幸福の国の悪役令嬢
梶井スパナ
幸福の国の悪役令嬢
断頭台の階段をあがりながら、わたくしは考えます。
今までは緋色のドレスに身を包み、足を晒すことなど淑女としてあり得ませんでしたが、一か所だけを簡単に縫ったほぼ袋の布に身を包み、膝より下が民衆の元に晒されている、それだけでわたくしへの罪や罰は解決しているのでは、と。
わたくしへの美貌を賛辞する声は、いまや変わり果て。
「売国奴」
「この女狐!」
「薄汚れた花!」
それでもまだ、狐だの花だのという声は、わたくしの美貌を否定することはできないのだという、我が国の民たちの素直さに、ほんの少しばかり申し訳なく思いました。我が国は「幸福の国」と言われ有余年。国民全員の幸福度がどこよりも高く、豊かで平和な国です。
まあそのように素直でしたので、聖女を名乗る本物の悪党に、騙されたのでしょう。
白いドレスに身を包み、ハラハラと涙を流す聖女──カレイスは、淡い薄紅の頬と唇でちいさくわたくしにだけ見えるよう唇を動かしました。
「ざまあ」
うふふ、その仕草が国王一族に見えていればいいのにと何度も思ったものです。彼女であればもっと、ひどい罵倒をかけることができたのではないでしょうか。人前では聖女然としているので、わたくししかしらないことですが──。
下町より見いだされ、その魔力の高さに国益を感じた国王が、「聖女」と祭り上げ、あれよあれよとわたくしの婚約者である、デュラル王子の婚約者に成り代わり、わたくしは隣国に、聖女を売ろうとした悪女として投獄。
隣国の王がその罪──わたくしのような淑女がなせるわけもないのですが──を認めまして、属国になるという盟約をかわしたので、その友好の証として、隣国の王を、その金色の長い髪に青い目、豊満な体躯……美貌ひとつでたぶらかしたというこのわたくし、カトリーナ・バルトアが。
──今日、処刑されるのです。
「最期に、言い残したいことはないか」
処刑人の、タイランが鋭い目つきをわたくしにむけました。
「わたくしは無罪、けれども国の民たちが、わたくしの死をもって平和になるというのなら、喜んでその罪をこの身にうけましょう」
感動したのか、タイランが涙ぐむ。その手で引き金を引く、処刑人にぐらいは高潔な人間だと思われたかった。それくらい思っても、いいでしょう。
本当につまらない人生でした。
物心ついた時から、淑女としてアレをしてはいけない、これをしてはいけない、甘いものは食べてはいけない、大きな口を開けてはいけない、髪を切ってはいけない、ダンスを踊れなければいけない、素敵な殿方に、尽くさねばいけない。
ある日、麻痺をして、考えることを放棄いたしました。心の底から、得体の知れない幸福に包まれたのです。
わたくしはただ、緋色のドレスをシンボルとして、金色の髪を美しく巻き、清く正しく歩いたり座ったり、三日に一度豪勢なお食事をして、後の二日はスープで己を磨き、国の文化を愛し、節制に尽くし、花として生きているだけでとても幸せでした。
それが全てまやかしの幸せだと、気付きたくなかった。
聖女に触れたあの日から、わたくしは「かんがえること」を始めてしまったのです。彼女は良いことも、──悪いことも、たくさん教えてくれました。夜中の生クリームのおいしさも、夜更かしのあと、空ける空が青く透明な世界であること。
どんな色の服を着ても良いこと、髪を切っても良いこと、王子と、婚姻を結ばなくても良いということ。だれでも自由で、誰もが夢を抱いても良いこと。
隣の国に遊びに行こうと仰っていたのは、謀略のひとつだったとのことですが、わたくしは彼女の話す、「気球」に乗ってどこまでも行く夢が、大好きでした。
ふたりきりで、どこまでも碧い空のした、風になる……。すてきなお話。
彼女は高い魔力で誰もかれも魅了していったけれど、わたくしにだけはその魔法が効かないとおっしゃってた。まあそれも、嘘かもしれないのです。だってわたくしは、すっかり彼女のとりこになって行ったのですから。
奔放な彼女が話す言葉はどれも新鮮でわたくしはすっかり鮮明になった思考の翼で何度も彼女の発言を反芻しては、興奮で眠れない夜を過ごしました。
一度彼女を下町育ちと揶揄(いえ本当の事ですが)した教師などに、全ての本を開くと虫がとびだすのろいかけたらしく、その時は聖女らしくしおらしくきゃあきゃあと騒いでおりましたのに、あとで「ざまあみろ!これであいつ、教師続けらんねえわ」と言っていた時は思わず開いた口がふさがりませんでした。
そして聖女は、下町育ち──、ではなく。この国を心の底から憎んでいる隣国の少女でした。
彼女が言う。この「幸福の国」は、麻薬で成り立っているということ。近隣諸国すべてを薬漬けにして肥え太った悪の国家である、と。
カレイスは、その魔力で操った盗賊にわたくしを襲わせ、国の滅亡を見せる前に葬ろうとしてくれたのでした。
混沌とした世界になってしまった後、わたくしが嘆くと思ったようです。
「この国は、お母さんの仇だ、全員殺す。あんたもよ、カトリーナ」
「うふふ」
