死体が染める二人の未来

平賀・仲田・香菜

死体が染める二人の未来

 それはアスファルトの壁に打ち上がった花火のようで。

 当時、就学を始めたばかりの私にとって、世界で一番美しい景色に見えていた。

 トラックのタイヤに引き裂かれ、真っ赤なスポーツカーに跳ね飛ばされた猫はコンクリート塀にぶつかると原型もなく、数え切れないほどの肉片と名前もわからない内臓に分割された。無機質な鼠色は鮮血に染まり、飛び散る血が描く模様は花。

 猫の人生を体現した一枚の絵画か、それとも一編の短編小説か。僅か一メートル四方に広がった猫の死体はそれくらいに雄弁であり、気付けば私は涙を流していた。

 死んでしまった猫が可哀想に思っただとか、凄惨な現場を目にしてショックを受けただとか。決してそのような理由ではなかったと記憶する。

『きれい』

 胸打つ偉大な絵画を眼前にしたとき、アスリートやスポーツ選手の歴史的活躍をその目にとらえたとき。私の涙はそれらと同じであった。

『中身って、きれい』

 毛並みも目付きも悪い、糞尿や生ゴミの臭いを携え、低い声で唸る不細工な野良猫。よく公園で見かけたから知っている猫。嫌われ者、そんな言葉がよく似合っていたのに。外観の美醜とはそれ自身の中身とは関係がないものなのだと、私は唐突に理解していた。

 そして、その場から動けずに涙する私とは対照的な少女がいた。

「汚れちゃった」

 無表情で猫の死体を一つにまとめる少女。彼女は私の幼馴染みであり、名を小夜といった。

 彼女は道の端に死体を運び、べっとりと血に塗られた手のひらを舐めた。

「変な味がするよ、咲ちゃん」

 その姿は鮮烈で、私が目にした世界で一番美しい景色をほんの数分で更新することなどあまりにも容易であった。


 芸術の選択科目を間違えた。高校の一学期終了間近に私が体験に基づいて導いた結論である。

 私が通う高校は、音楽、書道、美術の何れかを芸術系科目として選ぶ必要があった。

 しかし、クラシックを鑑賞して得る感想など眠いで終わるし、九成宮醴泉銘を臨書する集中力などはもってのほか。私の絵が人前に晒されることなど想像しただけで身震いする。

 選択という行為はいつも私を惑わせ憂鬱を連れてくる。

 後ろ向きな消去法は私の常であり頼りの綱。最もやりたくないことから逃げつつ、次にやりたくないことにも背を向ける。そもそもやりたいことからして存在しないし、逃げ切れなくなってようやく、やらなければならないことと直面する日々を送ってきた。

 どの教科も積極的選択をすることはしたくなかったが、結局は美術を選ぶこととなったのが一学期の始めで、後悔している今は学期末である。

 悠々と放課後に帰宅する同級生を恨めしく見つめる一団は私を含めて美術室にあった。どうやらこの高校における正しい選択は音楽と書道であったらしい。ゆるゆるの教師に、なあなあの課題。居残る生徒など一人もいないと話に聞く。

 夏真盛り。私は一学期美術の課題が終わらず、十数人の同士と共に居残りを余儀なくされているのである。

「どうして美術なんて選んじゃったのかなー? 皆の話をちゃんと聞いとけばよかったよ」

 教室の中心から発せられた声は、小夜のものであった。声の相手は私ではなく、他クラスの友人のようだった。

 小夜と私は小、中、高校と同じ道を辿っているがその実、親しい関係とは言い難い。幼い頃はよく一緒に遊んでいた記憶もあるが、最近では距離が離れてしまった。私が距離をとり始めたからである。だってあの子はいつも人気者で、クラスの中心にることが常だからだ。

 それに比べて私は、教室の隅で。

「不恰好な手」

 自らの左手を見つめながら独りごちる。

 鶏がらの様に痩せ細った腕に血色の悪い手のひら。磨き上げる気にもなれない爪はぼろぼろだし、栄養もきっと足りていない。

 わざわざ、じいっと見るほどのものでもないのだが、そうせざるを得ない。自分の好きな身体の一部を粘土細工する。それが美術の課題だからである。

 この課題がクセ者で、適当な作品を提出してはやり直しを要求される生徒の多いこと。何を隠そう、現在教室で居残る学生は例に漏れていない。

『モチーフの観察が足りていない』

 提出作品に添えられたダメ出しである。それはそうだ。こんな左手を作りたくなんてない。自分の身体で好きなところなんて一つもないのだから。

 モチーフに選んだ左手は言わずもがな。パサついた髪を一つに結んだ髪型もダサいし、吊り上がり気味の目は鏡を見るたび嫌になる。性格も外見も暗い、教室の隅で一人きりの、痩せっぽちの自分が嫌いだ。特段頭の回転が早いわけでもなく運動も並。弁も立たないしユニークさも持ち合わせない。そんな自分をどうやって好きになれというのか。

