第二章 別れ
謎の女性との出会いから数日、僕はいつも通りの日常を送っていた。しかし、心の奥底には違和感があった。たった一つの出来事の影響が伝播していき、やがて世界が変わってしまうほどの大きな変革になるような感覚がした。そしてそれは僕の意思とは無関係に、もしくは逆に今までの過去の僕を忠実に意識しているがために、必然的に起こりうるのだという予感がした。
彼女との出会いを振り返る。彼女はミキと名乗っていた。友達にならないかと言う割には携帯電話を持っておらず連絡手段がない。雨が降り始めていたためすぐに解散し、今度の休みにあの公園で会う約束をした。彼女が言っていたことを思い出す。彼女の目的は何だろうか。死にたがっていたのだろうか。いや、彼女は生きようとしていた。死を通して生を観測していた。僕と同じで、死にたいからこそ生きているのだ。彼女の謎の魅力はおそらくこれだった。僕と彼女は似ている。もっと話したい。
土曜日の昼間の公園は子供たちで賑わっていた。僕は幼い頃から人生に絶望していた。ショッピングモール内の休憩所と子供の遊び場がくっついたような所で僕ははしゃぐことはなく、ただじっとしていたので親に気味悪がられていた。子供がただ子供らしく遊び回っていると思っていた僕は、子供らしさを否定しているつもりがそれこそが悪い意味で子供らしく、真の子供らしさとはそれ自身とは対極にある理性的な判断のもとでの自己防衛だと気付いたときには手遅れだった。
ベンチには既にミキが座っていた。相変わらず男物のような服装だ。軽く挨拶をして隣に座る。沈黙が流れる。彼女は自分から友達にならないかと大胆に近づいておきながらひどく内向的な性格のようで、うつむきながらちらちらと様子をうかがうようなまなざしでこちらを見上げる。僕も話が上手なわけではないのだが、僕から話しかける。
「ミキさんはこの前この公園で何をしていたんですか?」
「私はあなたが来るのを待っていました、竹見謙一さん」
「……僕は名字しか教えていないのに、どうして名前も知っているんですか?」
「私は竹見さんを救いに来たのです」
「はあ、もしかして宗教の勧誘ですか? そういうのは間に合っているんで」
「私と一緒に
「さっきから話が噛み合っていないんですけど」
「あなたののこぎりドラゴンについて」
思考が駆け巡る。彼女はどこまで知っている? 僕の名前を知っていて通勤路で待ち伏せをしていたことからストーカーか? しかし、のこぎりドラゴンはどう説明する? 片頭痛持ちであることはわかったとしても、閃輝暗点をのこぎりドラゴンという愛称で呼んでいることは誰にも話したことはない。
「私はあなたのことをあなたよりもよく知っています。のこぎりドラゴンのことも」
「……あなたは何者ですか?」
「私は導関数のシミです」
ははあん、ミキはおそらく文系なのだろう。導関数という単語を初めて知り、使ってみたかったのだろう。文系人間が理系用語をポエムとして使うことを僕は毛嫌いしている。導関数は導関数であり導関数でしかない。それに導関数が連続でない場合も往々にしてあり、「シミ」もさして珍しいことでもない。心の中で彼女に対して話の本筋とは無関係のところで根拠のない優位性を示し気持ちを落ち着かせる。
「私はあなたの心に宿るのこぎりドラゴンに、導関数のシミによる瞳を描き入れ魂を吹き込むこと、まさに画竜点睛が目的です」
「画竜点睛……」
言われてみればのこぎりドラゴンには瞳がなかった。彼女の言っていることは突飛だが整合性はある。
「つまりどうするつもりですか?」
「私と一緒に
「は?」
「あなたが私と心中して画竜点睛することであなたの竜は完成するのです。自由に飛び立つのです」
前言撤回。彼女は支離滅裂だ。
「話に付き合って損しました。さようなら」
「待ってください。いずれあなたもわかるはずです」
「そんなに死にたいならあなた一人で死んだらいいじゃないですか」
「……私は自殺するには利己的すぎるから」
前のめりに話していた彼女が急にしおらしくなり、尻すぼみにそうつぶやいた。その言葉が頭の中で反響するのを不思議に思いながら僕はベンチから立ち上がり、会釈もなしに足早に帰宅した。
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