第2話 シャム猫リズの陰謀

「ニャー、ニャー」

と、猫の鳴き声が聞こえる。

「リョウ?ああ、テレビを見ているわね……、じゃあ、シロウ?座布団で寝ているか……、どこの猫かな?発情期のオスかしら?」

誰かに向かってしゃべっているわけではない。畳の上に腹這いになって、エラリー・クインの『オランダ靴の謎』という文庫本を読んでいた中学生の少女が、猫の鳴き声に反応して、周りを確認しただけなのだ。

少女の名は、オト。本名は乙音だが、周りはオトと呼んでいる。

彼女が猫の鳴き声を聞いて確認した、シロウは、この家の飼い猫なのだが、リョウというのは、彼女の三つ下の弟である。猫の鳴き声で弟の声か?と、彼女が最初に確認したのは、彼がいつも、猫に対して、猫語?で語りかける癖があるからなのだ。

「ずいぶん、近くで鳴いているね?」

と、リョウはテレビのスイッチを切って、猫の声に耳を傾けた。

同時に、座布団で寝ていた真っ白な猫が起き上がり、テレビのブラウン管に向かって歩いて行った。

「勝手口のほうみたいね?野良猫かしら?」

耳のいいオトが、鳴き続けている猫の声の方向をそう推測した。シロウの行動には、姉弟とも注意を払っていなかった。

十秒ほど黒いブラウン管に写る自分の顔を眺めていた白猫は、テレビの前から急に身体を反転すると、しなやかに身体を躍動させて、座敷から土間に飛び降りていった。

「まさか……」

「リョウ!行くよ!」

「あれは、どう見ても、イゴだよね?」

と、リョウが言う。その視線の先には、二匹の猫。一匹は白猫。もう一匹は白黒がほぼ等分にわかれている猫だ。その身体の模様にリョウは見覚えがあった。

「そうね、間違いなく、イゴよ!」

「じゃあ、シロウ、いや、今はシズカに変身していると思うけど、二匹が向かっているのは……」

「当然、『猫屋敷』ね!」

オトがいう『猫屋敷』とは、彼らの自宅から、北の方角、宅地化の進んでいない田や畑、耕作放棄された雑種地の外れに建っている、二階建の洋館のことだ。今は空き家で、元の所有者が飼っていた猫たちの子孫が住み着いている。そこで、姉弟は不思議な体験をしている。人間の言葉を話す、数匹の猫たちに会っているのだ。その一匹がイゴという白黒の猫なのだ。

飼い猫のことを『今はシズカ……』と、リョウが言ったのは、シロウという子猫に時々、彼の母親であるシズカの霊が憑依して、シズカに変身する、つまり、シロウとシズカの『ふたつの人(猫)格』をこの猫は身体に宿しているのだ。その変身を呼び起こすスイッチは、テレビの黒いブラウン管らしい。シズカに変身した白猫は、元のシロウと両眼の色が、左右入れ替わってしまうのだ。白猫はオッド・アイと呼ばれる、左右の眼の色が違う猫だった。

「アッ!家の隙間に入って行ったよ!僕らは、通れない狭さだよ!」

「急いでいる、ってことね?近道を選んだか……?急がば回れよ!我々は人間の通れる道を走って行くのよ!行き先はわかっているのだから……」


「あれ?マサさん?なんでマサさんがここにいるの?」

全速力に近いスピードで走ってきたリョウは、猫屋敷の門が閉まっているのを確認すると、屋敷塀の角を曲がって、通用口に向かったのだ。その通用口の前にふたりの人物が立っていた。そのひとりが、彼ら姉弟の従兄にあたる、大学生の政雄だったのだ。

もうひとりは見知らぬ女性だ。白髪交じりの頭髪の小柄な老婦人だった。

オトが、息をきらしながら、到着する。

「やあ、オトとリョウか?奇遇だな?君たちも噂を聞きつけたのかな?」

と、政雄が言った。

「噂?いや、僕たちは飼い猫がこの屋敷に入って行ったみたいなので、探しにきたんだよ。何か、変な噂が立っているの?」

「兄さん、この子らぁは?あんたの知り合いなの?」

政雄がリョウの問いに答える前に、隣の老婦人が、政雄に尋ねた。

「あっ、はい、このふたりは、僕の従妹弟(いとこ)です。この前のカラスが咥えた宝石の事件で、最初にカラスの死骸と宝石を見つけて、通報したのは、この子たちです。オトとリョウです」

