オッド・アイ

@AKIRA54

第1話 猫屋敷

「ミャー、ミャー」

 何処か遠くないところで、仔猫の鳴き声のような音がした。

「また、リョウが猫の鳴き真似しているのかしら?」

 台所の土間から、勝手口の扉を開けて外を覗くと、思ったとおり、弟のリョウが、腰をかがめ、溝の中を覗き込んでいた。が、猫のような声は、弟の口からは出ておらず、彼の視線の先の方から、聞こえてくる。

「リョウ、何してるの?」

「しぃっ、大きな声、出さないで!仔猫が怯えて、逃げるよ」

 リョウと呼ばれた、小学四、五年生と思われる男の子が、右手人差し指を立てて、唇に当てながら、姉にあたる、中学生と思われる、ショート・カットの髪と大きな黒い瞳が印象的な少女に注意するがごとく、小声で言った。

「何?仔猫がどうしたの?」

 小声でそう言いながら、少女は弟の傍に歩みを進めた。

 弟が無言で指さす方向には、排水の為の幅三十センチ程の──今は水の涸れている──コンクリートで固められた溝。その一部分に同じコンクリート製の蓋が乗せられている、その下に、白い物体が蹲っている。もう一歩近づいて、それがまだ小さい、真っ白な毛色の猫であることに気がついた。

 もう少し、近づこうと右足を出すと、急にその白い物体の形が変わった。丸くなっていた身体を、伸ばしたかと思うと、背中を高くそびえさせる。

「フゥー!」

 と、威嚇するような音を発して来た。

「ダメ!それ以上近づくと、怯えて逃げてしまう。怪我をしてるみたいなんだよ。ほら、右の前足の付け根に血がにじんでいる」

「えっ?怪我をしてる?そういえば、そこだけ、赤くなってる……」

 弟の言葉に、威嚇している、その白い猫の前足に目を向けた。

 仔猫は、怯えている。威嚇する体勢をしたまま、じっとふたりの人間を観察している。太陽の光が、その猫の顔を照らした。雲の切れ間から陽が射してきたのである。

「あら、この猫、眼の色が左右、違ってるよ。右目が青くて、左目は……、緑というより、金色かな?変わっているわね」

 少女が指摘したように、その仔猫、左右の眼の色が違う、所謂「オッド・アイ」と呼ばれている種類の猫であった。日本語でなら、「金眼・銀眼」と呼ばれる、珍しい種類の白猫である。眼の色素が薄いため、青みがかった瞳になっているのだ。白猫にたまに現れることがあるらしい。幸運を呼ぶとも言われている。

「怪我をして、動けないのかも……。ちょっと見張っていて、何か食べるもの持ってくる。きっと、お腹がすいてると思うから……」

「餌で釣るってわけ?成績もエイけど、悪知恵もよく働くねェ……」

「悪知恵って、何よ、作戦、と言いなさいよ。仔猫の為の救出作戦の第一歩よ。解った?ちゃんと、見張っているのよ」

 弟にそう言い残して、少女は踵を返す。元の勝手口から土間へ、そして、台所へとってかえした。

「ほら、かつおの削り節と、出汁ジャコ。鯵だから、美味しいはずよ」

 二分もしない時間で、台所から、猫の好物を探し出してきた。台所へ引き返しながら、頭の中で、品物の選択と、その置き場所について、脳みそを回転させていたのであろう。手際の良さには、慣れているのか、弟は驚きもしなかった。

 二品を弟に手渡す。仔猫への対応は弟に任すらしい。少年も心得ているのか、無言でそれを受け取ると、仔猫の方に向き直り、しゃがみ込むと、右手を差し出した。かつお節──花カツオと呼ばれる、削り節──が掌に盛られている。

「ミャー、ミャー」

と猫撫で声とも、猫真似とも言えない、奇妙な声を出し始める。本人は大真面目。猫語を話しているつもりらしい。普段から、猫を見かけると、このような声で話しかけている。そのことから、冒頭の猫の声を弟の発している声と少女が思ったのである。

「ミャー、ミャー」

と、言いながら、少年はスリ足で仔猫に近づいて行く。仔猫は警戒はしているものの、威嚇の体勢を解いて、珍しそうに、少年を見つめ、且つ、その鳴き声とも、奇声とも解らない声に訊き耳をたてるかのように、両方の耳を小刻みに動かした。

 どうやら、敵でないことが解ったのか、警戒心を解いたかのように、一歩前に進んでくる。いや、花カツオの匂いに引かれたのであろうか、小さな鼻を突き出しながら、ゆっくり近づいてきた。

 少年は、声を止める。また、動きも止める。まるで石のように固まったまま、右掌を仔猫に差し出していた。

 コンクリートの溝から、仔猫は身軽に飛び出し、少年に近づく。少年の右手のひらが、溝の渕の地面ギリギリに伸ばされていた。

 仔猫がゆっくりとその掌に近づき、まず、手前のひとかけらを、怪我をしていない左前足で掻き取るようにして、地面に落とし、すぐに口に咥えた。それを味わいながら、少年の顔を見つめている。敵でないことから、味方であることが解ったかのように、続けて、掌の花カツオに口を持って行った。

 少年はゆっくり、掌の花カツオを地面に落とし、左手にあった、鯵の煮干しをその横に並べてやった。仔猫は安心したかのように、廻りを見向きもせず、一心にそれを口に運んで咀嚼していた。

「やっぱり、お腹が空いていたのね」

 と、少し離れた処にしゃがんでいた姉がぽつりと言った。

「野良猫かな?きれいな猫だから、飼い猫かもしれないね」

 と、弟の背中に問い掛けるように言う。

「うちで飼ってもエイかな?祖母ちゃん許してくれるかな?」

 少年は、しゃがんだまま、姉の方は見ず、猫の食事を見つめながら呟いた。

「そうね、前のミケが死んで、可哀想だったから、『猫はもう飼わない』っていってたけど、あれから、もう三年になるから、考えも変わっているかもね。でも、この猫、野良じゃないかもしれんよ。飼い主が探しているかもしれん……」

「まあ、飼い主が出てきたら、返してあげたらエイよ、一旦、うちで面倒見てやろう。怪我もしてるし……」

「勝手やねェ。まあ、放っておくわけにはイカンね。仔猫やし、他の野良猫に苛められそうやしね……」


        2

 姉弟に拾われた、オッド・アイを持つ白い仔猫は、野良猫だったのか、飼い主は現れなかった。彼らの祖母は、その神秘的な瞳の色が気に入ったのか、それとも、「金眼・銀眼」の伝説──幸運を呼ぶという俗説──を知っていたのか、あっさりと、我が家の飼い猫にすることを認めてくれた。そして、名前がつけられた。「シロウ」、シロではない、四郎である。この家に飼われた猫は過去に三匹。つまり、「四匹目」と「白」を掛けた名前であった。

 さて、物語を進めていく前に、紹介しておかねばなるまい。まず、この物語の主人公の姉弟、弟は「リョウ」と呼ばれていることは既にご存じだろう。姉の方は「オト」と呼ばれている。本名は「オトネ」というそうだが、皆が「オト」と呼ぶので、そうしておこう。

 物語の舞台は、地方都市「K」という城下町。時代も現在ではない。大雑把に昭和の後半に差し掛かる頃としておこう。スマホや携帯がない時代である。

 姉弟が暮らす家は、城下町の西に位置した、古い住宅街である。高層マンションもなければ、高速道路もない。近くを路面電車が走っており、繁華街へのアクセスは比較的便利な場所である。そこで、彼らの祖母は下宿屋を営んでいる。おまけに、玄関脇を改装して、祖母の手造りのお惣菜や、ジュースやサイダーといった飲み物、アイスキャンデーなども売っている。

