試論

Auf dem See

 一目みてわかる通り、この詩を構成している三つの詩節はどれも異なる韻律、異なるリズム──すなわち、異なる調子と情調を有している。そしてこのことが、この詩の第一の特徴である。


 第一詩節は、四揚格と三揚格のヤンブスが二行一組で全八行。そして、第一行と第三行、第二行と第四行で押印する交互韻である(Blut-gut,Welt-hält,Kahn-himmelan,hinauf-Lauf)。

 第二詩節は、全て四揚格のトロへーウスで、第一行と第二行、第三行と第四行で押韻する対韻である(nieder-wieder,bist-ist)。

 第三詩節は、二行一組の全八行で、基本的に三揚格のトロへーウスだが、偶数詩行の第二揚格の後に抑格が二つ続くのが特徴である。脚韻は第一詩節と同じ交互韻である。


 次にそれぞれの詩節を見ていく前に、いくつかの問題提起を予めしておく必要がある。

 まず第一に、詩の劈頭を飾る“Und“。なぜこの詩はこのように始まらねばならないのだろうか、そしてまた、こうして始まることはこの詩にどのような影響を与えているのか。

 次に、いくつかの意味深な詩句“Goldne Träume““Hier auch Lieb und Leben ist“。「黄金色の夢」に関しては、ゲーテに関する伝記がその答えを与えてくれるため、それはただその伝記的事実を把握するのみで事足りるだろう。しかし、「ここにもまた、愛といのちはあるのだ」という詩句は、“hier“という副詞によって“auf dem See“という空間が象徴化されていることを暗示させ、それと結びつく「愛」と「いのち」という概念が……

 最後に、三つの詩節の異なる調子はこの詩にどのような影響を与えているのかというこの詩における根本的な問題である。


 初めに第一詩節だが、すぐ目につくのはこの詩の劈頭“Und“だ。これによって、調子の面から言えば詩の始まりはなめらかになり、また、意味内容の側面においてはこの詩以前の詩人の状況に対するある種の態度決定を表している。この態度決定によって、第一詩節の調子を我々は感知する。それは、人生の新しい段階に立っているという自覚、あるいは自らの後ろには選択すべき岐路があったという反省である。そしてこのことは、第三・四行の“Wie……!“という感嘆文によっても知られる。

 しかしこの調子は、第五行目以下の描写によってやや落ち着きを見せる。前半の四詩行は“ich““mich“という一人称単数によって詩人自身の問題であることが示されていたが、後半の四詩行においては“unsern““unserm“という一人称複数によって、詩人自信が自らをいわば客観的─俯瞰的な視線において把握していることが理解される。既に詩の調子は微妙な変化をきたしているのだ。


 この変化は第二詩節において、先に指摘した通り全く異なる韻律で歌われることによって、外形的にも明白になる。

 この詩節は、第一詩節と異なり、二行一組で前半と後半で揚格の個数が異なったりすることはなく、全てが四揚格のトロへーウスである。しかし、休止の位置が多様であるため平板な調子になることは無い(“Aug““mein Aug““Goldne Träume““Weg,du Traum!“等々)。そして、平板な調子ではないのはリズムだけではなく、意味内容においても同じである。詩人はここで、自らが捨て去ってきたものに対する未練を明らかにする。第一詩節で……

 しかし、詩人はその夢を振り払う。“Weg,du Traum! so gold du bist“そして、“;“が続く。これは続く言葉が一つの決意のもとに発せられるものであるということを我々に教える。「ここにもまた、愛といのちはあるのだ」

 我々は詩人が「黄金色の夢」を本当に振り払うことが出来たのか、彼は「ここにもまた、愛といのちはあるのだ」と考えようとすることによって、それから目を背けようとしただけなのではないのか。それだから、「ここにも……」という詩句を深く捉えることはなく、あたかも言い訳であるかのように軽く受け止めるべきではないか、そう考える必要は全くない。それは続く第三詩節に目を向ければすぐに分かることだ。


 第三詩節は完全な描写となっている。そこには人称代名詞が現れなく、全てが詩人のまわりに存在する自然である。第一詩節は、ich-Welt,Natur-michという、私が自然から吸う、そして自然が私を抱きしめるという両者の関係のうちにあった。第二詩節において詩人は、第一詩節のWeltとNaturの空間から、非空間的なTraumへと移る。しかし詩人はそれを振り払い、hier=auf dem See=Naturの世界を純粋に受け入れるのだ。もはや詩人と自然との間に意識は介在しない。詩人は愛といのちとして自然に包まれるのであり、詩人はただその中に溶け込むだけである。

 第三詩節の第一揚格はどれも非常に弱い。Auf-Die-Sich等々。そして特に最終行のSichはほとんど聴き取れないくらいだ。それはUndによって、詩の世界以前から続いていたかのように現されたものが、最後においては詩の世界の終わりをはっきりと告げることなく、静かに幕を引くというように軌を一にするものだ。

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ゲーテ 詩 試論 クララ・ガズル @mignon8280

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