第3話 だから私は猫にならない

 声が出なかった。

 彼女は本気だったのだ。

 猫用のキャリーバッグの前で、私はただぺたんと床に座り込んでいた。

 キャリーバッグの中から、その猫はじっとこちらを見ている。初めてうちに来たにもかかわらず、人見知りすることもなく、怯えたりすることもない。ただ大人しくリラックスしている証の香箱座りをしている。薄い茶白の毛皮は彼女のあの猫っ毛を彷彿させる。

 猫は私を上目遣いで見て、甘えたように鳴いた。私はキャリーバッグを開ける。猫はするりとそこから出てきて私の足を撫でるように身体を擦りつけた後、日の当たる窓際に行ってしまう。あまりにも慣れた様子で。まるで、以前からこの家で暮らしていたように。

 ぽかぽかとした春の日だ。カーテン越しに差し込んでくる光が彼女のふわふわの毛を照らす。背中側の茶色い毛が金色に輝いているように見える。彼女は音も立てずに座って、太陽の光を浴びている。まるでこの家にいるのが当たり前のように落ち着いる。

 私はその様子をしばらく眺めていた。信じられなかった。けれど現実だ。

 私はふらふらと彼女に近付いて、その背中を撫でた。ふわふわの猫っ毛だ。あの、猫っ毛だ。顔に手を伸ばすと、彼女はふんふんと私の指先の臭いを嗅いだ。

 猫みたいだ。

 猫だ。

 私は彼女を撫でる。顔の辺りを撫でると、彼女はうっとりと目を細めた。こんなだっただろうか。彼女は。

 人間であったときから。

 しばらくそうしていると、突然飽きたようにふいとそっぽを向いてしまった。

 彼女だ。

 彼女は毛繕いを始める。私のことなんか、もう目に入ってもいないように。

 私は彼女から離れて、彼女を連れてきてくれた人が持ってきた封筒を開けた。説明を受けたことと裏付けるような書類が入っていた。

 彼女は、この猫は、千晶だ。


「千晶」


 呼び掛けると猫は私の方を向いた。

 わかっているんだろうか。理解しているのだろうか。

 猫になってしまった人が人間だったときのことを覚えているのか、人の言葉を理解しているのか、それは誰も知らない。猫になった人が元に戻ることは出来ないからだ。

 千晶だった猫は私の言葉をわかっているのかわかっていないのか、大きな口を開けてあくびした。

 千晶と一緒に届けられた書類には、千晶が猫になったことが書かれていた。私は、ただそれを握りしめた。

 どうしても猫になりたい人間が猫になれるシステムがあることは私も知っている。周りで本当にそうなった人を見たことはないけれど。

 だって、本当に猫になるなんて簡単に決断できることじゃない。猫になるのは一方通行だ。それでもなりたい人がなる。

 自殺の増加に歯止めが掛からなくて、それでやむを得ず始められたシステムだとかいう話だ。確かに、猫になってでも生きてさえいてくれればいいと思うのはわかる。

 このシステムが始まったのは私が産まれるずっと前のことで、今では他の理由でも本人が強く望めば猫になることは認められている。

 千晶は、どんな理由で猫になったのだろう。私はそれすら知らない。

 ため息が出る。私が一番千晶のことをわかっていると思っていたのに。こんな大事なことを言ってくれなかったなんて。

 それとも、言わなくてもわかってくれると思っていたのだろうか。壮大なドッキリで、本当の千晶は後から現れて私のことを笑ったりするのだろうか。


「本当に千晶、なんだよね?」


 問い掛けても、猫はふらふらとつれなくしっぽを振っているだけだ。

 正式な書類もあるから千晶に決まっているのだけれど。

 この猫が千晶だと認める心と、否定する心がぐちゃぐちゃに混ざっている。

 猫になるときには、人に知らせなければならないという決まりは無い。一人で決めて、一人でなることが出来る。

 千晶は自由のはずだった。猫になって自由になれるはずだった。

 本当なら、誰にも知らせずにどこかにふらりと姿を消すことだって出来た。猫になってどこに行くかは本人が決めることが出来る。猫になることと同じで、誰にも知らせなくていい。そうでなくては猫になる意味が無い。ただの一匹の猫になって、家族にも周りの人にも知られず、ただ生きていくことが出来る権利があるはずだった。

 それでも千晶は私の所に来ることを望んだ。そうだと思う。もう聞くことは出来ないけれど。

 千晶は誰の所でも無い、私の所に来ることを望んでくれた。


「千晶、本当に私と離れたくなかったんだ。もっと話してくれればよかったのに」


 今の彼女に、私の言葉は届いているのかわからない。猫になった人間が記憶を覚えているのか、人の言葉を理解しているのか、誰も知らない。

 一度猫になった人を元に戻す技術は無いから。それ故の一方通行。だから、猫になるのは覚悟がいる。


「馬鹿だね」


 私は千晶の側へ行って、彼女をふわりと抱きしめた。

 千晶は私に抱かれるがままになっていた。

 ふわふわの猫ッ毛が私の頬をくすぐった。

 猫になった千晶は、もう実家に帰ることも無いだろう。猫なんだから地元で就職することも無い。どこに行ったって自由だ。

 私は、なんとかなると思っていた。二人でずっと一緒に暮らせる、と。千晶は違ったのかもしれない。私は千晶の家族のことを何も知らない。話してくれたことが無いから。

 もしかして、本当にずっと悩んでいたのかもしれない。もっと聞けばよかった。なんとかなるなんて言わなければよかった。

 あのなんでもないような顔の下で、彼女が本当は弱い人間だと一番知っていたのは私だけだと思っていたのに。

 私は彼女の首の辺りの臭いを嗅ぐ。


「おひさまみたいな匂い……」


 私は呟く。

 彼女の毛が冷たく湿った。


「そうか。猫の毛って、水、吸わないよね」


 私は顔を上げる。


「私と一緒に猫になりたかったの?」


 千晶はやっぱり答えない。ただ、こちらを見て目を細めた。それはそれは幸せそうに、目を細めた。

 私はそれを答えだと思った。

 だから、私も微笑んだ。


「それなら……」


 私は立ち上がる。

 これからの私たちのために出来ることは。


「二人で引っ越そうか。ペット可のマンションに。すぐ」


 千晶からの否定の言葉は無い。


「このままじゃ、千晶の親とかここに来ちゃうかもしれない。住んでるとこ、知ってるもんね。その前に、引っ越そう。誰も知らないところに、さ」


 千晶は私を選んでくれた。

 だとしたら、私が最後まで彼女と一緒にいる。

 誰にも渡さない。


「私のこと面倒見がいいってずっと言ってたもんね。それなら私は一生、千晶の面倒見てあげる」


 私まで猫になったら、どうなるのだろう。二人でずっと一緒にいられるだろうか。留めておけるだろうか。

 わからない。千晶が私を覚えているかわからない。私が千晶を覚えているかわからない。

 野良猫として二人で生きていけるかわからない。

 離ればなれになってしまうかどうかもわからない。

 猫の世界のことを、私も千晶も知らないから。

 何もかもが、わからない。

 それなら、私は確実な方を選ぶ。私がずっと千晶の面倒を見ればいい。私の、私たちの小さな部屋の中で、ずっと一緒に暮らそう。

 千晶がそう望んでくれたのなら。

 私が人間でいる限り、それは果たされる。

 だから、私は猫にならない。

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だから私は猫にならない 青樹空良 @aoki-akira

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