 彼らの両親は、父はサラリーマン、母は役場のパートをして、家計を支えていた。貧しい、とはいえないが、贅沢ができる暮らしでもない、そんな中流の家族であった。

 姉弟に拾われた仔猫──シロウ──は警戒心が強く、中々人間に懐かなかった。ただ、リョウが例の猫の鳴き声で話しかけると、不思議そうな顔をして、近づいてくる。出逢いの時の花カツオの記憶が甦るのであろうか?次第に、姉弟には甘える仕草を見せ始めた。

 シロウが家族になって、半月ほど経ったある日の午後、姉弟は居間にあたる座敷でブラウン管に映る、娯楽番組を眺めていた。シロウが土間から飛び上がって座敷に上がってきて、テレビの画面を小首をかしげて眺め始めた。画面がコマーシャルに変わると、画面の動きに反応して、画面を前足で引っ掻くような仕草をする。得物を見つけて捉えようとしているのか、ネコジャラシで遊んでいる時と同じような行動である。

 CMが終わり、番組も終了となって、姉のオトがテレビのスイッチを切った。画面が暗くなり、シロウの顔が画面上に──鏡に映るように──大きく浮かび上がった。シロウはその自分の顔をじっと眺めている。姉弟は深く注意を払わず、畳の上に立ちあがり部屋から移動しようとした。背中を向けていたシロウがゆっくり振り返った。

「あれ?シロウって、左眼が青かったっけ?」

 シロウと視線を合わせてしまったリョウが呟いた。

「何言ってんの?シロウは右眼が青、左が金色よ」

 と、オトが否定する。

「でも、今のシロウは左眼が……」

「えっ、そんなバカな……」

 オトが振り返って、シロウの顔を正面から睨むような視線を向ける。シロウと視線が交わった。が、すぐ、シロウは視線を外し、アッという間に、座敷を横切り、土間へと飛び降りていった。

「シロウ、待って……」

 と言う、オトの声は完全に無視された。シロウは振り向くこともなく、表へ出てしまったのである。

「確かに……、左眼が青かった気がする。でも、右眼は金色とゆうより、緑がかっていた。そう、エメラルドグリーンのような澄んだ緑色に……、見えた……」

「ねえ、猫の眼の色って、変わるって言うけど……」

「小さな仔猫が、大人になって行く段階で、変わる事はあるらしい。色素が増えて、濃くなるってことね。それと光の関係で、瞳が大きくなったり、小さくなったりすることで、色が濃くなったり、薄くなったりするだけよ。瞳の色が完全に入れ替わることはあり得ない……。きっと、見間違いよ……。そう、私たち、テレビの見過ぎかもね」

        ※

 表へ飛び出したっきり、シロウは陽が暮れるまで帰って来なかった。姉弟が夕ご飯を終える頃、いつもどおり、勝手口の小さな隙間──猫の通り道として孔を開けている──から身体をねじ込むように入って来た。それを目撃した、祖母がぽつりと、

「おや、シロウは肥えたんかね、孔が窮屈になってる……」

 と、言った。

「えっ?孔は前のミケ用だったろう?シロウは子供だから、まだそこまで大きくないよ」

 リョウが祖母の言葉を否定するように言う。

「けど、一回り、大きゅうなった気がする。成長期なんかねぇ……」

 いくら成長期といえど……、と、リョウは土間をゆっくり移動するシロウを座敷から眺めてみた。

「ほ、本当だ、大きくなっている。えっ?本当にシロウ?」

 リョウの言葉が聞こえたのか、土間をゆっくり歩いていた白い猫は、立ち止まり、リョウのほうに顔を向け、

「ニャー」

  と一声鳴き声をあげた。

「やっぱり、左眼が青い……」


「御飯もちゃんと食べたし、自分の寝床に入ったわよ。シロウに間違いないわ」

夕食のあと、リョウとオトの姉弟が丸いちゃぶ台に向かい合って、白い猫について討論している。姉のオトが白猫のその後の行動を分析して、結論を突き付けた。

「確かに、いつもと同じ行動だ。シロウと呼んだら、返事をして、御飯をもらった。でも、半日で子猫が大人の猫になったり、眼の色が左右、変わったりする?」

「特殊な猫なのよ!だって、子猫かどうか、わたしたちシロウの歳は知らないのよ!小さかったから、子猫と思っていただけ……、ちょうど大人の猫に変わる時期だったのよ!眼の色も大人になった証拠じゃないの?猫の成長期については、よくわからないけど……、ライオンの雄はタテガミが生えるから……」

姉の怪しい見解に納得はできなかったが、反論もできないリョウだった。

事件が起きたのは、翌日のことだ。朝の食事をもらったシロウは、いつもなら縁側の日差しの当たる場所で毛繕いをして、丸くなって眠ったりするのだが、その日はさっさと表に出て行ったのだ。

オトはそれに気づいていたが、学校に行く準備中であったこともあり、気にすることも、弟に話すこともなかった。だから、ほかの家族にもシロウのいつもと違った行動を気に掛ける者はいなかった。

白い身体に埃や赤土をつけた、薄汚れた姿で、シロウが帰ってきたのは、その土曜日の午後、学校から姉弟が帰ってきたすぐ後だった。

「あれ?シロウ、ずいぶん汚れているね?」

と、土間から座敷にヒョイと上がってきたシロウに気がついたリョウが言った。

「朝から出かけていたわよ。彼女でもできたのかな?」

「あっ、怪我をしている!」

座敷に置かれた座布団に腰を落とした猫の右足に赤い擦り傷がついていたのだ。

リョウの声に反応したのか、シロウは座布団から立ち上がり、リョウの膝元に歩み寄った。そして、口に咥えていた、小さなガラス玉のようなものを畳の上に転がした。そして、一瞬、リョウの顔を見つめると、元の座布団に戻って、右足の傷を舐め始めた。

リョウは目の前に転がった小さなガラス玉のようなものを手に取った。

「綺麗なガラス玉だね?どこから咥えてきたんだろう?」

リョウはガラス玉のようなものを右眼の前にかざす。無色透明なのだが、陽の光を受けて、その玉はさまざまな色に変化した。玉と言ったが、球体ではない。多面体だ。

「フウン、まるでダイヤモンドみたいね?特殊なガラスなのかもね……」

と、オトが言った。

「シロウ、どこから咥えてきたんだ?」

と、伝わるわけのない言葉をリョウは白い猫に投げかけた。すると、そのわかるわけがない言葉を理解したかのように、白い猫は傷口を舐めることをやめ、少年の顔をにらみ、スクッと立ち上がり、背中を向けた。そして、まるで案内するからついてこい、というように、一度顔をリョウに向け、その首を前方に振ったのだ。

「ついてこい、っていうことかい……?」

白い猫が座敷から土間に降りて、一旦立ち止まったのを見て、少年は猫に問いかけたのだ。

「リョウ、行くよ……」

 と、姉は立ち上がった……。

「まさか?偶然よね……」

前を行く白い猫は、人の通れる道を進んでいる。垣根や家と家との境界線にある、人は通れないが、猫なら充分通り抜けられる所には向かわなかった。そのほうが近道だったことに、勘のいいオトは気づいたのだ。

(まるで道案内をしてくれている。猫が人の言葉を理解して、ガラス玉を見つけた場所に案内するっていうの?それじゃあ、お伽噺じゃないの!『鶴の恩返し』?いやいや、『花咲か爺さん』のポチのほうか……?シロウは確かに、リョウが助けてあげたから、恩返しをする可能性はあるかもしれない……?でも、綺麗だが、ただのガラス玉だし……)