「はあ」

 ため息を吐くと思ったよりも大きく、周囲からの視線を感じる。しまったと感じてもそれは後の祭り。慌てて目を伏せるが、偶然の刹那、小夜と目が合った。

 小夜。彼女は口元を粘土細工しているようだった。自らの顔面の一部が好きな場所とは恐れ入るが、それは納得できる選択でもある。同性の私から見ても、彼女は大変な美人であるのだから。

 背高で小顔、外跳ねのショート。短髪は彼女の顔面を強調する。整った目鼻立ちは人形のように精巧である。さらに眼を奪われるのは、やはり口元であった。薄く桜色の唇は否が応でも見入ってしまう。

 美人でクラスの人気者。私が小夜と距離をとった理由はそこであった。私のような人間が彼女の側にいることはきっと、後ろ指を指される原因にしかならないだろう。

 だから、私は彼女の隣には立てない。

 実際のところ、小夜と二人でいると気味の悪い視線に晒されることもままあった。私は嫉妬と暴力に立ちはだかるにはあまりにも弱く、逃げ出してしまう卑怯者でしかないのだ。

 鬱屈と惨めな気分に襲われるたび、課題の手は止まる。モチーフを観察する振りをしながら、左手を遠くの小夜に重ねる。それで彼女の全身が隠れてしまうくらいに、私たちの距離は大きい。少し前までは彼女の存在で景色が隠れるくらい近くにいれたのに。


 太陽が沈むほど、一人、また一人と帰宅する。教室が橙色に染まる頃には、残る生徒はたったの二人になっていた。私と小夜だ。

「ねえ。咲ちゃん」

 小夜の声。私に向けられた言葉。

「私もそっちでやっていい?」

 教室の中心から隅の私へ。西陽は低く小夜を刺すが、その顔は影に落ちる。

「一人でやりたいから」

 脳と口は直結していないのだとわかった。二人きりならば他人に気兼ねすることもない。多少のコンプレックスは刺激されるかもしれないが、久しぶりにゆっくりと話をしたい気持ちは間違いなくあるのに。

 小夜は、そう、と小さく呟いて作業に戻ってしまった。

 本当に私はよくない人間だ。外見が不恰好ならば内面までそうなのか。素直に、笑顔で、受け入れればどんなによかったか。

 不細工な左手の粘土細工をヘラで突き刺し、彫刻刀で切り刻みたい衝動。そんなものに駆られる私を、私は好きにはなれない。

 そもそも作品を壊しては居残りの意味がない。心鎮め、彫刻刀で細部を整える。作り物とはいえ、自らの手を形どる作品に刃物を立てる背徳感は鼓動を速めた。

 もし力を誤れば作品に穴を。もし手を滑らせれば自らの左手に傷を。

 鋭利な刃物は私の皮膚など簡単に切り裂くだろう。皮膚どころか肉と血管を引き裂いて、鮮血を見せるかもしれない。自らの血を見ることなど珍しくはないが、それは気分も沈んでいることが多く、全身を巡る生きた鮮血を目にする機会は少ない。