「うふふじゃねえんだわ!うちのおかあさん、薬でガリガリになって、最後はあたしってことも分からなくなって、どっかの誰かが恵んでくれた薬を舐めながら、路上で死んでた」
「……」
「そんな薬で肥えた国ごと、全部、焼き払いたいんだ」
「あなたの魔力でしたら、すぐにでもできそうですのに」
「そりゃできるけど、苦しめてってより、幸せの絶頂で全部嘘でした!はいさよならがしたいの。期待するほど、つらいでしょ、全部きえたら」
「ですから、わたくしを盗賊から助けたのですか……?」
「……!!!」
わたくしの質問には、答えません。それがカレイスの良い所です。気が向いたときのみ、お話してくださいます。
「わたくしの世界が、まやかしのものであったのですね、わりと衝撃的でしたわ」
「まあこっちも衝撃は受けてる。そんな話しても、驚かなかったあんたに」
「驚きましてよ。ただ、人生で一番の驚きと興奮がやってきただけですわ!わたくし、どうせなら最期が、見たいです!どうぞお願い、国の最期まで見せてくださいませんか!?その後であれば、いくらでも命を差し上げます!」
「おまえほんとおかしいよ」
そう、襲わせようとした盗賊を、カレイスは追い払い、わたくしを助けたのです。
「最期を見たいとか正気かよ」
「あなたが、この国を亡ぼすと素直に言ってくださったから。あの言葉が無ければ、わたくしだってそんなこと思いませんわ。はしたないですもの」
「なにが。あんたけっこう、ワルなんだな」
「うふふ」
「だからうふふじゃねえんだわ」
断頭台に首をかけながら、在りし日の思い出に浸って、わたくしは少しほほ笑んでしまいました。裸に短い布を巻いているだけなので、後ろからどう見えているのか少し不安です。
落ちた首や、布から出ている部分を、この体にまとった布袋に、体が残ったまま入れるそうですよ。少しだけ手間が省けるという話です。おそろしいですわねえ。
血だまりの中に晒されるとばかり思っていたので、少しの恩情なのでしょうか。
あんなに約束したのに、カレイスはわたくしを国の滅亡に付き添わせてはくれませんでした。
わたくしはお役御免。
「ちょっとした友人ごっこを楽しませてもらったよ」
昨夜牢屋に現れたカレイスはそう言いました。
友達ごっこだったようです。
全てを滅ぼすことができる魔王が見せる気まぐれだったのです。
このあと、カレイスは国を崩壊させるのでしょう。
どのようにするのか、とても楽しみにしていたのに、わたくしはこのまま、死出の旅です。
(つまらない人生でしたが、この半年はとても楽しかったです、ありがとう)と、頭の中だけで想います。カレイスは人の思考を読むことができるのです。カレイスをじっと見つめると、カレイスは赤い目でわたくしを睨みつけました。
「クソが……」
「?」
唇がそう動きます。わたくしの思念などは伝わってないのでしょうか?それともなにか誤解があるのでしょうか?
わたくしはただ、カレイスの行うものになにも制止しなかっただけです。それが楽しかったので。
もしもわたくしのありようで、邪魔になったからこの処刑が行われているのなら、少し心外です。
しかし、カレイスのやることに意義は申さないという信条ですから、答えは求めはしないのです。
(誤解があったのなら、謝罪しましょう)
強く、強く脳内で想いました。
カレイスはきっと、聞いてくださっている。
(わたくしは、とても楽しかったです。ご武運を)
シャランと金属の音が鳴り響きました。思っているよりも、軽やかな音で、刃のついた大きな刃物が落ちてきて、わたくしの首を、痛みなど感じる前に落とすそうです。
「!」
………。
………。
死にましたでしょうか……?
まだ、ですかね、考えることができます。
けれど、死は、生きている時とあまり変わりませんね。こんなに肉体を感じるのであれば、死は、罪を償う等価価値があるのかどうか、問うもののような気もします。
生きているほうがよほど、罪を償えると思うのですが。
生きているだけで罪だと考える方が多いのでしょうね、誰も罪の塊を見て生活したくないのでしょう。
「カトリーヌ!」
聞き覚えのある声がして、わたくしは目を開きました。
カレイスが、呆れたような顔をしてこちらを見ております。
彼女の真っ赤な瞳が、わたくしを捕らえると、わたくしは頭を彼女の手刀でしたたかに殴られました。
「いたっ」
「あんたさ、王子たちに薬漬けにされてたの知ってる?」
「はあ?」
「アホでいる程度の微量だけどね。もう全部きれいさっぱり外にだしたけど」
「そんなことができるのなら、お母さまにして差し上げれば……!」
「そうやって健全にするたびに、また、って手を出すんだよ、自分の意思でヤク中になってるやつらは……。まあその話はいいよ、根絶しないと意味ないからね」
「?」
キョトンと見つめ、首をかしげるとカレイスはギラッとわたくしを睨みました。わたくしの首がちょうど抜けるくらいのところで止まった刃物に、「ひえっ」と少し驚いた声をあげてしまい、淑女たるものという精神を思い出しコホンとひとつ咳払い。断頭台から首を外しても良いのでしょうか?