オトは想像力豊かな少女だ。現実的でないことも頭から否定はしない。

白い猫は並足程度の速度で進んで行く。水路のような小川に架かる石橋を渡ると、民家はまばらになり、田園風景が広がっている。その先にはもう民家は数えるくらいもない。その向こうには、耕作放棄地のような雑草が生い茂った土地に、ところどころ、柿の木やビワの木が課税対策で植えられている。

白猫は、そんな雑種地の間の狭い道を迷うことなく進んで行く。

「この先、民家なんてあるの?」

最後の農家らしき家を通り過ぎたところで、オトが言った。

「あっ!この先、幽霊屋敷があるんだよ!」

「幽霊屋敷?」

「うん、別名『猫屋敷』ともいうそうだけどね……」

「何であんたが知ってるの?」

「学校で怖い話をする機会があったんだ。その時、誰かが本物の幽霊屋敷がある、って言ったんだよ。空き家なのに、人の声が聞こえたり、窓に大きな猫の影とか、人の影が映ることがあるんだって……。その話をした次の日、肝試しに行った連中がいてね。本当に幽霊を見て、化け猫に追いかけられたんだってさ……」

「ははぁん!その肝試しをした連中って、例の悪ガキ三人組ね?三バカ大将とも呼ばれている奴らね?」

「よく知ってるね?」

「まあ、近所で有名だからね……、それで、その空き家って、何か曰く付きの家なの?」

「建物は洋館風のレンガ造りの二階建て……。ほら、あそこに見えるだろう?」

リョウの指さす方向にこんもりとした樹木の塊があり、その陰にコンクリートと石堤の塀に囲まれた、レンガ造りの屋敷の二階部分が覗いていた。

「あんなヘンピな場所に誰が建てたの?」

「何でも、明治時代に大きなお百姓の主人が、流行りの洋館を建てたらしい。本家とは別の、別宅としてだったようだよ。その大農家さんが、投機で失敗して、戦後の農地改革で、没落してしまって、別宅を売り払ったんだ。ところが、その買い主も投機か何かで失敗して、あの屋敷で首吊り自殺したんだってさ。おかげで、次の買い手は現れず、空き家のまま……。幽霊屋敷と言われ出したのは、それかららしいよ……」

「それで、『猫屋敷』のほうは……?」

「その自殺した人が飼っていた猫がいたんだよ。メス猫がいて、何匹も子猫ができて、野良猫になったらしい。その孫かひ孫の代の猫たちが住みついているらしいよ」

「ふうん、野良猫が住みついているのか……。シロウが遊びにいってもおかしくはないわね。きっと、幽霊っていうのはその猫たちね。猫の鳴き声が壁に反響して、人間の声のように聞こえたのよ。二階の窓に映った影は、その猫の影が光の関係で大きくなったり、何匹かの猫の影が重なって、人間の影に見えたりしたのよ。三バカ大将たちは恐る恐る歩いていたから、突然大きめの猫が飛び出してきて、アワを食ったのよ……」

オトは理論派でもあるのだった。

理路整然としているが、全てはオトの想像にすぎない。リョウは反論する気にはなれないまま、白猫のあとをついて行った。


「猫の鳴き声がするわ……」

耳のいいオトが、鎖に南京錠のかかった鉄製の格子状の門の前でそう言った。

「中に入れないね?門に鍵がかかっている」

 一応、売家として、不動産屋が管理をしているらしい。

「三バカたちは、どうやって入ったの?まさか、門前で幽霊や化け猫に出会(でくわ)したわけではないでしょう?」

姉の質問に、そこまでは訊いていない、リョウは言葉が見つからず、黙っている。

「鉄格子を越えるのは、大変ね?三メートルくらいの高さだし、足を乗せる横棒も一ヶ所だけだし……」

オトは自分の二倍ほどの高さの門を見上げて、そう言った。

「ニャー」

と、足元の白猫が鳴いた。そしてまた、ついてこい、というように背中を向ける。高い塀に沿って歩きだした。

屋敷の敷地は、それほど広くはない。二階建ての屋敷と裏庭があるくらいで、付属の建物はないようだ。長方形の塀の最初の角を曲がると、門前の砂利石の地面と違って、赤土に雑草が伸びている。不動産の管理人も、ここまでは、手入れしていないようだ。

「あっ!勝手口というか、通用門があるのね?」

塀の途中に木製の扉が見えた。裏木戸と思われるその扉にも、南京錠がかかっているが、蝶番(ちょうつがい)が外れかけていた。ネジ留めの部分の板が割れたようだった。オトが南京錠ごと引っ張ると、蝶番のネジが外れた。

「これ、誰かが蝶番の部分の板をわざと割ったみたいよ。しかも、それほど、昔ではなく、ここ、一月以内かな?傷口がまだ新しい……。ほら、下の部分に猫の通れる穴、潜り戸がある。猫の爪痕より、蝶番の傷は新しいわよ!」

「三バカ大将が蝶番を壊したのかな?」

「三バカたちが肝試しをしたのは、何時?」

「一週間前の土曜日」

「それよりは前ね。蝶番のネジの錆から見ても……」

錆のつきかたがわかるのか?姉の推理小説好きを思い出して、リョウは疑問に感じたが、口にはしなかった。

シロウが潜り戸を頭で押して、中に入った。姉弟たちも木戸を押して、敷地内に足を踏み入れた。

「お邪魔します……」

誰もいるはずのない──猫はいるようだ──空き家に向かって、オトはそう挨拶をしたのだった。

「キャー!これ何……?カ、カラスの死骸……か?」

屋敷と塀との間は、レンガの通路があり、その他は硬い砂利石が敷き詰められていて、思ったより雑草は繁っていない。姉弟は通路に沿って、門の方向──つまり、玄関側──に歩いていった。通路が折れる手前に、黒い物体が通路の上にあったのだ。好奇心の旺盛なオトがその正体を確かめようと近づいて、その正体に驚きの声をあげた。

「お、脅かさないでよ、鳥の死骸なんて、猫が住みついているのだから、鳥を捕ったりすることもあるよ。前のミケはスズメをよく捕って、自慢気に見せにきて、ばあちゃんに怒られていたもの……」

「スズメくらいなら、驚かないわよ……、カラスよ!このクチバシ!子猫なら襲われたら、負けるわ!」

そう言い合っている姉弟に、呆れたように、

「ミャー」

と白い猫が、ふたりの顔を見上げて声をあげた。

すると、その声に反応したかのように、

「ニャー」

と、別の猫の鳴き声がして、屋敷の割れたガラス窓から、一匹の猫が飛び出してきた。身体に黒い縞模様がある、キジトラという種類の猫だ。

キジトラは、白猫に近づく。どうやら、敵対しているのではなく、顔見知りが歓迎の意を表しているようだ。鳴き声も甘えるような音階だった。

二匹は、鼻を突き合わせ、白猫がなにやら、語りかけるような声を出した。猫同士の会話をしているようだ。

キジトラが、姉弟のほうに視線を向け、フッと鼻息を洩らしたあと、ついてこい、というように、レンガの通路を玄関に向けて歩きだす。

「この屋敷の主(ぬし)なのかね?僕らを玄関に案内してくれるみたいだよ……」

「ほら、二階の窓を見てごらん。三毛やサビ猫が睨んでいる。まだ、歓迎してくれたかは、疑問ね。あのキジトラは主というより、門番ね……」

二匹の猫のあとをついて行きながら、姉弟は、猫たちの視線を感じていた。

玄関にも、猫用の潜り戸があり、二匹の猫は屋敷に入る。

「我々には、この潜り戸は小さすぎるわね?『不思議の国のアリス』に出てくる魔法の薬が必要ね……」

「ドアには鍵は、かかっていないようだよ……」

「あら、そう?無用心ね。おかげで簡単に中に入れるけど……」

二枚戸の右側を押すと、ドアは少し軋んだ音を立てて、中に開いた。玄関口は吹き抜けになっているのか、二階からの陽の光で明るい。正面に階段があり、二匹の猫は、もう階段を駆け上がって行くところだった。

