだ」と言うことが憚られる……なぜだ?
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