第四章 意見交換

 ミキと話しながら街を歩く。周囲の人々が怪訝な表情でこちらを見る。僕は気にせず歩き続ける。あれから数日、ミキによって悟り――悟りと言うほどかしこまったものではないが――を開いた僕は、人生の景色が一変した。考え方や物の見方、世界の構造そのものが変わったかのようだった。僕は仕事を休んだ。辞めると言ったが引き止められ、休職という形になっている。だが僕が再び職場に行くことはもうないだろう。仕事にやりがいや社会とのつながりを見出す人種もいるが、それは後付けの理由でしかなく、僕にとっては生きるのに必要な金のためだけだった。ファミリーレストランに入る。


「いらっしゃいませ、お一人様ですか?」

「いえ、二人です」

「ああ……ではボックス席へどうぞ」

 席に案内され水が入ったコップを差し出され、店員が離れていくのを見てからミキに言った。

「本当に他の人には見えていないんだな」

「私のことですか? 私は物理的にこの世界に存在しない幻覚のようなものですからね」

「敬語はやめろと言ったじゃないか。ミキは僕自身なんだから」

「いいじゃないですか」

 僕は水を一口飲んで続ける。

「ミキが僕なら、どうしてミキは女性なんだい?」

「そりゃあ女性の方が物語的にいいでしょう。ボーイミーツガールは定番ですから」

「なんの定番だよ。それに僕もミキもボーイやガールという年齢ではないけどな」

「竹見さんが想像力不足なせいで私は男物を着ているんですよ、まったく」

 呼び出しボタンを押し、チキンステーキを注文する。ミキは何も注文しないようだ。それもそうか。

「僕はずっと思っていたんだ、世界は理不尽だって。いちいち人に聞くなと言いつつ勝手に決めるなとか、愛してると言いつつそんなんじゃ生きてけないぞとか、生まれてきてくれてありがとうと言いつつ世の中甘くないとか、差別するなと言いつつ差別をする人間には差別してもいいとか、寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容になるべきだとか、多様性をなくす多様性を認めないことが多様性につながるとか、正解はないのに不正解はあるとか、負けた奴はより負けやすくなるとか、うるさい奴を静かにさせるために自分がうるさくなるとか、キチガイは自分がキチガイだと気付かないとか、怪物から身を守るために自分が怪物になるとか、沈黙は金雄弁は銀とか、楽をするために苦労するとか、死ぬために生きるとか」

「ダブルバインドですね。残念ですけどよくあることですよ。物事には多面性があって、一方向から見ただけだと矛盾していることが多いです。それらのことも、多方向から重ね合わせて見ると正しいことが多いですよ」

 ミキは頭の後ろで腕を組み、上体をそらしながら付け加えた。

「もちろん正しいことが正しいかどうかはわからないですし、その正しさ自体にも多面性があります。理解の入れ子構造には例外がないんですよ」

「よくわからないが、複数の矛盾する考えを同時に受け入れるということ? ジョージ・オーウェルの『一九八四年』内の二重思考のようなものじゃないか」

「近いですけど少し違います。代替可能な消極的否定を、自身から遠ざけるか、自身が遠ざかるかの違いです」

「ああ。だから僕は遠ざけるために考えないようにしている」

「ヒューリスティクスってやつですか? それも正しいというより、結果的な正しさですよね。考えないことを考えているだけで。コストパフォーマンスはいいかもしれないですけどね」

「コストパフォーマンスがいいならいいじゃないか。人生は有限で、面倒ごとを死ぬまで先延ばしにできたらなかったことにしたも同じじゃないか」

「一面的にはそうですね」

「どういうことだ?」

「竹見さんはアイトラッキングが怖い。そうでしょう?」

「僕の心を読むのはやめてくれ」

「私は竹見さん自身なんですってば」

「はあ、ともかく、確かに僕はアイトラッキングが怖い。昔、対戦ゲームで自陣の状況だけでなく敵陣の状況も見ながら行動を把握する技術――凝視と呼ばれていた――を習得するためにアイトラッカーを使ったが、自分の思考を覗き見されている感覚や、考えるという行為が自己参照する感覚で気持ち悪かった。もしも近い未来、思考で操作する媒体なんかが出てきたときに、『考えるぞと考えるぞあれ考える考えってあああああ』となってうまく操作できないと思う」