「なんだか、臭うわね?猫のオシッコ、食べ物の残飯、ネズミか小鳥の死骸が腐乱した臭い……。まあ、幽霊の匂いはしないね?猫屋敷っていうのが、ぴったりね」

オトが玄関口に入って、周りを見回しながら、鼻をひくつかせる。あまり気持ちのいい臭いの固まりではなかった。

「とりあえず、二階へ上がる?ほら、また、別の猫が踊り場から見つめているよ」

白とキジトラが上がって行った階段の踊り場に、白と黒の模様が半々の太った猫とグレーと茶色の混じったサビ猫が珍しい生き物を見るような視線を階下の人間に向けていた。

「歓迎されている気はしないわね?何匹いるか、しれないけれど、いきなり、襲いかかりはしないでしょうね……」


「あら、今度はあなたが案内人?いや、案内猫か……?」

白黒模様に金色の眼、瞳は青く光っている若い猫が、姉弟を二階の一室に導く仕草をしたのだ。

猫に案内されたのは、二階の一番端の部屋──もちろん洋間でドアノブ付きの──だった。そこにも、猫用の潜り戸がついていて、白黒猫はそれを押して部屋に入った。ドアノブを回すと、鍵はかかっていない。オトがゆっくりと扉を押して、部屋を覗きこんだ。

部屋には、目立った家具類はない。十畳ほどの長方形の普通の洋室だ。正面に大きな窓があり、裏庭が見える。松の木がその窓からの風景の大部分を占めている。ガランとした部屋だが、白い壁際に備え付けの棚が壁から生えているように、三つ、高さを違えて残されていた。一番高い、その棚の上に何かが乗っているのだが、不思議なことに、周りの空間が歪んでいるみたいで、ピントが合わなかった。

姉弟は、恐る恐る、部屋に足を踏み入れた。ドアが自然に閉まった。

何故か、その瞬間、目眩に襲われたような気分になった。オトは反射的に弟の手を握りしめた。リョウも姉の手を握り返した。目眩のような気分はすぐに収まって、オトは視線を壁の棚に向ける。不思議なことにピントが合って、その上に乗っている物体がはっきりと見えた。それは、真っ黒いツヤのある毛並みの猫だった。その眼は金色で瞳は碧に光っていた。

部屋には、ほかに、数匹の猫がいる。シロウも、キジトラも三毛もサビ猫も白黒も、窓際から、ふたりに視線を送っていた。

「ようこそ、猫屋敷へ……。歓迎するよ、オトにリョウだったね?」

と、人間の言葉がはっきりと聞こえた。

「誰?何処にいるの?」

人の姿が見えないから、オトは天井や壁に向かって、そう尋ねたのだ。

「ははは、眼の前にいるよ!おっと、驚かないでくれたまえ、人間の言葉を喋れるといっても、化け猫ではない。猫叉には近いかもしれないがね……」

そう言ったのは、どうやら、今、壁の棚を伝って床に降りてきた、黒猫のようだった。

「猫が喋った!」

「リョウ、落ち着いて……、壁にカメラとか、スピーカーがあるのよ。猫の首輪が怪しいわね。隣の部屋に人間がいて、猫が話をしているように見せかけている……」

「オト、残念だが不正解だ!この屋敷には君たち以外に人間はいない。君たちの常識で判断してもらっては困る。わたしの名はヨシツネ、『九郎義経』のヨシツネだ」

黒猫の口が、その声に合わせて動いている。

「クロウヨシツネ?って誰?」

と、リョウが尋ねた。

「源義経よ、平家物語の……。幼名は『牛若丸』よ!九男だったから、九郎と呼ばれていたのよ」

「ひょっとしたら、クロとクロウをかけているのかな?」

「それって、赤塚不二夫のギャグマンガよりひどいわね?」

「ミャー!わたしのご主人がつけてくれた立派な名前だ!由来がどうであれ、ヨシツネという名は気に入っている……」

「あっ、ごめんなさい。素敵な名前よ。日本の歴史上のベストファイブには入る人気者ですもの……、一位は『坂本龍馬』よ、ヨシツネさん」

「ところで、ヨシツネ、君はどうして、人間の言葉が喋れて、また、僕らの言葉を理解できるの?オウムや九官鳥が、もの真似する程度なら理解できるんだけど、会話が成立しているのには、驚かされるよ。ほかの猫たちは、喋れないんだろう?」

「まあ失礼な坊やね!猫の頭の良さを知らないのね?喋れないのは、声帯が違うからなのに……」

「えっ?サビ猫も喋れるの?」

「サビ猫って呼ばないで!どこも錆てなんかいないわ!わたしの名前はビート、ビートルズのビートよ!サビのビじゃあないのよ!」

サビ猫が怒った口調で言ったが、猫の表情は、普段と変わっては見えない。

「じゃあ、みんな、名前があるのね?」

「当たり前さ!僕はサンタ、幸せを運ぶ、サンタクロースのサンタだぞ。三毛のサンではないぞ!」

「へえ!三毛猫のオス?珍しいわね?船乗りが欲しがるかもね?」

「オイラはイゴ。イゴッソウのイゴじゃあない。囲碁に使う、碁石の色から名付けられたのさ!」

と、若い白黒模様の猫が言った。

「ワシはキチエモンじゃ!キジ衛門ではないぞ!歌舞伎役者の中村吉右衛門から、頂戴いたしたのだぞ……」

と、少し年輩のキジトラ猫が言った。

「わたしの名はシズカ!義経の妻、静御前のシズカよ!身体の色とは、関係はないのよ……」

と、オッドアイの白猫が言った。

「ええッ!おまえは、『シロウ』じゃないのか……?」

「まあ、立ったままでは、疲れるだろう?我々も見上げて話すのはしんどい。床に座りたまえ。君たちの常識から外れた話だから、長くなるかもしれない………」

黒猫のヨシツネにそう言われて、人間の姉弟は埃と猫の足跡で汚れた木目の美しい床に腰をおろした。

「わたしがこの屋敷の主(あるじ)だ。正確にいうと、相続者だ!正式に所有権移転登記はなされてはいないがね……」

「相続者?猫が、この屋敷の?」

話を始めたヨシツネの言葉に、さっそく驚いて、オトが尋ねた。

「わたしは、この屋敷の前の所有者に飼われていた家猫だ。前の所有者は、榊原直弼という男で、資産家の末裔。独身で、六等親以内の親族はいない。遺言状を遺して、遺産は全て、黒猫の『ヨシツネ』に相続させるとしたのだ。だから、わたしがこの屋敷を所有する権利があるのだ。ただ、人間どもは認めようとはしないがね……」

ヨシツネは話を続ける。

この屋敷の持ち主、榊原直弼という男は、科学者だったようだ。ただし、学会に所属し、論文を書くという者ではなかった。彼の研究対象は、猫だった。猫が大好きだった彼は、猫と話がしたかった。そして、人間より、寿命の短い猫たちを長寿にしたかった。資産家だった彼の両親が早く亡くなり、天涯孤独となった彼は、この屋敷を買い取り、猫の寿命を伸ばし、人間と会話ができるようにするための研究と実験に没頭していったのだ。

「じゃあ、その研究が成功して、あなたたちが人間と会話ができるようになったのね?」

「残念だが、彼が生存している間には、会話はできなかった。何らかの効果がある──と考えられる──食べ物とか、薬剤はずいぶん飲まされたがね……。

人間と会話ができるようになったのは、彼が亡くなって、一週間くらい経った夜のこと。雷雲が発生し、庭に落雷したのだ。窓越しに見える黒松の木が、三分の一ほど、雷によって切り裂かれた。その木には、直弼が生存、特殊なアンテナを設置していた。霊界と交信できるように……」