 こんな私でも流れる血は美しいのだろうか。生き続ける内臓は鮮烈だろうか。私だって、内側ならば美しくなれるのだろうか。あの花火のような景色の如く。

「いたっ」

 集中力を欠きながら刃物を扱うべきではなかったと自戒する。私の左手、人差し指からは真赤な雫が滴っていた。落として床に転がる彫刻刀も血の色に染まる。

「大丈夫?」

 小夜は駆け寄って言葉をかけてくれる。先ほど拒絶された相手をも心配できる彼女は優しい。

「平気。そんなに痛くないし、血もすぐに止まると思う」

 ひらひらと無事な手を振って健常を強調する。しかし、小夜はそれでも気にかかるようで。隣の席に座り、私の手をとって言った。

「ちゃんと手当てしないと!」

 流れる血など意に介さないようで小夜の真白い指までもが赤く染まっている。まるで新雪に初めて足を踏み入れるような気持ちが湧き上がる。

 彼女の目はまっすぐだった、眩しささえ覚える。私の身を本気で案じている言葉。正直でまっすぐで本気で。だから彼女は人気者でいられるのだ。

 手当てを提案してものの小夜は動かない。じっと私を、私の傷口を見つめ続けている。どうしたものかと彼女に声をかけようとしたそのときである。

 くう、と子犬の寝息のように可愛らしい音が教室に響いた。小夜の腹の音である。みるみるうちに小夜の頬は赤く染まり、握る手も熱を持ち始めることを感じる。

 鞄に潜ませる菓子でも食べるかと提案しようと口を開いたが、出てきた言葉はやはり脳と直結していなかった。

「血、飲みたいの?」

 世界で一番美しい景色がフラッシュバックし、現在の小夜と重なる。

 小夜は一瞬目を見開いたが、一つ頷くとそのまま私の指を咥えた。

 傷付けた左手の人差し指は熱かったが、小夜の口内はさらに熱い。火傷をするのではないかと錯覚するほど。彼女の柔らかく桜色の唇も燃えるような赤に染まった。

 教室は無音で、この世界には私たち二人しかいないと錯覚するほどに静かだ。響く音といえば小夜が私の血液を喫し、小さく脈動する喉だけだった。

 数分の後、出血は止まり時間が動きだす。口を離した小夜は自分の鞄を胸に抱き、何も言わず教室から走り去ってしまった。

 残されたのは私。そして、小夜の作りかけの作品、彼女の口元である。片付けてやろうと手にとると、それはずしりと重い。何の気なしにその唇をなぞると、私の最後の血液は彼女を赤く色付けてしまった。


 翌日の昼休み、やはり小夜は中心に位置していた。彼女が広げたお弁当は波紋である。小夜の弁当を中心に友人たちが集まり、時間が経つにつれてその輪は大きく広がる。

 私などは隅の小石であり、波紋が広がるのを邪魔する異物でしかなかった。

「昨日も作品が終わらなくてさ、また放課後は居残りだよー。だから先に帰っててね」

 小夜の発言に一喜一憂するクラスメイト。きゃあきゃあと子猫のように戯れ合う彼女たちへ湧き上がるこの気持ちを、私はまだ知らなかった。濁った水溜りのように仄暗く、澱んでいる。

 この暗い感情が向かう相手は小夜か、その取り巻きかすら定かにならず、私は下に俯くことしかできないでいた。

 周りの子たちは、小夜をどれだけ知っているのだろうか。小夜の整った顔面、社交的な明るさに惹かれているだけなのではないか。小夜の手を握るあの子も、肩を叩くあの子も。彼女たちは小夜の何を知っているものか。

 私は、それに比べれば、私は。私の血が小夜を流れている。身体を巡り、現在の彼女を構成する一部となっているはずだ。

 私が小夜の一部に。あんなに眩しくて美しい小夜の一部に。

 この事実は私をどうにも昂らせるようで、思い浮かべるだけで口角の上がることを抑えられない。そんな私はやはり俯いているしかなく、感情の正体は未だ測り知れないでいる。


 午後の授業もそわそわとどうにも落ち着けず、放課後には一目散に美術室へ向かう私がいた。大股で、早足で。多少の衆目も感じたが、それすら意に介さないほどであった。

 早々に課題を終わらせたいのは勿論だが、初めての感情に精神が焦る方が大きかった。それを取り除くか如く左手の粘土細工を整える作業に没頭する。席は定位置、教室の端っこである。

 数分もしないうち、静かにドアが引かれる音が響いた。私を除いた課題の未提出は一人しかいない。小夜だ。彼女は着手中の作品を片手に、私の一つ前の席についた。

 目の前に広がる小夜の背中は、想像するよりもずっと小さく感じた。

「あれ?」

 小夜は小さく呟いた。自身の粘土細工に違和感を覚えたよう。そうだ、私が彼女の作品を血で汚していた。唇を赤く染めていた。それを拭き取ることをすっかりと失念していたのは不覚としかいいようがない。

「きれいだな」

 しかし、小夜が発した言葉は意外であった。彼女は私により血塗られた唇をきれいと形容した。紅を差したといえば聞こえはいいが、その実は血液であり、世間一般では汚れというべきものである。