「ドロステ効果ですね。ビデオフィードバックやハウリングなんかも同じ原理ですね。入れ子構造による自己増幅されたもの、例えばビデオフィードバックなら自己増幅された映像信号の過負荷がカメラやモニターに悪影響を与えると言われています。これが思考だった場合、どうなるでしょう? 自己増幅された思考の過負荷が行き着く先は、先延ばしにした竹見さんだけではなく、思考の入れ子構造を持つ今現在の竹見さんもなんですよ」

「お待たせしました、チキンステーキです」

 僕の前にチキンステーキが置かれる。思考することへの破裂しそうな恐怖がそちらに一瞬それて、間一髪のところで臨界点を回避した。僕は考えることを恐れるように無心で食らいついた。

「いただきます」

「もっともこれらが必ずしも悪ではないですよ。社会不安障害の患者に対してビデオフィードバックを用いた認知行動療法が行われていたり、フィードバック自体は運動、機械、電子、AIなどの様々な分野で有効に使われています。これらは正しく使えれば効果的な手段です」

「どうすればいい?」

「簡単なことです。自分の中に入れ子構造を作るように、自分の外にも入れ子構造を作り、自分自身も入れ子構造の一部になればいいんです。竹見さんの自我は自己増幅された思考の行き着く先ではなく、竹見さん自身は自己増幅の途中であり、仲介者なんです」

「難しいことを言うなあ」

「デカルトの有名な言葉、『我思う、ゆえに我あり』があるでしょう? これが『我思うと我思う、ゆえに我ありと我思う』になって、さらに入れ子構造になっていきます。竹見さんが前者の『我思う、ゆえに我あり』ではなく、後者の『我思うと我思う、ゆえに我ありと我思う』の無数の入れ子構造の中にいればいいんです」

「アンブローズ・ビアスの『悪魔の辞典』か。確かに自分自身も入れ子構造の一部になれば責任や義務などの面倒ごとは自分でない自分に丸投げできる」

「その通りです。自殺しても死ぬのは竹見さんではない竹見さんで、竹見さんはドロステ効果の中で自己増幅し無限に生き続けるのです」

「それはおかしくないか? 例えばビデオフィードバックの場合、カメラがなくなったらモニターには何も映らなくなるし、モニターがなくなったらカメラは無意味になるだろう?」

「そこで画竜点睛です。自殺する竹見さんが不滅の竜となって自由に飛び回ることで全ての苦しみから解放されるのです。竹見さんがカメラでありモニターでもあるんです」

 相変わらず言葉だと意味がわからない。だがミキのことを信じてみようと思う。信じるという宗教用語を僕は使いたくはないが、ミキは信じたい。そして自分自身を信じたい。おそらく社会は同時多発的に発生した泡と泡の境界線を、崇拝と革命と諦観を共依存させてつないだのだろう。祈るということは自分に都合の良い展開を神的な存在に頼むことではなく、同時に理不尽でも受け入れますという諦めでもあるということまではわかったが、それらを両立させる能力が僕にはない。これほど歪んだ世界なのにこれほどバランスを保てるのは個人の力がとてつもなくちっぽけだからだろう。

 チキンステーキの皮がうまく切れず、つながったままになって残っている。肉の方の最後の一かけらと一緒に残った皮をまとめて口に入れる。僕は食事が嫌いだ。他の生物の死体を食べることに嫌悪感がある。肉だけでなく野菜や、空気ですらそう感じる。しかし、食べなければ死んでしまうので仕方なく食べている。食べることで自身の存在を認めていると捉えられてしまうことが恐ろしい。

「ごちそうさまでした」

 罪悪感を感謝でごまかす。儀式は形骸化するまでを含めて儀式であり、形骸化してからが儀式なのだから。

「それで、いつ心中するか決めましょう。最速では次の片頭痛の周期である六月終わり辺りになりますが」

「それで構わないよ」

 僕は紙ナプキンで口を拭き、おしぼりで手を拭いて、忘れ物がないか確認しながらボックス席からレジへ向かった。

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