「霊界と交信?何のために?」

「死んだ猫たちと交信するためさ。霊界からの交信は、言葉ではなく、精神、あるいは、脳に直接語りかけてくる。猫の言葉が人間に伝わるのだよ」

「テレパシーってやつか……?」

「それで、霊界との交信はできたの?」

弟と姉が、ほとんど同時に黒猫に質問をした。

「わたしには、わからないがね……、本人は、死んだわたしの母猫の声が聞こえた!と言っていたがね……。そのすぐあと、借金取りが来て、揉め事になって、主人が頭をぶつけて、気を失った。借金取りは殺してしまったと勘違いして、主人を首吊り自殺に見せかけて、本当に殺してしまったんだよ……」

「それって、偽装殺人じゃあない!」

と、推理小説好きのオトが興奮した声で言った。

「そうなのだ。だが、それを証明する者はいない。死体が発見されたのは、五日後、腐乱が始まっていて、最初についた後頭部の傷を警察の検死では、見つけられなかったのだよ。死因は首吊りによる窒息死だ。しかも、間が悪いことに、首を括られて、天井の梁にぶら下げられた時に、意識を取り戻したんだ。だから、検死の結果は首吊り以外の外傷もなく、覚悟の自殺と結論づけられた。手に、借金の証文が握られていたことから、金銭問題を苦にしての自殺とされたんだ……」

「こんな広い屋敷に、人間はひとりだけだったの?お手伝いさんとか、家事洗濯をしてくれる人はいなかったの?」

「いない!主人は極端な人見知りというか、人間嫌いだった。食事などは、全て自分でやっていた。もちろん、我々の食事もね……。不老不死とは言えないが、長生きをするための食事を研究していたからね」

死体を発見したのは、彼の両親に仕えていた、元家政婦の老婆だった。月に一度か二度、様子伺いに屋敷を訪ねて来ていたのだ。

「その老婆とその夫が、遺言状の立ち会い人で、署名をした人間なのだよ。つまり、わたしの遺産相続の証言者なんだ」

「ちょっと、確認していいかな?」

と、リョウが言葉を挟んだ。

「そのご主人、直弼さんだったっけ?いつ亡くなったの?この屋敷が空き家になったのは、二十年くらい前だと訊いていたんだけど……」

黒猫がその時から、ここに住んでいるなら、この猫は二十年生きていることになる。猫の寿命は……?

「ああ、そのとおりだ。今から、二十年前だ。そうか、わたしの寿命を疑っているんだろう?猫の平均寿命から考えて、二十年以上生きていることが不思議に思えるんだね?さっきも言ったように、直弼が食事を研究して、長生きするための食事をわたしに与えたのさ。人間と同じものを食べていたら、長生きはできないよ。栄養とエネルギーのバランスの良い食事は、人にも猫にも大切なんだ。わたしは人間の歳に換算すると九十歳は越えているかもしれないが、人間だって、長生きする方法を採れば、百二十歳は生きられるはずなんだ。これは、直弼の研究から出された計算の結果だがね。人間も猫も身体を構成する細胞は同じようなものだ。生存するために、細胞たちが働き続け、再生できなくなるまでが寿命だ。外的な損傷や、食事による酸化などの悪影響を極力少なくすれば、相当長生きできるのだよ」

「じゃあ、あなたは、直弼さんの研究の成果の食事方法で、長寿を得たのね?で、話せるようになったのも、食事のおかげなの?」

「いや、食事によって、長寿にはなったし、頭脳の働きも良くなった。だが、人間と猫が会話することはできなかった。だから、直弼は霊界にその研究の場を広げたんだよ……」

ヨシツネは金色の眼を姉弟に向け、一呼吸間を置いて、話を続けた。

「テレパシーも霊界に関係しているのでは、と考えたんだ。会話ができなければ、直接、頭脳に考えを送ればいい。それなら、声帯も、口の構造も関係なくなるはずだった。

西洋では、あの『シャーロック・ホームズ』の作者、コナン・ドイルでさえ、本気で霊界が存在すると考えて、研究や実験を繰り返していたんだ。学会もあったようだ。だが、霊界と交信ができた、とは訊いていない。直弼は、霊界とは、宇宙空間にあると考え、微弱な電波を受信するために、特殊なアンテナを黒松の幹に取り付けた。何故黒松か?それは、黒松が、この屋敷の鬼門、東北の位置に立っていたからなのだ。鬼門は異界に繋がっている。異界イコール霊界とも考えられる。鬼門の方向から送られてくる波動を受信し、こちらからも伝えられるようにしたかったのさ。

まあ、直弼が生存中には、成果がなかったんだが、雷が落ちたあと、わたしの頭に直接、直弼の声が聞こえたんだ。『ヨシツネ、聞こえるか?ワシだ!直弼だ!』ってね……」


「雷の所為で霊界と交信できるようになったんだね?」

と、リョウが尋ねた。

「確信はないが、雷のエネルギーが、何らかの影響を与えたのだろ。わたしには、直弼の執念が産んだ、としか思えないんだけどね……」

「霊界があるとしたら、その霊界とつながりたかった人間が、そこへ行ったんだから、こちらに呼びかけようとするわよね」

と、オトが納得したように呟いた。

「ただ、直弼と交信できるのは、この部屋の中だけだ。この部屋が異界と現実の世界の間(はざま)になっているようだ」

「なるほど、だから、さっき部屋に入った時に、目眩いがしたのね?」

「でもさぁ、霊界か異界か知らないけど、猫たちが人間と会話ができるようになったのは、どうしてなんだい?つながっただけで霊界と関わりのない、僕たちと会話が成立するのかな?さっき言っていたけど、声帯とか、口の構造とか、問題があるんだろう?」

「会話ではない!テレパシーだよ。ただ、君たちの思考回路では、テレパシーと判断できず、我々の口の動きに惑わされて、会話をしていると、脳が判断しているのだ!」

「ええっ!テレパシーなの?」

「アニメ映画で、ミッキーマウスがしゃべっている感覚だったよ……」

「嘘だと思うのなら、耳を塞いでごらん」

ヨシツネの言うとおり、ふたりは両手を両耳に強く当てた。

「わたしの声は聞こえるだろう?」

その声は、耳を塞ぐ前と同じ大きさで聞こえたのだった。

「聞こえるわ!でも、直接、脳に、って感覚ではなく、イアホンから聞こえる声みたいよ……」

「じゃあ、僕たちからの会話もテレパシーで送れるの?頭の中で描いたことが声を出さなくても伝えられるの……」

「いや、それは無理だ!実は我々には、もうひとつ秘密がある」

「もうひとつ秘密……?」

「ここにいる猫たちは、全て、一度死んでいるのだ。わたし以外はね……」

「ええっ!一度死んで、復活、というか、生き返ったの?猫界のキリスト様なの?」

「ははは、オトは面白い子だね?直弼と気が合ったかもしれない。違うんだ!復活でも、生き返ったわけでもない。死んでいるのだが、それぞれの子孫の身体に、霊魂となって、住みついているんだよ。憑依していると言ったほうがわかり易いかな?つまり、肉体は、現世の猫。精神は過去の、霊界にいるはずの猫なんだよ。喋れるのは、その霊界から帰って来た猫たちなんだ。今、名乗った名前は、過去の生前の名前さ。人間なら、二重人格者と表現されるかもしれない。猫だから、二重猫格かな?シズカを見ればわかるだろう?元々の身体は、君たちに助けられた、『シロウ』と君たちが名付け親になった、シズカとわたしの息子なんだ。今、死んだ『シズカ』が憑依している。身体つきも、元のシズカに近づいているようだ」