と、政雄がふたりを老婦人に紹介して、

「オト、こちらのかたは、この屋敷の管理人、坂東常さんだ……」

と、ふたりに老婦人を紹介した。

「はじめまして……」

と、オトが頭を軽く下げる。リョウも無言でそれに習った。

「実は、最近、屋敷内の猫が騒がしいらしいんだ」

「騒がしい?でもここは民家からかなり離れているよね?誰が騒がしいなんて言っているの?」

「うん、順番が逆だったか……、最初は近所の畑の作物に被害が出た。猫のオシッコや糞で野菜が枯れる。猫が畑に入って、畝が荒らされる。キュウリは噛られていたそうだ。まあ、全てが猫の所為ではない、タヌキやイタチもいるからね……。ただ、畑周辺で猫の目撃情報が増えているんだ。そこで、この猫屋敷が怪しい、と、農家の人が三人、様子を探りにきたのさ……」

裏木戸──通用口──に新しくかけられていた南京錠を常さんがはずして、四人は屋敷内に入って行く。

「様子を探りにきた人が、この屋敷で猫の争うような声、というか、何匹かの鳴き声を聞いたんだよ。それと、はっきりとではないが、人間のような声も、聞こえたそうだ……」

通用口から、玄関に続くレンガブロックの通路を歩きながら、先ほどの話の続きを政雄は語った。

「で、なんでマサさんが坂東さんと一緒なの?」

と、オトが尋ねる。

「例のカラスが宝石を咥えていった事件のあと、坂東さんとは懇意になってね。カラスの被害とか、スズメの被害とか……、坂東さん家(ち)も農家だから……」

「ええ、大学で鳥や動物の行動学を研究されているそうで……、いろいろ教えてくださいますのよ。それで、今日は一緒に屋敷内の猫たちを見ていただこうと……」

(なるほど、鳥だけじゃなく、動物まで守備範囲を広げて、この屋敷を調べてみるつもりなのね……)と、オトは政雄の目的を察して心で呟いた。

「あのう、失礼なことをお訊きしますけど、坂東さんって、おいくつなんですか?亡くなった直弼さんのご両親の家政婦をなさっていたと、伺っていますが……、直弼さんが亡くなって、二十年ですよね?」

と、リョウが白髪交じりの老婦人に尋ねた。見た目は、六十代である。

「おや、わたしのこと、よくご存知ね?年齢は内緒よ!生まれたのは、明治時代よ。日清・日露戦争は知っているわね……」

「日清・日露戦争?」

リョウはまだ歴史を習っていない。

「明治27年、西暦1894年に起きた、日本と今の中国との戦争が日清戦争よ!その十年後に、今のソ連と戦争したのが、日露戦争よ!」

と、オトが解説する。

「じゃあ、少なくても、七十歳は超えている?」

「知っているということは、その時、五、六歳だったとしたら……」

「八十歳……?」

「あらあら、女性の歳は詮索するものじゃなくってよ!それより、ほら、猫が登場よ!サビ猫っていうのかしら?」

常さんの指差す方向にサビ猫のビートの姿があった。ビートは人間たちに視線を向け、ついてこい、というように、身体を反転させた。

「どうやら、歓迎されたようね?ビートが案内役のようよ」

と、オトがリョウに耳打ちをする。

「あら、あなたたち、あの猫の名前を知っているの?でも、ビートって名前は直弼さんがサビ猫につけた名前よ。もう、何年も前に死んだ猫よ……?」


「あのう、わたしたち、迷い込んだシロウを……、アッ、我が家の飼い猫の名前です。シロウを探したいので、お屋敷の中、探索してよろしいでしょうか?」

サビ猫のビートが案内した──ように人間には感じた──場所は、一階の以前は食堂として使用されていた広い部屋だった。そこに、数匹の猫がいた。生まれたての子猫にその親のような猫。だが、オトとリョウの見覚えのある、死んだ猫が憑依している『二重人(猫)格』の猫はいなかったのだ。

