第六章 画竜点睛

 飛行機とバスを乗り継いでようやく目的地近くまでたどり着いた。僕の地元を通り過ぎ、さらに一時間ほど車を走らせた海岸沿い。田舎の港町の少し外れにある、寂れた旅館。

 僕が子供の頃に家族旅行で来て以来、人生を終わらせるならここにしようと決めていた。潮風が心地よく吹き、昔ながらの空気感が漂っている。波がうねるたびに光がキラキラと反射し、満天の星空のようで心が洗われる。

 六月の終わり。立派な夏へとなるために、季節が泣きながら少しずつ成長する。僕は自殺する。


 入水自殺に決めたのはしばらく前だった。自殺界隈では首吊りが最も楽に死ねるなどと噂されているが、それを吹聴しているのはまぎれもなく生者であり、死人に口なしである。苦しまずに死ぬ方法などない。自殺とは最期の試練なのかもしれない。生命力の振れ幅が弱まって完全に零になる前に、自分の最期は自分で決めたい。それに、海で死ぬことに憧れがあった。母なる海に体を還すことで、世界と一帯になれる気がした。深い深い海の底でたゆたいながら、魚に少しずつ蝕まれ、消えていく。死んだ後などどうでも良いはずだが、死体が残る死に方は未練も残りそうで嫌だった。

 今は遊泳禁止になっている浜辺に、立ち入り禁止のチェーンを乗り越えて踏み入れる。月明かりに照らされた砂浜は白く幻想的に輝き、一方で海は黒く轟々とうねっている。陸と海を生きることと死ぬことと見ると、砂浜はそれらの境界線ということになる。僕は乱雑に捨てられたビールケースを逆さまにして椅子代わりに座る。

「なあ」

「なんですか?」

「これで良かったのかな」

「怖いんですか?」

「少しね。ただ、それよりも、やるせないんだ」

「死という絶対的なことわりがあるからこそ、不確かな存在が肯定できるのです」

「僕は本当はどうでもいいんだ。生きることも、死ぬことも、どうでもいい。ただ、積み上げた砂の城が少しずつ波にさらわれていくのをいつ崩れるのかと心配しながら黙って見ているよりも、いっそ自分の手で壊した方が安らぐと思った。画竜点睛がなんなのか未だによくわかっていないけど、退屈しのぎにはなったな」

「竹見さん……」


 視界の隅にのこぎりドラゴンが現れ始めた。輪郭がぼんやりと浮き出て、境界線がはっきりしてくると、鈍い虹色がオーラのように周囲に漂い、空間を押し広げながら空を泳いでいる。ギラギラ光る油の虹がダマになり、大小の水玉がくっついてはちぎれ、新たな生命を作り上げようともがいているかのようだ。

 大きな波が打ち寄せて、僕の足元が海色に染まる。地球という一つの大きな生き物が脈打ち、のこぎりドラゴンを揺り動かす。

「そろそろですね」

 有機的な命の波が幾何学模様に変換されていき、砂嵐になったかと思えば、背景と同化した半透明のまだら模様が時計回りに回転し始め、それぞれの点が尾を引いて他の点と重なり合い、無数の同心円が加速していくにつれ大きくなり、じりじりと近づいてくる。いつもの夢と同じだ。視界を全て覆い尽くす直前で真っ暗になった。これが導関数のシミだったのか。そしてこれがのこぎりドラゴンの瞳。僕とミキ、汚れた手と手が触り合って初めて見えた命の形。のこぎりドラゴンが導関数のシミを目掛けて飛んでいく。僕も後を追いかける。の足跡を砂浜に残し、は海に入る。

 腰まで水に浸かった。六月の夜の海は思っていたよりも冷たく足がすくむ。死にたくないという本能が脳の命令にいちいち突っかかってくるように体が不規則な動き方をする。遠くから見る海はキラキラ輝いていたものの、中に入ってみると荒々しく濁っていて一種の同族嫌悪のようなものを感じるが、一周回って和解するとほのかな優しさを感じた。ミキが何か言っている。しかし、波の音にかき消され聞こえない。直後、大波が押し寄せて、僕を浮き上がらせて、そして叩きつける。頭まで潜った。海水が鼻に入り、鼻の奥が焼けるように熱くなる。息継ぎしようと頭を海面から出すが、同時に波が来て水を飲んでしまい、熱さが胸にまで広がる。潮が目にしみて暗闇の中、上下もわからなくなりもがき苦しむ。

 これは罰だ。体がふるい落とされて、中から魂が出てこようとしている。のこぎりドラゴンになろうとしている。しかし体はそれを許さず、魂を引きずり下ろそうと、そうでなければ単にこの苦しみから逃れようと、みじめにもがきあがいていた。二十五年連れ添ってきたこの体の異物感に慣れることはとうとうなく、最期まで抗ってくることにもはや愛らしさすら感じ、その抵抗を上回る自我で海底へと沈み込む。海の底から水面を見上げる。月の光がぼんやりと揺れ動く。満月には少し早い楕円形の月が瞳のように見えた。

 のこぎりドラゴンは自らの尾を飲み込み環となり、虹色に強く輝いている。完全、永遠、無限、そして循環。その象徴たる竜は、僕を無限の入れ子構造へといざなう。生きる理由も、意味も、価値も、全てが無限遠に消えていき、僕はただぼんやりと微かな快楽に心身を溶かす。

 不意に、誰かが僕の手を触れる感触があった。誰かの手が僕を強く引っ張る。冷たくなった僕の手が、同じように冷たい手と触れ合うことで、お互いの儚さを認め合い、許し合い、進み合う。二人ぼっちの泡の中で、光なのか闇なのかもわからない場所へと踏み出していく。


 気が付くと僕は浜に打ち上げられていた。砂混じりの水を吐く。僕は死んだのか? いや、生きている。ミキはどこだ? 画竜点睛はどうなった?

 視界の遠くにのこぎりドラゴンが小さく見える。小さなのこぎりドラゴンのさらに小さな顔には、黒い瞳が確かにあった。心の中に直接声が聞こえた。

(私を殺してくれてありがとう)

 のこぎりドラゴンは竜ではなく蛇だった。画点睛ではなく足だった。僕の人生は蛇足だ。これまでも、これからも。だが、それで良い。

 いつしか日が昇り、世界に再び色が付く。日の光がとてもまぶしかった。

 長い夜が明けることは安心であり憂鬱であるが、今回は、「憂鬱であるが安心である」、と表現したい。

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のこぎりドラゴンと導関数のシミ たらこはたらこ @tarakohatarako

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