「息子を助けてくれてありがとう。お礼をしたかったの。だから、息子がテレビの画面を見つめている時に、憑依したのよ」

と、白い猫がヨシツネに変わって、話し始めた。

「お礼?あのガラス玉のこと?」

「まあ!ガラス玉ですって?あの石はダイヤモンドよ!」

「ええっ!ダイヤモンド!……」

「ダイヤモンドかどうかは、専門家に鑑定してもらわないと確定的ではないがね。おそらく、本物だろう……」

と、ヨシツネがいった。

「実はあの石を見つけたのは、正確にいうと、我々ではなく、カラスなんだよ!君たちも見ただろう?庭にカラスが死んでいるのを……?」

「ああ、あの桜の木の横の通路にあった死骸のことね?」

「そう、あのカラスが、桜の木の根元を嘴でホジクリ返していたんだ。どうやら、光るものを見つけたらしくてね。それを咥えて、飛び立つところを、イゴが木の上から飛びかかったのさ。かなり、暴れられたが、シズカがちょうど居合わせて、協力して、カラスを退治できた。その時、あの石がカラスの嘴からこぼれたんだよ」

「じゃあ、やっぱり、ただのガラス玉じゃない!土の中にあったんでしょう?ダイヤモンドが土の中にあるわけがないわ!指輪なら、誰かが落とした、ってこともあるだろうけれど、粒のままだもの……」

「カラスが光りものを咥える習性があるって、訊いたことがあるけどね……」

「百聞は一見に如かずだ!信じられないなら、桜の根元を掘ってみるがいい。ダイヤモンド以外のものが出てくるはずだ!」

「ええっ!ダイヤモンド以外のものって、ほかに宝石とかが、埋まっているの?あなたのご主人が埋めたってこと?借金取りに催促されていた人が……?」

「直弼ではないし、それほど昔のことじゃない!十日ほど前かな?庭に侵入してきた男たちが埋めたんだ。ふたりだった。どうやら、盗んだ宝石類を一時的に隠す目的だったのだろう。その後は現れないがね。シズカが咥えていった石はその中のひとつで、カラスがホジクっている間に台座から外れた、指輪についていた宝石さ。台座だけが、土の中に残っているはずだよ」

「盗んだ宝石?姉ちゃん!十日前に宝石商店に泥棒が入って、かなりの宝石が盗まれた事件があったよ!」

「でも、あの犯人、確か二人組だったけど、すぐに捕まったわよ!」

「盗まれた宝石は?」

「さあ?ニュースでは、何もいってなかった気がする……」

「見つかっていないとしたら……」

「ええっ!宝石泥棒が、この幽霊屋敷に宝石を埋めたっていうの?」

「だって、日数も、二人組も、宝石ってことも、一致しているんだよ!」

「まさか、ってこともあるわね……」


「ほう、それで、桜の木の根元を掘ってみたら、宝石があった……?」

猫屋敷の事件?から数日が経過した日の午後。オトとリョウの姉弟は自宅の居間兼食卓用の丸いちゃぶ台の前に座っている。ふたりに対して、二等辺三角形の頂点に当たる位置に、学生服姿の男性が座っている。オトがその男に、猫屋敷での不思議な経験を語ると、宝石の話のところまで話したら、男が結論を急ぐように問いかけたのだ。

「そうなの!たいして、深く埋めてなかったし、カラスがホジクった跡があったから、すぐに見つけられたわ……。元々は絹の袋に入れていたのでしょうけど、カラスの所為で袋は破かれ、宝石が剥き出し状態。リョウが、盗難品だとしたら、事件の現場だから、荒しちゃあダメだ!っていうから、どのくらいあったかは、確認していないのよ。ただ、赤いルビーに青いサファイアの指輪、大きな粒の真珠のネックレスがあったのと、金の指輪の台座だけが、一番上にあったわね……」

「それで、110番通報はせず、うちのオヤジに連絡したわけか……?」

「そう、考えみたら、僕たち不法侵入しているし、そこに宝石が埋められていることをどうして知ったのか?とか、一番は、ダイヤモンドがひとつ失くなっていて、それが、我が家のテレビの上にあったら……」

「なるほど、共犯者、とまではいかなくても、犯人と関わりがあると誤解されるね?」

リョウの説明に納得顔で男はいった。

「それに、伯父さん、困ったことがあったら、いつでも連絡しなさい、って、名刺をくれていたから、同じ電話するなら、刑事課でもいいだろう、と考えたのよ」

「うん、オヤジ、この春、警部に昇進したから、名刺を配りたかったのだろう。まあ、君たちの選択は間違っていなかった、ってことだな……」

「マサさん、僕たち、それからのことはよく知らないんだ。伯父さんが上手く処理してくれて、僕らは警察に呼ばれもしなかったし、その後の連絡も簡単なもので、事件は解決した、ってことだけ……」

オトとリョウは、猫屋敷の玄関脇にある桜の根元を掘ってみたのだ。金色に光る指輪の台座がすぐに見つかって、破れた袋の切れ端をはぐると、赤や青の宝石が赤土に紛れて光っていた。

警察に連絡をするため、宝石類に軽く土をかぶせた後、猫屋敷を離れ、近所の煙草屋の赤電話に駆けていったのだ。

彼らの伯父に当たる茂雄は、県警の刑事であり、運良く在席していた。オトが猫屋敷に飼い猫が迷い込んで、偶然、埋められていた宝石類を発見した、と半分は創作した説明をする。それから、茂雄の到着を待って、再度猫屋敷に向かったのだ。

茂雄は宝石を発見すると、宝石商店盗難事件の担当者に連絡をし、宝石を証拠品として、押収していった。ふたりはシロウを連れて、我が家に帰されたのだった。

翌日、茂雄から事件が解決したことと、礼をいう、との電話連絡があった。しかし、事件の詳細については、何も語ってくれなかったのだ。

ふたりにとって一番の問題は、シロウが咥えてきたダイヤモンドの処理だ。伯父には、ダイヤモンドのことを話すきっかけがないままだった。

茂雄の息子の政雄がオトとリョウに会いにきたのは、実は茂雄に頼まれたからだった。事件は解決した。宝石泥棒の二人組が、警察の捜査が身近に迫っているのに気づいて、宝石類を袋に入れ、幽霊屋敷として有名な猫屋敷の桜の木の根元に埋めたのだ。泥棒のふたりは犯行を否認していたのだが、宝石が発見され、宝石についていた指紋の鑑定結果を突き付けられて、あっさりと犯行を認めたのだった。

事件は無事解決し、茂雄は宝石盗難事件の担当者から、礼を言われたが、どうして猫屋敷に宝石が埋められていたのを発見したのかは、曖昧にごまかしてしまったのだ。

茂雄自身も、オトの説明に違和感を感じていたのだが、別の事件が発生して、忙しくなった。そこで、オトに確認することを息子の政雄に頼んだのだった。

従兄に当たる政雄は、大学生だ。痩せ型のインテリタイプで、男前なのだが、彼女はいない。硬派(バンカラ)でもないのに、学生服で通学している。刑事の息子というのを意識しているのかもしれない。正義感の強い性格だった。ただ、大学生になった途端、髪型だけは、長髪になった。まあ、ビートルズから影響を受けて、世の中の若い男たちの間には、長髪スタイルが流行っているのだから、茂雄も髪型までは、とやかく言わないようだ。

オトは、少し歳の離れた従兄と気があっている。ふたりとも、推理小説の大ファンなのだ。それも、松本清張が登場する前の、いわゆる『本格派』の古典的な作品が好みなのだ。海外作品では、エラリー・クイン、アガサ・クリスティ。日本人作家なら、横溝正史。と、ふたりの意見は一致している。