オトが最後尾で部屋に入りかけた時、足元に三毛猫のサンタがすり寄ってきて、しきりに、別の場所に案内する仕草を見せたのだ。そこで、オトはシロウを探す口実で、その場を離れようと考えたのだ。

「ええ、どうぞご自由に……、迷い子にならないでね……」

常さんの許しを得て、オトとリョウはサンタのあとを追う。サンタは階段を駆け上がり、二階の角部屋──この屋敷の鬼門というべき、北東の位置にある部屋──の猫用の潜り戸を押して、姿を消した。

オトがドアノブを回す。

「鍵はかかってないわね……。準備はいい?異界との狭間に突入するわよ!目眩(めまい)に気をつけてね……!」

そう言って、オトは思い切りドアを押した。案の定、部屋は歪んでいるようで眼に写るものにピントが合わない。姉弟ふたりの身体が部屋の中に完全に入ったと同時に、ドアは自動的に閉まった。

床が地震発生時のように揺れる感覚に襲われ、オトは弟の手を握りしめた。

「ふう、前回よりマシね?予想の範囲内だったわね……」

地震のような感覚が収まり、部屋の中の景色にピントがあった。ガランとした空き部屋。窓枠いっぱいに見える裏庭の黒松。壁から生えたような、三つの棚も、あの時と同じだ。そして、その棚の一番上の位置に、真っ黒なツヤのある毛並みの猫が身を伏せているのも、同じだった。

「お久し振りね、クロウさん……」

「わたしの名前は、『ヨシツネ』なんだがね。まあ、クロウ・ヨシツネだから、君たちが『クロウ』と呼びたければ、それでもいいとするか……。よく来てくれた!オトとリョウ。人間の中で、直弼の次に信頼できるのは、君たちだからね。こうして会話ができるのも、今のところ、君たちだけだ……」

黒猫のクロウは、前回と違って、棚から降りて来ないで、伏せた状態から、顔だけを姉弟に向けて、会話を始める。

「ちょっと、面倒なことになってね……。君たちの力を借りたいんだ……」

そう言いながら、クロウはゆっくりと、ひとつひとつ、棚から降りて来た。前回のしなやかな動きではなかった。

「クロウ、無理をしないで!話はわたしがするわ」

と言ったのは、窓際にいた白い猫──シロウから変身したシズカ──だった。

「クロウがどうかしたの?病気なの?」

と、オトが心配そうに尋ねた。

「歳を考えず、闘いに加わったから、筋肉痛よ!」

「闘い?誰と闘ったの?」

「うん、クロウの永遠の仇敵というべきメス猫がいるのよ。シャム猫のリズって名前のね……。その子分にトラ猫のフーテンという、身体のデカイのがいてね、近所の野良猫のボスの座に収まっているの。そのフーテンたちが、この屋敷に入り込んで、生まれたばかりの子猫を襲ったのよ。サンタとキチエモンが子猫を守ろうと、闘って、クロウもそこに参戦したわけ……。子猫は無事だったけど、キチエモンがね……」

シズカの言葉に、キチエモンの姿を探してみると、窓際に血を流したキジトラ猫が、白い腹を荒い息で、動かしながら、横たわっていた。

「多分、もうダメだ……」

と、クロウが呟くように言った。

「このキジトラは、キチエモンの孫にあたるのよ。襲われた子猫はその子供……。だから、キチエモンのひ孫になるわね……」

「まあ、自分の妻と息子を守ったんじゃ!こいつも満足じゃろうて……」

「えっ?その声はキチエモン……?」

「そうじゃよ。ワシはすでに、死んでいる猫じゃ。孫の身体を借りていたが、その孫の命が尽きようとしておる。ワシは次の身体を探さねばならない。まあ、助かった子猫はワシの直系だから、もう少し大きくなったら、身体に入れる筈じゃ。だから、一時は、お別れじゃな……」

