2-3 鷲尾観月視点
信じられない。
これは夢なのではなかろうか。
ユキがキッチンに立っているのだ。
しかも、トントン、という包丁の音まで聞こえる。
えっ、あいつ、料理とか出来んの? それともただ単に包丁をトントン鳴らしてるだけ……なわけないか。包丁だけトントン鳴らすとか意味わかんねぇもんな。
料理だけではない。
枕元には、ご丁寧に一度開栓して緩く締め直したスポドリのペットボトルがあるし、折り畳みテーブルの上に置かれたレジ袋の中には、風邪薬まで入っているらしい。
どうやらユキは、あのメッセージを見て、駆け付けて来てくれたようである。てっきりメッセージに気づかずいつも通りに飯を食いに来たものだと。
いや、でも、ユキだぞ?
俺がいないと米も炊けない、風呂も沸かせない、洗濯だって「洗剤の量がわからなかった」とか言って脱衣所を泡まみれにしたユキだぞ? そのユキが――、
「カンちゃん、お待たせ。いま起こすから待ってて」
「お、おう」
トレイの上に乗せた一人用の土鍋をテーブルの上に置き、今度は俺の身体を起こしてくれる。
「スポドリ飲んだ? あんま減ってなくない?」
「え、あぁ、飲む飲む」
「寝ながらでも飲めるようにストロー刺そうか。買って来たから」
「そんなものまで……?」
「口移しでも良いけど、さすがに嫌でしょ」
「くっ……!? げっほげっほ!」
「冗談だよ」
いや、お前が言うと冗談に聞こえねぇんだわ! と本当は怒鳴りつけたいところだが、生憎そこまでの元気はない。ケホ、と返事のような咳が出て、「ごめんごめん」と背中を擦られる。何に対しての謝罪なんだ。
「食欲ある? 食べられそう?」
トレイを自分の膝の上に乗せ、土鍋の蓋を、カパ、と開ける。もわっとした湯気の下にあるのは、ネギ入りの卵雑炊だ。
嘘だろ! お前こんなの作れるのかよ! え? レトルト? だよな? まさか一から作ったとかはねぇよな? あっでもさっきのトントンってもしかしてネギを刻んだ音?!
見た感じすげぇ美味そうなんだけど、鼻が詰まっているから匂いは全くしない。だけど、食欲はある。こくりと頷くと、良かった、と呟いてレンゲを持った。かすれた声でサンキュと言い、それを受け取ろうとすると、さっと雑炊を軽く掬って、こちらに向けられる。
「はい、あーん」
「え」
「あ、そっか。ちゃんと冷まさないと駄目か。カンちゃん意外と猫舌だもんね」
「いや、あの」
猫舌云々じゃなくてさ。いい年した男があーんとか、ふーふーとか! ちょっとそれは!
そう思うものの、自分が思っているよりも病状は悪いらしい。レンゲを奪おうにも手が鉛のように重いのである。仕方なく、あ、と口を開けると、「よし」とユキの満足そうな声が聞こえた。
やっぱり鼻が詰まっているせいで味はあまりわからなかった。せっかく作ってくれたのに申し訳ない。雑炊も、結局半分くらい食べたところで身体を起こしている状態が辛くなり、残してしまう。それについてもユキは、「良いよ良いよ」と笑った。
「辛いかもだけどもう少し頑張って。あともう薬だけだから」
声を出すのも億劫になり、小さく頷く。
熱はまだ高いままだろう。頭も痛いし、視界もぐわんぐわんだ。市販薬の錠剤を口の中に突っ込まれ、水の入ったコップを口に当てられる。マジか。ここまでされんのか俺。水くらい自分で、という気持ちはあるんだけど、これがどうにも。
とにもかくにも飯は食った(食わせてもらった)。
薬も飲んだ(飲ませてもらった)。
あとはひたすら寝るだけだ。
ここまで来たらほんとマジで後は俺一人で大丈夫。
身体が弱っているせいか、何だかかなり心細いが、なんてことはない。だって普段から俺は一人暮らししてるわけだし、毎晩一人で寝てる。ただちょっと身体が重くて、熱っぽくて、頭と喉が痛くて、柄にもなくなんか寂しい気がするだけで。
「少し寝た方が良いよ」
「悪いな」
「おれ一旦帰るね」
「……おう」
わかってはいたし、そのつもりではあったけど、ほんの少しだけ帰らないで欲しいと思ってしまう俺がいる。最後に熱を出した時は実家だったから、そこには当たり前のように家族がいた。「お腹出して寝てるからよ」なんて小言を言いつつも、心配してくれる人がいたのだ。
「そんな顔しないでよカンちゃん」
「え」
「寂しいんでしょ」
「別に」
ユキは全部お見通しだとでも言わんばかりに、俺の顔を覗き込む。
「一旦、って言ったじゃんおれ」
「は?」
「ちょっと荷物取りに帰るだけだよ」
「荷物?」
「そ。おれ、カンちゃんが治るまでここに泊まり込むから。着替えとかスマホの充電器とか色々持って来る」
「治るまで、って。そんなそこまで」
「良いじゃん」
「だってうつるかも」
「だとしたらどうせもう手遅れでしょ」
「だけど」
「良いから。おれがしたくてするんだから」
「したくて、って……」
お前絶対看病なんてしたくないだろ。そんなキャラじゃないじゃん。お前いっつもゴミまみれの部屋でだらだらしてるだろ。
「好きな人の看病なんて、絶対にしたいに決まってるじゃん」
「……っ、す、好き、な?」
「おれ言ったよね? カンちゃんのこと好きだって。これからおれのこと好きにさせるって」
「言った、けどさぁ」
「だから、バシッと看病して、恩を売っとこうと思って。つまりは、ほぼほぼ下心だね」
「下心とか、それ言っちゃうのかよ」
「そういうのは正直に言った方が良いかなって」
なんて、いつもと変わらぬ無表情である。結構恥ずかしいこと言ってるような気がするんだけど。
「というわけでおれ、いまカンちゃんにめちゃくちゃ恩売ってるから。全快したらご褒美ちょうだいね」
「ご褒美って何だよ」
内容によっては、まぁ、聞いてやらんこともないけど。ただこいつさっきも言ったけど俺に告白してきてるんだよな。えぇ、どうする? なんていうか、その、ソッチ系のだったら。俺の貞操が危ない。
「そんな警戒しないでよ。別にキスとかハグとか、それ以上のこととか、そういうんじゃないから」
「そ、そうか……」
「さ、とにかく寝て寝て。おれ、またすぐ来るから」
キスでもハグでもそれ以上でもないとすると、一体何なんだ。気になるところではあったが、そんなことばかり考えても仕方がない。何にせよ、早く治すに越したことはないのだ。このままずるずる長引けばクリスマスだけではなく年末の予定がパーである。
年末は特に忙しいからな。
この部屋とそれからユキの部屋を大掃除して、さすがに本格的なやつは無理だけどちょっとおせちめいたものと、それからお雑煮を作らなければならない。確かこないだ届いた荷物の中に切り餅が入ってたっけ。ユキ、餅好きなんだよなぁ。
そんなことを考えながら、俺は眠りについた。
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