リョウはまだ、ホームズにルパン、乱歩の少年向けのポプラ社版を読んでいる。

「まさか、猫に教えてもらった、なんて言えないでしょう?偶然、ってことにするしかなかったのよ……」

と、オトは宝石を見つけた経緯について、伯父に上手く話せなかった理由を従兄に語った。

「しかし、不思議な話だな?この猫なんだろう?その『二重人格』の猫っていうのは……?」

政雄には、シロウの眼の色が左右反対に変わって、シズカに変身?したことから、猫屋敷での、不思議な出来事を詳しく話したのだ。

今、オッドアイの白猫の眼は、右の瞳が青、左が金色になっている。身体も子猫サイズに近い。居間の座布団の上で白い身体を舐めていた。つまり、シズカではなく、シロウに戻っているのだ。

あの日、シズカのままの白猫を抱いて連れて帰ったふたりは、疲れてしまって、夕食のあと、風呂からあがるとすぐに寝てしまった。翌日、テレビの前で、スイッチが入っていない、黒い画面を眺めている白猫が、元の子猫の瞳に戻っているのに気がついたのだった。シロウとシズカの二つの人(猫)格が、どうして、どのように交替するのかは不明だが、変身するきっかけ──スイッチ──は、どうやら、黒いブラウン管のようだ。黒い画面が不思議な鏡の役割を果たしているようだった。

「今は、子猫の『シロウ』に戻っているようね。話しかけても反応するのは、ご飯ができた時くらいよ」

と、オトが現況を説明する。

「つまり、母親のシズカにならないと、意志疎通ができない、ってことか……?それで、猫屋敷のほうはどうなっているんだ?」

「立ち入り禁止!」

と、リョウが答える。

「裏木戸にも厳重な鍵と、中から鎖とカンヌキで封鎖されているし、玄関の鉄格子の門も、乗り越えできないようにしているわ」

と、オトが弟の回答を補足する。

「じゃあ、中にいる猫たちは?保護されたのか?」

「保護された猫がいる、とは訊いていない。猫が通れる隙間を全ては塞ぎ切れないから、猫たちは、出入りできるんじゃあないの?」

「君たちが入った、その異界か霊界かにつながっている部屋は?警察は屋敷内を捜査したんだろう?それと、榊原直弼という、前の屋敷の所有者の研究も気になるなぁ」

「そこら辺は僕らには、知り得ない情報だよ。茂雄伯父さんなら、知っているか、担当者に訊くことはできるかもしれないけれど……」

「よし!僕が調べてみよう!これは、凄いことかもしれないからね……」


その次の日曜日、政雄は再び、オトとリョウのもとに現れた。今日は学生服ではなく、デニムのパンツに紺系統のボーダー柄のトレーナー姿だった。トレーナーの左胸の辺りに二つの足跡のマークがついている。

「途中経過だけど、いろいろわかったことを伝えにきたよ」

と、テレビの前のちゃぶ台に並べられた座布団に腰をおろして、政雄は話を切り出した。

「まずは、君たちが一番気にしていた問題だ……」

そこへ、オトたちの祖母が、お茶と煎餅の入ったお盆を持ってきて、ちゃぶ台の上に並べた。政雄は祖母に挨拶をして、お茶をひと口飲んだ。

「例の猫が咥えてきたダイヤモンドだけどね、台座だけが残っていた、と報告されている。証拠品として、写真に収めて、宝石類と一緒に被害者の宝石店に返還された。台座に残った傷痕や、破られていた絹の袋の状態から、犯人はカラスと判定された。つまり、ダイヤモンドはカラスが咥えて飛び去った、という結論だ。宝石店の主人も台座から剥がれたダイヤモンドのことは、諦めるそうだ。誰かが、見つけて、届けたとしても、その台座から剥がれたダイヤモンドだとは、断定できそうにないらしい。だから、あのダイヤモンドは、猫の恩返しで、君たちのものにしていいそうだよ。オヤジがそう伝えてくれってさ」

今、そのダイヤモンドは、母親の香水が入っていた小箱にしまっている。

「まあ、いつか、指輪に直すか、ブローチにするか……、一カラットくらいのあまり、高価なものではないらしい。もちろん、ほかの盗まれた宝石と比較してだけどね……」

「そう、じゃあ、記念品としてもらっておくわ。それより、猫屋敷のほうはどうなっているの?」

「うん、捜査関係者に無理を言ってね。係員と屋敷の管理人立ち会いのもと、オヤジと一緒に屋敷に入れてもらったんだ……」

政雄は、一昨日のことだ、と付け足して、猫屋敷に関する調査結果を語り始める。

「君たちの言っていたように、もとの所有者だった、榊原直弼という人は、首を吊って自殺したとされている。確かに、怪しい点もあったそうだが、殺人と断定できる証拠はなかったし、なにより、彼は世捨人で、彼と関わりのある人間は、片手の指で足るほどだ。その中で、彼を殺す動機を持っている人間は、ゼロ。遺産相続人は、猫の『ヨシツネ』。誰も得する者はいないし、ましてや、恨みを買うほど、関わりのある人間はいなかったから、まあ、自殺の線で落ち着いた、ってことだな。君たちが猫から訊いたという、貸金業者だけど、結局、借金の返済をしてもらえず、家財道具や、本棚の書籍を処分したらしい。屋敷や土地は、猫のヨシツネに相続権があって、というか、正式な遺言状が作成されているんだ。ほかに相続人がいれば、裁判沙汰になって、裁判所が判決を下すかもしれないけど、正式な相続人がいないから、そのままになっている。固定資産税は、直弼が生前に五十年分として、前納しているそうだ。だから、その税金が払われなくなって、差押えが発生するまでは、あの屋敷は、猫のヨシツネのものなのさ。ただ、猫が管理できないから、遺言状に署名した元、家政婦と執事の夫婦が管理人に指定されている。遺言状には但書きがあって、裁判等で、猫のヨシツネが相続人と認められない場合は、家政婦の坂東常の指定する人間が相続人となるそうだが、常さんはかなりの『ハチキン(男勝りな女性)』さんで、ご主人の遺言どおり、ヨシツネが屋敷の所有者だ、と言って譲らないそうだ。役場のほうは、管理ができて、税金の問題もないから、名義変更をしないまま、現状維持としている」

と、政雄は屋敷の所有者──所有権──について、オトとリョウに語った。

「猫屋敷がヨシツネのものだということはよくわかったわ。それで、屋敷の中はどうなっていたの?」

「さっき、管理人っていってた、常さんという人も立ち会ったのかな?」

と、オトとリョウはそれぞれの疑問点を政雄に問いかける。

「まあ、宝石が見つかった後は、事件の現場検証をするため、封鎖されていたんだけど、事件は解決というか、検察に送られたから、封鎖は解除された。それで、見つかっていない、ダイヤモンドの行方を探す口実で、常さんの立ち会いのもと、屋敷に入ったわけさ。僕は、大学で鳥類の生態や行動、習性を研究している者という触れ込みだ。カラスの行動事例から、咥えていった宝石を見つけることができるかもしれない、ということだ」

「まあ、そんなデマカセが、よく通用したわね?」

「いや、大学の友人に鳥に詳しい奴がいてね。カラスは光るものを咥える習性があるし、咥えた食べ物とかを巣まで運ばず、近くに隠したりするそうだ。屋敷の二階には、窓ガラスが壊れた部屋があるし、屋根には、レンガ造りの煙突もある。カラスがそこから、屋敷に入って、宝石を一旦隠したって可能性は、なきにしもあらず、なんだよ」