そう言う声が次第に小さくなり、動いていた、キジトラ猫の白い腹が動きを止めた。

「キチエモン、また逢おう……」


「でも、なんで、フーテンとかいうトラ猫が屋敷の子猫を襲ったりするの?」

「フーテンか?渥美清の『男はつらいよ』の『フーテンの寅さん』から採った名前のようだね?」

「リョウの意見を否定はしないがね……」

「フーテンという名は、直弼さんがつけたのよ!」

と、クロウとシズカが、リョウの疑問に答える。

「もともと、フーテンも、リズもこの屋敷の飼い猫さ」

「ええっ?じゃあ、クロウと同じくらい、年寄なの?」

「わたしを年寄扱いしないでくれないか。キチエモンは、今のわたしより、長生きしたんだよ!前に話しただろう?直弼が猫のために、長生きできる食事を我々に与えていたんだよ。フーテンもリズもその食事を摂取したんだ」

「じゃあ、フーテンもリズも現役──シズカのように亡くなって憑依している二重人格じゃなくて──なのね?二十年以上は生きているってことよね?」

「そういうことね……」

と、シズカが答えた。

「彼女は特別なの……」

「特別?」

「そう、ここにいる猫たちは皆、直弼の飼い猫の系列なんだけど、リズだけが違うの……。屋敷の前に捨てられていた子猫なのよ。死にかけていた子猫をキチエモンが見つけて、直弼に知らせたの。猫好きの直弼だから、見捨てられなくて、ここで飼うことにしたのよ……」

「そしたら、仲間だよね?どうして、ここから出て行ったの?」

「リズは直弼の食事や薬の効き目が、ほかの猫より強かったのよ。とても賢くなって、直弼の言葉がわかるようになったの。もちろん、会話はできないけどね……」

「おそらく、死の一歩手前だったことで、生への執念がほかの猫と違っていたんだろう。我々は生まれながらの家猫だからね」

と、クロウが言った。

「この屋敷の猫たちのボスはクロウだったの。クロウの父親が直弼の最初に飼っていた黒猫だったから、その系統がボスになるって、暗黙の了承よね……」

「ちなみに、キチエモンはその弟だ!母親が同じ、父親は別だがね……。つまり、わたしの叔父に当たるんだよ……」

「猫の世界にも、世襲制があるのね?」

「まあ、誰かがリーダーにならなければ、組織の規律が守れないからな……」

「リズは不満だったのよ。仲間の中で、もっとも賢く、直弼の言葉がわかり、そのうえ、自分が世界で一番美しい猫だと思っていたから……」

「わかった!リズって、リズ・テーラー!エリザベス・テーラーね?世紀の美女。『クレオパトラ』役の大女優の……」

「それともうひとつ、問題が発生したのさ……」

と、クロウが言った。

「もうひとつ?」

と、オトが尋ねる。

「元使用人、執事をしていた坂東三樹夫、つまり、常さんのご亭主のことだが、彼が一匹の白猫を連れてきた。まだ、子猫だったんだが、左右の眼の色が違う変わった猫だった。『金眼・銀眼』の白猫と言って、縁起の良い猫だ、と言ってね……」

「なるほど、それがシズカね?」

「そう、オトはなかなか、察しがいいな」

「もっと察すれば、リズに強力なライバルが現れたってことよね?」

「そういうことだ。リズはボスになれないなら、ナンバーツー、つまり女王の座を狙っていたのさ」

「女王?クレオパトラのような……?」

「ちょっと違うわね……」

と、オトの言葉をシズカが否定した。

「リズはクロウの妻の座を狙ったのよ。つまり、王さまの妃……」

「皇后の座ね?」

「でも、言っちゃあ悪いけど、たかが、家猫数匹のボスだろう?その次の二番目なんて、中小企業の部長クラスだよ……」

「リョウ、わかっていないわね……、ここの猫はほかの猫と違うのよ。人の言葉が理解できるくらいの頭脳があって、寿命は約2倍……、少しずつ範囲──縄張り──を広げていけば、日本中の猫の頂点に立てるのよ……」

