第五章 準備

 強烈な夢を見た。トンネルの多重ロックを解除。エスカレーターを上り下り。行き止まりで引き返し後ろの奴らも引き返す。水色にピンクの油のダマ。ザクロやダリア。木の船に水が染み込む。最下層の正解の穴の出口で外を盗み見る。階段の上の人影と目が合う。直後に大波で水没する。目が覚める。


 喉が渇く、腹が減る。球の重心がずれているせいで夜が長い。僕は起き上がる。

 夜中のキッチンには不思議な魅力がある。冷蔵庫のノイズがその要因の一つだろう。空気がすっきりして時間の流れがサラサラしている。自己の同一性を感じる。赤外線カメラ。眠れずに思考に身を委ねていると必ず沈んでいくが、夜中のキッチンでは一時的に楽しい気持ちになれる。トリガーハッピー。

 いちごの香りがどこからともなく現れる。漂ってくるのではなく目の前にいきなり現れる。まるで本物の感覚でしばらくの混乱を引き起こした後、たちまち消え去っていく。そういった体験が最近何度か起こる。初めは本当にいちごが近くにあると思い、潰さないようにと探し回り、香りが忽然と消えるとどこかに移動したのかと思った。もしくは鼻がいちごになったのか。

 この前調子が良かったときに、新しい考えが次々浮かんできて脳内処理速度を超えてしまうほどで、星が矢のように動く感覚で、とても気持ち悪くて気持ち良かった。この頃は暑いのと寒いのとが同時に来て、手のひらだけ汗がだらだらと出て、それでいて胃の中の重りが相変わらず居座る一方でワインのコルクできりきりして、これはこれで悪くないともそう信じて。


 芝刈り機の爆音で頭がおかしくなりそうだった、もしくは既におかしくなったのかは定かではないが、気晴らししようと散歩に出たら雨が降ってきて出鼻をくじかれる。これ見よがしにちらつくデデキント切断。享年は数え年だから満年齢より二年も大きいときがある。セミファイナル。後をつけられている。アニーの赤髪のような血便が出る。陸上のトラックは反時計回りであるが、散歩でも向きは決まってるのだろうか。自然じゃない白さ。市民プールで面倒ごとになったら面倒だから変に意識して回れ右してかえって怪しまれる。どこへ行ってもお前がつきまとう。売り手市場で敵前逃亡。出ない。

 夜の街を歩いていると、自分の足が勝手に動く。僕は僕の後をついて歩く。月は雲に隠れていて、その満ち欠け具合はわからない。絶望による副作用で消極的完璧主義になった僕は、何かを楽しむのに最も必要なのは計画性だという結論にたどり着く。時間に縛られない人間は社会的に死んでいる。負の感情だけはいっぱしに出しゃばって、チックでおまじないのリズムを誤解しないでください。それが当たり前で、当たり前かどうかとすら考えないのが当たり前なのは百も承知で、反証可能性がないことを杞憂する前にやることがあるだろう。


 気付けば自宅で、時刻は昼だった。終わってみれば大したことではなかった。蛆は列をなして行儀良く並び、それぞれの穴に収まっていく。始まる前からわかりきっていたことだ。やってみればわかること、むしろ考えすらせずにやっていることを、無駄に考える。自分は他の人が考えたことがないことを考えていると思っているが、他の人にとっては考える必要がないと考えた結果による選択的思考停止であることに僕は気付いていなかった。

 言葉で泥団子遊びして気を紛らわす。群青色の寂寥感。オレンジ色の宇宙。鼓動と共鳴する蛍光灯。空気で膨れた残りわずかのマヨネーズ。

 効率的な現実逃避手段が欲しかった。何か一つでも極められたら楽しいだろうなあと隣の芝はパホイホイ溶岩。気持ちの静止摩擦力とは言い得て妙だ。納得できるならたとえ財宝があと数センチの所までで引き返してもそれで良い。箱庭の中で人形劇なんかして何になる。


 遺書でも書こうと机に向かう。文章で狂気を表すのは難しい。文字を書くことが負の狂気度だから。強い言葉を使ったり「あああああ」とか書き殴ったりしても真顔なのが透けて見える。衒学的なのも滑稽。論理的で共感できるのにどこかずれていて、それでいて冷静さと必死さが同居している、人間味を漂わせて予想不可能なことを予想可能な文章が狂気的な文章だと思う。

 遺書の代わりに小説でも書こうか。冴えない男が自殺するまでの物語。その小説の通りに僕も自殺する。もしくは僕は既に小説の登場人物であり、誰かが僕の人生の作者なのかもしれない。


 芋虫の子供のようなものが無限湧きする。直近の危機管理は豚肉がやけにおいしく思えた。流れ作業のように皿から胃へと運ぶ日々で、菓子パンはまさに爆弾だ。筑波山の弁慶七戻りに似た不安定な岩は全国的には決して珍しくはなく、ミミズが干からびるのを横目に夜になってから鳴き始めるセミの滑稽さには若干の憎たらしさすら感じる。工場の機械音が止まり昼休憩に入る前後、缶飲料のリユースで表面が少しざらざらする気がする。

 カーペットで自生する神。テントか椅子か段ボールか。サングラスで妥協? どれが革新的な飲み物なのか。団体御一行にほんの少しのビタミンC。習慣付けられた糖衣構文。涙を受ける器もない。何も利己的な愛欲を否定したいのではない。粉々になるほどの荒々しい破壊衝動でも、一滴残らず絞りつくす蹂躙衝動でも、それをもっともたらしめるだけの都合の良い社会性を持たせる努力か、もしくは屈託なくその欲求に従う交換可能な理性を手に入れる努力かをすれば良い。そのどちらもせずに、逃げることすらできず、そして泣き叫ぶこともできず、ただ指をくわえてじっと耐えているだけ。


 思考がさらに加速する。賢者がかぼちゃで八対一気取って難解な言い回しを使う弱さを隠すために正当化傷をなめて慰める夜中に残飯あさりしじみはまぐりもずくひじきわかめ回想シーン葉桜に毛虫大量砂糖山盛り三杯かえって栄養失調これでもかと熱いからたまにはしょうがない潰しにくいつるつるリュックが片寄る底じゃなく上部に重いものを入れてパンクして歩きで月ぎめの玄関前の視線建て壊し途中の休憩親方平屋で魔改造方や飛び降りの目論見あてどなく暗闇結局虫坂道を降りては昇り南に追い越されカラカラのコンビニで小銭を惜しんで豚こま三割引き特製きゅうり漬け立ち読みで血管が詰まる南中高度黙って喚く実況冬煌々とまぶしいカーテンレースのnotfound必ず一階に戻す丁半善意電気代潜在的紙魚消えたどこで間違えた渡りにくい時計回りポストに知らせていない――

「大丈夫ですか?」

 ミキが僕の顔を覗き込み、心配そうな顔をしている。

「もう少しですからね」

 ミキは僕の背中をさすり、ほほえむ。

 珪化木の最先端ミーアキャット。トロピカル風呂工事。有邪気クリック音。がんじがらめの自己認識。

 生きて苦しんで、苦しんで生きて、苦しんで苦しんで。

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