「なんだ、友達の受け売りか……?にわか学者ってことね……?」

「なんとでも言ってくれ!とにかく、怪しまれずに、屋敷の中を探索できたんだよ!」

「伯父さんには、何て説明したの?」

「オヤジには、君たちの話を伝えた。例え、常識外れだとか、非科学的だとか思われても、真実として調査しなければいけないってことさ。調査の結果、君たちが経験したことは、何らかの異常現象だったのか、催眠術のような心理的な作為があったのか、結論が出るかどうかもわからないけど、とにかく、実地調査をしなければいけないからね……」

「わたしたちも立ち会えたらよかったけどね……」

「それで、屋敷の鬼門に当たる二階の角の部屋に入ったんだね?」

「ああ、順番に二階の部屋を見ていって、最後に入ったのが、君たちが言っていた、猫と会話ができるという部屋だ」

「黒猫のヨシツネはいたの?」

「それが、屋敷には一匹の猫もいなかったんだ。僕らを避けて、何処かに隠れたって感じだった。管理人の常さんが呼んでも出てこなかったんだ。普段は、常さんには、なついているそうだけどね」

「常さんは、猫たちと話をしたことがあるのかしら?」

「ああ、さりげなく、『ここの猫は賢いらしいですね?人間の言葉が理解できるようだと訊きましたが……』と、話を振ってみたんだ。すると、『ご主人様は、よく猫に話しかけていましたが、わたしには、猫の気持ちなどわかりません』と、いう答えだった」

「つまり、わたしたちが経験したことは、ほかの誰も経験していないってことね?」

「猫と会話して、意志疎通ができた人間は、今の所、君たちだけだろう……」

「それで、結論を急がせるようで悪いけど、角の部屋はどんな感じだったの?異界とつながっていた?そうでなくても、目眩がしたとか、感覚がおかしかったとか、異変は感じなかったの?」

と、リョウが尋ねた。

「残念ながら、ただのガランとした空き部屋だったよ。黒猫はいないけど、君たちが言っていた、三つの棚はあったし、窓の向こうに、大きな松の木が見えていた。だから、君たちの話は信用できるんだ。あとは、どうやって、猫と会話ができたか?あるいは、君たちにそう思い込ませたか?なんだよ……」

「何か、仕掛けがあったってこと?人間の仕業で、トリックがあったってことなの?」

「それが、わからない。ただ、部屋には、仕掛けというか、カメラやスピーカー、マイクのような機械は設置された痕跡はない。君たちがオヤジに通報して、再び、屋敷に戻る間に、仕掛けを回収したなら話は別だけど、そんな時間はないし、第一、そんな仕掛けをする動機がないよね。君たちが経験したことを誰かに話すとは限らない。意味のないイタズラになってしまうだろう?」

「じゃあ、マサさんはどう考えているの?僕たちが夢でも見たんだろう、って結論なの?」

「催眠術ってことは、あるかもしれないわね?黒猫の眼って、神秘的だから……」

「うん、オトのいうとおり、猫の眼か何かを利用した、催眠術かもしれない。部屋に入った時に、目眩がしたっていってたよね?あるいは、特殊な薬を使ったのかもしれない。けどね、それで全てがきちんと、説明できないんだよ」

「つじつまが合わないってこと?」

「そう、さっきも言ったけど、そんなことをして、何になる?ってことなんだ。君たちの経験が噂にもならない、としたら、意味のない、無駄な行為になるんだ。まあ、一歩譲って、無駄なことがしたかったとする。だけど、その行為は、何処から始まっているんだ?つまり、一連の君たちが経験した出来事の出発点は、何処?ってことなんだ」

「出発点?それは……、シズカがシロウと代わったことからかな?」

「そう、何者かが、この家の飼い猫を別の猫に取り替えたことになる」

「無理だよ。いくら賢い猫を連れてきても、シロウと呼んで、返事をして、食事の場所もわかっていたんだ。そこまで訓練するなら、何日も前から、我が家にいる必要があるよ」

「そうだね。何日もかかるだろうね……。それと、シロウかシズカかわからないが、ダイヤモンドを咥えてきたんだろう?人間がカラスを退治して、ダイヤモンドを手に入れて、それをわざわざ、猫に咥えさせて、届けたりするかね?しかも、それが盗品で、偶然カラスが掘り出したものなんだよ!そこまでする、あるいは、できる人間がいるとは思えないな……」

「絶対いない!とは言い切れないけど、まあ、そんな偶然、お伽噺でも、ないわね……」

「それで、マサさんの結論は……?」

「君たちの経験は、現実だった可能性が高い!ってことかな?」

と政雄は言って、お茶を口に運びながら、座布団の上に丸くなっている白い猫に視線を向けた。

「だが、それも可能性が……ってこと。科学的、論理的な証明は、難しいだろうな。この猫がもう一度、変身してくれない限りはね……」

「シロウがテレビの画面を見るように、寝床をテレビの前に移す、ってのはどうかな?」

政雄が帰っていった後、残った煎餅をほお張りながら、オトがリョウに言った。

「それなら、抱っこして、テレビの前に座っているほうが早いよ!」

と、リョウが反論を唱える。

「それ、やってみたけど、テレビに無関心よ。集中して、最低でも10秒以上は見つめないとダメみたい……」

「シロウに変身してくれ!と頼んでも無理かな?確かビートってサビ猫が、猫は本来賢いっていってただろう?シロウは僕らの言葉がわかるんじゃあないかな?シロウは、ヨシツネとシズカの子供なんだろう?賢い猫のはずだよ」

「もう一匹、白黒のイゴも二匹の子供のようだったわね?」

「でも、イゴはシズカと同じで、この世の猫ではないんだろう?」

「ヨシツネの言葉が信用できるなら、ヨシツネ以外の猫は、死んだ猫たちが自分たちの子孫か縁者の身体に乗り移って、人間と意志疎通ができるようになったんでしょう?」

「不思議だよね?霊界とか、魂(タマシイ)とか……、本当にあるのかな?それより、ヨシツネたちはどうしているんだろう?食べ物とか、大丈夫かな?」

「まあ、直弼さんが亡くなってから今まで生きてきたんだから、大丈夫なんじゃない?それも、亡くなった先祖に当たる、猫の魂が守護しているのかもしれないわね……?」

ふたりがそういう会話をしていると、座布団の上に丸くなっていた、白猫が急に立ち上がり、黒いテレビのブラウン管の前に歩みよった。そして、しばらくその画面を見つめた後、ちゃぶ台に座っている姉弟のほうに視線を移し、ニッコリと笑ったのだ。

「アッ!眼の色が……」

と、リョウが猫の顔を指差して言った。

白い猫は、テレビの前を離れると、猫科の動物特有のしなやかさで座敷から土間に飛び下りる。

土間に着地したあと、意味深な態度で、姉弟のほうを振り返って、視線を合わせた。

「また、ついてこい!ってことなの?」

と、オトがリョウに尋ねた。

「いや、向かったのは、トイレみたいだよ……?」

白猫の背中を視線で追いながら、リョウが答えた。猫の向かった先には、木箱に砂を入れた、猫用のトイレがある。

「でも、意味深な感じだったわ。ちょっと見てみよう……」

姉の言葉に同意して、姉弟はサンダルを履いて、土間に降りる。そして、白猫が木箱の砂を前足で掘っているのを見つめていた。

「やっぱり、トイレか……?」

「見て!砂の上に模様が……、いや、文字だよ!」

リョウが指差した砂には、確かに文字らしい線描があった。

「シンパイナイミンナゲンキダマタアオウ……?」

カタカナで書かれた文字を順番にリョウが読んでいった。

「心配ない、皆、元気だ。また、逢おう……?」

オトが復唱するように、言葉を発すると、白猫は箱から飛び出し、ふたりに背を向けた。そして、一度振り返り、ニッコリと笑って、表に出ていったのだ……。


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