「縄張り?ヤクザの世界かい?」

「まあ、わたしには、そんな野心はないけどね……。やろうと思えば、猫属の将軍、大王になれる、ってことだ」

「リズはクロウを大王にして、自分は皇后になろうと考えたのよ……」

「そこにライバルが現れた……?イゴやシロウが生まれたってことは、クロウの妻の座はシズカのものになったのね?」

「そういうことだ……」

「猫の世界も一夫一婦制なの?ライオンのオスは複数のメスをパートナーにしているって訊いたけど……」

「それは、野生の猫科の動物でしょう?この屋敷では、直弼の考えで、オスとメスの組み合わせは、一対一に決まっていたのよ」

「そうしないと、血統が固まってしまうからね。近親の組み合わせになると、種が劣化してしまうんだよ」

「なるほど、だから、ここには、さまざまな種類の猫がいるのね?」

「それで?皇后陛下の座に着けなかったリズはどうなったの?」

「叛乱を起こしたのさ。ちょうど、直弼が亡くなったすぐ後にね……」

「叛乱?どんな行動を起こしたの?」

「まず、フーテンを味方につけた。そして、フーテンにわたしとシズカの子供たちを噛み殺させたのさ!」

「フーテンにクロウに代わってリーダーになれる。わたし──リズ──と手を組めば、日本中の猫の大王になれる、と吹き込んだのよ。その手始めに、クロウの血を引く猫たちを抹殺するよう勧めたのよ……」

「その戦いで、イゴ、サンタ、ビート、そして、キチエモンが亡くなった。リズに味方した猫たちは、フーテン以外はすべて、死ぬことになった……」

「そんなに沢山の猫が亡くなったの?まるで、戦争だったのね?」

「ああ、無益な戦だったな……。ただ、その戦いが終わった時に例の雷が落ちたんだよ。直弼の声が訊こえ、そして、キチエモンが子猫に憑依した。それから、ビート、サンタ、イゴもそれぞれの血のつながった猫たちに憑依するようになったんだ……」

「生き残ったのは、クロウとわたしと数匹の子猫よ。わたしたちが子猫を育てることになったの……」

「リズとフーテンは?」

「深い傷を負ったが、生命力がほかの猫とは比べものにならないほど強かったんだろう……。屋敷から逃げだしたんだ……」

「それから、二十年生きているのね?」

「彼らはこの屋敷の近くに住んでいる。何故なら、この屋敷には、猫の寿命を伸ばす餌が蓄えられているんだ。そのいくらかは、彼らの手に渡ったが、もう、残り少ないはずだ。今回、彼らが屋敷を襲ってきたのは、その餌を奪う目的があったに違いない……」

「二十年間も保存ができる餌なの?」

「餌というか、薬というか、丸い丸薬、仁丹か征露丸のようなものよ。秘密の場所に貯蔵されていて、ある機械がずっと造り続けているのよ……」

「直弼さんが作ったのね?」

「そう、百年は動き続けるはずよ……」


「オト、リョウ、この部屋にいるのか?中から鍵をかけているのか?ドアが開かないぞ……」

部屋のドアが慌ただしくノックされて、政雄の声が響いた。

「そろそろ、時間ね。わたしは、この子たちと一緒に行くわ。また、リズたちが襲ってきたら、イゴかビートを遣いに寄越してね」

「ああ、そうだ!例の薬をオトとリョウに渡しておこう」

クロウがそう言うと、壁から生えているような三つの棚の一番下の棚が、カタンと倒れて、壁に隙間が現れた。そこに、薬瓶が現れ、イゴがそれを咥えてきた。

「この薬は、身体を小さくする薬だ。一粒で一分間、身体を十分の一にできる。オトなら、身長が十五、六センチになるはずだ。そしたら、我々がくぐっている扉から、屋敷に入ることができるよ。シズカと一緒にまた来てくれたまえ……」

オトが薬瓶を受け取ると、ほぼ同時に、部屋が揺れ始め、景色が歪んで見えだした。

目眩が収まると同時に、ドアが勢いよく開いて、政雄が飛び込んできたのだ。

部屋はガランとした状態に戻り、クロウの姿は消えていた。亡くなった、キチエモンが憑依していたキジトラ猫の身体も、サンタもいなかった。残った猫は、オトに抱かれた、白いオッドアイの猫と、白黒の模様がはっきりとした、猫が、リョウに抱かれていたのだった……

「あれ?おかしいな?このドア、中から閂(かんぬき)が掛かるタイプじゃないね?それなのに、さっきまで、押しても、引いても開かなかったのに、急に開いちゃって焦ったよ!おや?その白猫がシロウかい?少し、前に見た時より大きくなった気がするね?リョウの抱いている猫は?この屋敷の猫かい?」

