第一章 出会い
背景と同化した半透明のまだら模様が時計回りに回転し始め、それぞれの点が尾を引いて他の点と重なり合い、無数の同心円が加速していくにつれ大きくなり、じりじりと近づき視界を全て覆い尽くす直前で真っ暗になった。遠のいていくのか、小さくなっていくのか、あるいは自分が離れていったり大きくなったりしているのかわからないが、焦点が合わないほど目の前にあったものが、するすると消えていく。
いつもの夢だった。夢の中では全ての悩みから解放された自由な姿でいられるが、現実世界では
三歳の頃だ。自我を持ち始めた僕が真っ先に思ったことは、「死にたい」だった。何かに苦しんでいるわけではない、何かが辛いわけでもない。ただ自分がこの体に意識していることの異物感が耐えられなかった。この世界へ割り込む圧迫感が怖かった。だから死のうとした。自殺だ。ハサミで手を切り裂いたり、階段から転げ落ちたり、ボタン電池を飲み込んだり……。幼児ながらもあの手この手で試行錯誤した。しかし幸か不幸か、どれも大事には至らず現在まで命をつなげている。大人になった今ではもっと冴えた方法が考えつくが、僕は自殺では死ねないと気付かされたように思えて、最近はそういった行動はしていない。僕にとって自殺とは生きることであり、死にたいと思うことこそが生きる動機になっていた。僕に生きる力があるかどうかとは関係なく、僕は生きられてしまうんじゃないかと思い、安堵と恐怖が入り混じった感情になる。現に、「
朝の支度をしていると、視界の隅にアイツが現れた。「のこぎりドラゴン」だ。ギザギザした三角形の突起がのこぎりのように連なり、蛇とも竜ともつかぬ体躯をしならせながら渦巻いている。三角形の部分はよく見るとフラクタル構造をしており、見つめるとたちまち吸い込まれそうになる。これは
僕は物心が付いた頃、まさに「死にたい」と思い始めた頃から、ひどい片頭痛に悩まされている。片頭痛と言いつつも両側が痛くなることが多いので、詐欺な名前のような気もする。幸いにもここ数年は医者から処方された薬が効果
しかし、今日ののこぎりドラゴンは少し変だ。いつもは無色かノイズのかかったような色をしているのに対し、今日は虹色に鈍く光っている。小学校の帰り道でたまに見た油の水溜まり――油ではなく鉄の酸化皮膜なのだが――を彷彿とさせ、どこか汚らしく、それでいて神々しくも見えた。
新しく建てられたタワーマンションのせいか、満員電車はさながら奴隷船のようだった。少しでも空いている車両へと急いで乗り込んだ先は弱冷房車で、六月とは言え
突然膝に滴が垂れた。僕の汗ではないようだ。自分の汗ですら嫌なのに、他人のそれは不快なこと極まりない。ただでさえむかむかする状況なのに、と睨み付けてやるつもりで顔を上げた。泣いていた。中年のくたびれたおっさんが、さらに醜い顔になりながら、黙って泣いていた。虚を突かれた。軽蔑と同情、鬱憤と憐憫、恐怖と安心。相反する感情が湧き出ては消え、何も言えなかった。
職場に着く頃には頭痛も出始めていた。ズキンズキンと脈打つ頭痛のリズムに合わせて心臓まで痛く思えた。落ち着いて薬を飲む。今日は何でもない日だ、だからこそ何とかなる、大丈夫、大丈夫。そう自分に言い聞かせる。缶コーヒーで脳の血管を収縮させつつ一息つく。
仕事はいつも通りだった。転職を三回してたどり着いたこの仕事はとても単純な作業の繰り返しで、三交代制ということもあり合わない人にとっては苦痛らしく離職率も高いが僕の性分に合っていた。日常生活の九十五パーセントが
しかし今日は例外があった。今回の片頭痛はひときわきつい。手足がしびれ、吐き気がする。平衡感覚が乱れ、立っていることさえできなくなったためにラインを一時停止してもらった。班長は僕の顔を見るなり大声で叫んだ。
「おい竹見、真っ青な顔でいかにも死にそうだぞ。大丈夫か?」
「大丈夫です、少し休憩したら――」
ふらふらと倒れこんでしまった。班長の大声が脳内に響く。救急車を呼ぼうとする班長をなだめて止めさせ、その代わり早退することになった。普段まじめな行動をしているおかげか、こういったトラブルは助けてもらえることが多くありがたい。元から青白く不健康な顔も時には役立つようだ。頭痛を刺激しないように、静かにかつ急いで帰り支度をした。一時的に落ち着いている今のうちに自宅に帰ってそのまま眠ろう。腕時計は十一時を指していた。
歩くたびに頭がズキズキする。家までたどり着けるだろうかと少し心配になる。朝とはうってかわって空いている電車内で息を整える。真夏日にもかかわらず空はいかにも泣き出しそうな曇り空だ。梅雨時は折り畳みの傘を持ち歩いているが、降られる前に帰りたい。
住宅街に入り、家まであと少しの所まで来た。この公園を突っ切るのが近道だ。幸い、平日の昼間ということもあり人はほとんどいない。道路と違いアスファルトで舗装されていない土の道はここ数日の雨でぬかるみ、滑り台の下は水溜まりになっている。花壇にはアジサイが植えられているが、咲き終わりなのか病気なのか薄黄緑の地味な色をしている。
ベンチに女性が座っていた。遠くの景色を眺めているようで、その焦点は定まっていないようにも見える。整った顔立ちをしているが化粧をしておらず、服装も上はTシャツにパーカー、下はズボンスタイルにスニーカーと、大量生産で安価な男物のような格好だ。特筆すべき点などないが、妙に引っかかる。謎の魅力に心を動かされそうになるが、視界の隅に追いやり、前を通り抜けようとする。彼女の声がした。少ししゃがれていて成熟した上品な淑女のようでありながら、舌足らずで甘ったるい幼女のようでもある不思議な声に思わず耳を傾ける。
「疲れた、疲れた」
聞いてはならないことを聞いてしまった気がした。大きくため息をつくつもりが、喉が締め付けられてわずかにしか息ができない。空気が粘り気の高い異物になり、顔をこわばらせ立ちすくむ。彼女は続けて言った。
「死にたいときって、死にたいというよりも他の全てが遠ざかっていくような、ある種の痛快さというか、メーターが振り切れてむしろ生をまざまざと実感するみたいな、なんか、笑っちゃう。どこまでもどこまでも追いかけてくるのに決して捕まえようとはしないで、こちらから向かうのをニヤニヤしながらいつまでもいつまでも待っている。逃げているのか追いかけているのか、立ち止まっているのか沈んでいるのか、掘り進めているのか薄まっているのか、わからない。だけれどもぼんやりしている間に霧が晴れて、そんなことを考えていたことすら忘れて、これまたぼんやり生き長らえてしまうんだろう。そしてまた同じようにふさぎ込んで、同じように忘れて、そしていつか死ぬんだろう」
頭が垂れる。吐き気がする。ある期間を一つの単位としてその切り替わりにある嵐の前の静けさ。無秩序がひしめき合うダストシュートと、数単位前のスネークゲーム。三角形の中の三角形。そしてフラクタルな僕。のこぎりドラゴンが走馬灯のように頭によぎり、強い光と共に辺りを浄化しながら消えていく。片頭痛は消えていた。
「私たち、友達になりませんか?」
彼女の突飛な提案に、僕はそう言われるのがあらかじめわかっていたかのように二つ返事で了承した。雨がぽつぽつ降り始めていた。
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