 私の血液を口にし、さらにはきれいと称してくれた小夜。なぜ彼女は、私が勧めるがままに血を飲んだのだろうか。

 私の考えが堂々巡りを始めたそのとき、小夜は振り返った。

「咲ちゃん」

 涙ぐんだ上目遣いで、頬を真っ赤に染めて。

「今日も、いい?」

 蚊の鳴くようなとはこのことか。小さくか細い、母親に謝罪するような弱々しい声。

 彼女が求めていることは容易に想像できる。私は左手の中指の腹を彫刻刀で小さく切り裂き向けると、小夜は優しくそれを咥えた。

 時間はまるで永遠のようだった。ずっと前から、私たちが小さな子どもだった時から連綿と続いている行為のように錯覚するほど。

「美味しい?」

 私が尋ねると、小夜は小さく頷く。その目は艶っぽく潤み、垂れ下がった目尻は恍惚としていた。

 私の血が、私の中身が小夜を虜にしているのだと自覚するたび、私は精神の高揚を感じていた。興奮はより強く血液を傷口から押し出すようで、必死に指を吸い続けている小夜は赤ん坊のようにも見えた。

 無限にも感じたこの時も終わりはくる。私の細胞も仕事をする。血液の排出も陰りをみせ、小夜も名残惜しそうな様子で口を離した。

 唇を血で染めた小夜の姿はあまりに煽情的で。現代に現れた吸血鬼そのもの。やはり血を口にする彼女は世界で一番美しい存在であった。

 それなのに小夜の表情は段々と暗く憂い、弱々しい言葉を口にし始めた。

「咲ちゃん。咲ちゃんは私のこと、気持ち悪いって思わないの?」

「馬鹿馬鹿しいことをいわないで」

「だって、私は血を飲んでるんだよ? 人の血を飲んでみたくてたまらないんだよ? 友達に相談をして、拒絶されたことだってあるんだよ?」

 小夜はほとんど泣いているのと同じだった。いつもクラスの中心で、皆に憧られて、美しい小夜が。こんなにも弱音を曝け出すものか。

「小夜こそ、私なんかの血でよかったの?」

 私の問いかけは、彼女にとって意外なものだったようだ。少し不思議そうに応えた。

「咲ちゃんの血はきれいだよ」

「血がきれい?」

「うん。生命の色。生きている赤。世界で一番きれいで、美味しそうな色」

 もし私が、私の血がきれいだというのならば。私は小夜の隣にいてもいいのだろうか。私の身体を巡る血は、小夜自身のようにきれいなのだろうか。小夜は、血に塗れた私をきれいだと言ってくれるのだろうか。

 煮え切らない頭に拳を強く握ると、食い込んだ爪は新たな傷をつける。手のひらを滴る血液は波紋のように机上を広がっていく。その様子はまるで夏の花火だった。

 それを見てあの日の花火がフラッシュバックしたのはきっと私だけではないはずだ。世界で一番美しい人と見た、世界で二番目に美しいあの景色。

 血の気が頭からも引いたのか、冷静になった私は唐突に昼休みの感情を理解するに至った。そう、あれはきっと。

「小夜。貴女は吸血鬼みたいね」

「血を飲みたがるから? でも私はただの人間だよ?」

「それだけじゃないわ。私は貴女に魅了されているの。二人で猫の死体を見たときから」

 今にも泣きじゃくりそうな少女の泣きすするような声で、小夜は言った。

「咲ちゃんは私の全てを肯定してくれるの?」

 私は滴る血に染まった指で自らの唇をなぞり、血液で紅を差す。そして深紅の口を開き、伝えた。

「私の中身、全てを貴女にあげる」

 小夜は虚ろな目で私を見つめ、子守歌のようにゆっくりと唇を合わせた。

 優しく啄むように唇の血は舐めとられた。それでも、もっと、もっと、と駄々をこねるように求められるように私たちは交わり続ける。互いの舌が求め合う様は、さながら別の生物による交尾のよう。

 口内に滲んだ唾液も全てが舐めとられる。しかし小夜が本当に欲しがっているのは唾液ではないことは明らかだ。

「ーー!」

 私は自らの舌先を数ミリほど噛み切った。肉片は小夜の口内へ送り、断続的に流れ出る血液全ては小夜に捧げる。私の肉は小夜の一部になったのだ。

 刺すような鈍痛に涙が滲むが、目の前で恍惚とする彼女の表情には変えられない。

 そう、私の全ては彼女のために。

 刃物で肌を切るのもいいが、全身に爪を立てて血液を舐めさせるのもいい。首筋に思い切り犬歯をたてさせるのもいいかもしれない。

 きっと私はこれから、生傷が絶えない生活を送るのだろう。だけど問題はない。優柔不断な私がくだした前向きで積極的な選択。何があろうとも小夜の隣に立ち続けることを選んだのは他でもないこの私なのだから。

 それに、私の愛する世界一美しい小夜は、隣に立つ私を美しいといってくれるのだろうから。

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