「この白黒の猫はイゴ、シロウの兄さんだよ」

「そうか!それで、シロウがこの屋敷に遊びに来るんだね?」

「まあ、そういうことね。それで、マサさん、猫が騒がしい原因はわかったの?」

「ああ、この屋敷の猫とは違う、猫の集団がいるようだ。食堂に使われていた部屋に、大きな猫の足跡があった。ここの猫の大きさではないね。それに続いて、何匹かの猫の足跡があった。泥だらけの足跡だから、おそらく、荒された畑の土が付いた足跡だと思う。その猫たちが、この屋敷の猫たちを襲ったようだ。何匹か怪我をしたようだが、なんとか、追い払ったんだろう。その戦いの音が、騒がしい原因だったようだね。だから、悪いのは、屋敷の外にいる、おそらく、ボスは大きなトラ猫だろうな?少し毛が残っていた。屋敷には、トラ猫はいないようだからね……」

「へえ、マサさん、鋭い観察力と、見事な推理ね?名探偵みたい……」

「いや、実は、ここへ来る前に、そのトラ猫を見かけたんだよ。それと一緒にいた猫が、とても綺麗な猫だったんだ……、たぶん、シャム猫だ!」

「シャム猫と大きなトラ猫を見かけたの?場所は何処?」

「なんだよ、オト。シャム猫に用があるのか?場所は、この向こうの大きな農家の塀の上だったよ」

「農家の塀……。としたら、リズとフーテンは、その農家を住処(すみか)にしているのかもしれないね?」

「リズとフーテン?リョウ、君たちは、そのシャム猫とトラ猫とも知り合いなのか?」

「常さんに訊いてみたら?リズもフーテンも元、この屋敷の飼い猫だったかもしれないわね……」


「どうやら、直弼の屋敷に新しい人間が入ったようね……?」

「姐御、それが、こんな寂れて、汚ねえ稲荷に引っ越ししたのと、関係があるんですかい?」

会話をしているのは、人間ではない。シャム猫のメスとトラ猫のオスだ。場所は猫屋敷から、それほど遠くない、南西の位置に鎮座する、寂れた稲荷神社の社(やしろ)の中である。

「フーテン、お前がヘマをするから、人間どもが、畑を荒すのは、猫屋敷の猫たちではない、と、わかってしまったじゃあないか!」

「ヘマって……、あの屋敷、オレたちが住んでいた頃と様子が違ってましたぜ!子猫どもを食堂に追い込んで、手下どもに一斉にかからせたんですがね?」

と、フーテンが猫屋敷を襲撃した時の状況を語る。

「手下どもが急に電気に当たったみたいに、痺れてしまって……。そのあと、どっからか、クロウとサンタの息子が現れやしてね。味方が混乱しているから、オレひとりで闘ったんでさぁ……。キチエモンの孫の喉に噛みついてやりましたが、クロウの奴に尻尾を咬まれて……」

「それで、方法の体で逃げてきたのかい?ダラシがないねぇ?そんなことじゃあ、天下統一どころか、土佐一国の大将になどなれやしないよ!」

「姐御はいなかったから、わからねえんで……。あの屋敷は、ただの屋敷じゃあねえ!妖怪か化け物の住処ですぜ!」

「ただの屋敷じゃあないのは、百も承知だろう?直弼が猫の寿命を伸ばしたり、猫と会話ができるようにしていたんだからね!もう少しで、会話ができるところで、借金取りに殺されたんだ。我々がクーデターを起こしたのは、直弼が死んだからじゃあないか……。あの時点で、あの屋敷を我々のものにできていたら、今頃は、四国の猫を従えていたはずさ!」

「じゃあ、あの屋敷には、我々の知らない仕掛けが作られていたってことですかい?」

「それはそうだろう?例の寿命を伸ばす丸薬だって、何処に隠したか……?何度も侵入したけど、臭いも掴めなかったじゃあないか……」

「そういやぁ、あの丸薬、残りわずかですぜ!クーデターの時、袋に入った奴を三つほど咥えてきた奴ですがね……」

「とにかく、あの屋敷から、クロウたちを追い出して、我々のアジトにするんだよ!そのために、畑を荒して、その犯人をあの屋敷の猫だと人間に思い込ませて、屋敷から猫どもを追っ払ってもらおうとしたのに……。人間の誰かが、クロウたちの味方になったんだよ!そうでなきゃ、あの農家に、何人もの百姓がやってきて、農家に猫が住み着いている、なんて苦情を言いには来ないよ!我々が人間の会話を理解できて、調べられる前に姿を消したから、無事に済んだけどね……」

「でも、何で、こんな寂れた神社を住処に選んだんです?ほかに農家の納屋とかあったでしょう?」

「それなりの理由があるのさ!まだ確実ではないけどね……。ここは猫屋敷の裏鬼門に当たっているんだ。わたしの感覚で、ここはかなり特殊な場所……」

「特殊な場所っていうのは……?」

「猫屋敷の角部屋のように、異界に繋がり易い場所なんだよ……」

「それで?猫屋敷の猫たちの疑いは晴れたの?」

猫屋敷を訪問して数日後のこと、自宅にやってきた政雄にオトが尋ねた。

「ああ、そのことを報告に来たんだよ」

と、政雄は祖母の淹れてくれたお茶を一口飲んで答えた。

「なんだ!わたしの顔が見たくて、来たんじゃないの……?」

「ブッ!なんで、見馴れた従妹の顔を拝みに、こなけりゃあいけないんだ?」

飲みかけのお茶にむせながら、政雄が言った。

「こんな天気の良い休みの日なのに、大学生がデートの相手もいないようだから……、わたしを誘いにきたのか、と、思ったのよ……」

「デート?相手もいない?失敬だな!彼女くらい……」

「いないわよね……?」

「まあ、今のところは、大学の授業が忙しいから……、それより、オトだって、ボーイフレンドのひとりもいやしないじゃないか……」

「あら、わたしは毎日のように、下駄箱にラブレターが入っているわよ!下手くそな字で、漢字も間違いだらけ。赤エンピツで添削して、返してあげたわ。中には、名文もあったけど……、でも、わたしにふさわしい、王子様は現れないわね……。最低でも、リョウより可愛くないとね……」

オトがそう言うと、座布団に丸まっていた白猫が「ミャー」と鳴き声をあげた。

「おや?シロウが同意したぞ。そうだ!リョウはどうしている?」

「あいつ、ワルガキに誘われて、映画を観に行ったよ。なんでも、ワルガキのひとりが好きな女の子を誘いたいんだけど、リョウが一緒でなきゃ、ダメだって言われて、何人かのグループで行くことになったようね……」

「フウン、リョウはモテるんだ……、従兄弟同士、よく似ている、って言われているのに……」

「本当によく似ているわ!オクテだしね!」

「わかったよ!僕がモテないってことは、ね!話を戻すよ!猫の被害の話だ!」

「アッ、そうね!例の農家にシャム猫とトラ猫はいたの?」

「それが、常さんが、近所の農家を回って、畑を荒している猫は、常さんが管理人の屋敷に住みついている猫たちではないことを説明したんだ。僕もそれに立ち会って、どうやら、畑荒しは大きなトラ猫のようだ、と言ったんだよ。そしたら、その猫を見たという人がいてね。僕と同じ、大きな農家の納屋の屋根だったらしい。で、何人かの代表者がその農家に確認に行ったんだよ。僕も一緒に……。その農家の主人が言うには、納屋に猫が勝手に住みついていることは認めたんだけど、納屋を見たら、一匹の猫もいないんだ。農家の人が交替で畑や、その農家の納屋を見張ることになったんだ。今日で五日。トラ猫もシャム猫も姿を見せない……。畑荒しの被害もなくなったから、事件は鎮静化したようだ」

「リズとフーテンは人間の言葉が理解できるから、危険を察して、住処を代えたのね?」

オトがそう言うと、白猫がまた「ミャー」と、鳴き声をあげた。

「シロウも人間の言葉がわかるのかい?さっきから、『そうだ!』って、僕らの会話に入ってきているようだけど……」

「今は、シロウのようね?ちょっと実験してみようか……」

と、オトは言って、四角い木箱に入った積木を持ってきた。幼児向けの「あいうえお」と書かれた正方形の木製のカルタのようだ。

「それで、何の実験をするんだ?」

と、政雄がいぶかし気に尋ねる。

オトは「シィ!」と、唇に人差し指を当てる。

その積木をバラバラに、シロウのいる座布団の前に並べた。

「シロウ、キチエモンはどうしてる?」

と、オトがゆっくり声をかける。

すると……。

『ヒマコノカラタヲカリタ』

と、あいうえおのカルタに右足を乗せていった。

「意味不明だな?」

と、政雄が言う。

「まって!この木札には、濁音や半濁音がないのよ……。カはガかもしれないし、タはダかもしれないわ……」

「なるほど、『ヲ』があるから、そこで、単語が切れる。残りは『カリタ』……『借りた!』だ!」

「そうよ、その前は『カラタ』……『身体』よ!」

「最初の『ヒマ』と『コノ』は……?」

「借りたんだから、なにかの、よ!だから、『ヒマコ』の、になるのよ……」

「ヒマコ?女性の名前かな?」

「濁音なのよ!コはゴなのよ!」

「すると……ヒマコはヒマゴ?」

「そうよ!キチエモンは曾孫の身体に憑依して、復活したのよ……」


「姐御、猫屋敷で猫と会話した人間がわかりやしたぜ!」

「おや、フーテン、お前にしたら、上出来、思ったより早かったじゃないの……」

「屋敷猫のイゴの子供のあとをつけたんでさぁ。シズカとクロウの子供のところへ行くようでしたんでね。あの屋敷を襲撃した時に、白黒の猫が慌てて、屋敷から出て行くのを見ていたんで、今回も……と思ってあとをつけたんでさぁ……」

「シズカとクロウの子供?わたしとお前で襲いかかった、シズカにそっくりの子猫だね?生きていたのかい?」

「あの時は、シズカがえらく抵抗して、子猫のほうは、逃げられたんですがね。シズカは仕留めたはずですぜ……」

「ああ、確かに、屋敷まで逃げていったけど、そこで死んだはずさ……。子供は無事だったのか?誰か人間に助けられたんだね?」

「ええ、イゴの子供が入った家に、シロウって名前をつけられて、飼われていやした。その飼い主は小学生の男の子なんですが、気持ちの悪い野郎で、わかりもしないくせに、『ニャー、ニャー』と、猫の鳴き声を発して、猫と会話をしようとするんですぜ……」

「猫と会話をしようと……?そいつは、直弼と同じだよ!直弼もよく、意味もないのに、ニャー、ニャー、言ってた……」

「まさか、直弼の生まれ替わりじゃあねえでしょうね?」

「わからないけど、邪魔は邪魔だね?クロウたちと人間がつながったら、我々の野望の妨げになるね……」

「事故に見せかけて……、車に跳ねられてもらいますか……?」

「慌てることはないよ!まだ、小学生なら、大したことはできない。ゆっくり、様子をうかがうんだ!チャンスがあれば……事故に合ってもらおう……」

「あら、シロウ、また『あいうえお積木』で遊んでいるの?」

政雄が帰って、リョウが映画から帰ってきた時、シロウが散らばっていた、積木を引っ掻きだしたのだ。

「何?シロウが積木で遊ぶことを覚えたの?」

と、リョウが尋ねた。

「まって!シロウの眼が変わっている。シズカになっているのよ……。何か伝えたいことがあるのかしら?」

ふたりは、白い猫が前足で引っ掻くようにしている、文字の積木を見つめていた。

『キケンフウテンニミツカツタ』

「これ、『危険!フーテンに見つかった』って言っているのかな?」

「リョウ!凄い!あなた、猫と会話ができそうね!」

「いや、会話って……、この前のトイレの砂に書いた文字より、読み易いよ」

「そうね、シズカ、この家をフーテンに知られたってことね?」

オトの言葉に、白猫はうなずく。

「見つかったら危険なのかい?」

と、リョウが尋ねた。

『ハイコカラオサレテクルマニシカレタ』

「背後から押されて、車にしかれた?」

 リョウがそれを読み上げる。シズカがうなずく。

「確かに、でっかいトラ猫に背中を押されたら、前のめりに飛び出すかもね?信号待ちの交差点とかでやられたら、危ないわね……」

「気をつけるよ!ありがとう、シズカ……」

 リョウがそう言うと、シズカはにっこり笑って、表に出て行った……。


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