「早く立てよ!」
大きな声を出さなくても聞こえてますわ。イラついているカレイスを少し不思議におもいながら、わたくしは四つん這いの体勢から、起き上がりました。
「時を止めている。この間に、隣国へ行くよ」
「どういうことですの?わたくしは、死んだのでは……?!」
「そう、この国では。もうとっとと行ってよ、あたし、なにもできなくなってしまう」
「……みせてくれるのでは、なかったのですか?」
「あんたの青い目に見つめられたら、あたし。あんたに平穏な世界を与えたい、守りたいって思っちゃう」
「……どういうことですの?」
何度もぱちくりと目を開けては、時の止まった世界を眺めました。カレイスがわたくしの肌に、青色のドレスをかけました。
「こっちのほうが、あんたの瞳にぴったりだよ」
わたくしはドレスの着方がわからなかったのですが、そのドレスはただ頭からかぶるだけのもので、着れそうです。まとっていた布袋を剥ぎ取るとカレイスが目をそらします。淑女として肌を見られることは慣れてましたが、なにも身にまとわないことは、はしたないので手早くそのドレスをかぶりました。
心地よく軽い一枚の、ただ端を縫っただけのものでしたが、先ほどまで着ていた布袋とは大違いで、体にフィットしつつも美しいドレーブをまとうことが出来ました。
「にあう」
「ありがとう」
「じゃあ、もう行きな」
「カレイスは」
わたくしが問いかけると、カレイスはいじわるな瞳を向けて、虫を追い払うように手だけで「シッシ!」としました。
「いやです、わたくしはあなたのそばに」
「うざいって!」
「約束なさいました!」
「うっざぁ!!!!」
「や!」
「いやじゃない!!こどもか!!」
「子どもですわ!あなたとお会いした時から人生が始まったのですから!!わたくしは今、生後半年の赤子同然!あなたがそばに来るまで……泣きわめいても、当然なのです」
「……カトリーヌ、おまえまじ」
「なんですの」
「マジでかわいいんだよ、ばか」
カレイスはわたくしを抱きしめて、わたくしをじっと見つめました。わたくしはカレイスの赤い瞳に見つめられると、魅了にかかるので、ポッと頬が赤くそまって動くことができません。体がしびれ、足に力が入らず、頬や首が熱くなり、唇が自然に震えます。
「あわわはにゃ、魅了の魔法はおそろしいですわあ」
「あのさ、いつも言うけど、おまえにあたしの魅了はかかってねえからな。この時の止まった世界で、動けるのが証拠だ」
「そんなばかな。ではこの、この、震えはなんですの!?初めてお会いした時から、ずうっとですわ」
「それはさあ、あたしに惚れてるんじゃない?ひとめぼれってやつ」
「なんですの、それ……」
ひとめぼれ。言葉の意味合いからすれば、ひとめで、惚れ?惚れてるという言葉はつまり、お慕いしているということでしょうか。
「わたくしが」
「そう、カトリーヌが」
「……そのようなことが。カレイス様も、淑女ではないですか」
「そうだよ、女が好きなんだ」
「……?」
「あたしの魔力は、惚れた相手には効かない。体内にある薬を取ることは出来ても、お前をどうにかすることは、あたしにはできない」
カレイスの言葉に、わたくしは驚きました。毎日驚きを与えてくれる彼女でしたが、この驚きは、いちばんの驚きではないでしょうか?!
「では、脳内でたくさん考えてお話してましたのに、伝わってませんの!?他の方の思考は、読めましたわよね!?」
「わかんねえから、お前のことほんと……!っち!」
舌打ちをするカレイスは(だからたまにじっと見つめてたのか)などと言います。
「他の方に魔法が使えているということは、わたくしだけを……?」
「時間も、海もどうでもいい。息できるようには動かしてるけど。悔しいけど、お前だけだ。お前だけが、わたしの、愛おしい……」
「わたくしのどこがそんなに!?美貌ですか!?お花のようなこの…‥!?」
「おまえ!この期に及んでそんな……!!」
カレイスは叫ぶようにバカにしました。
「ですから、わたくしを盗賊に襲わせて、その脅威を取り除こうとしたのに、思わず助けてしまったのですか?今回の処刑も!?わたくしが、いとおしくて魔力が通じないから遠ざけようと策略を組んだのに!けれど最終的にご自分で助けている!!ということですか!?」
「そうだよ!!うざいな!!!」
なんということでしょう。
「わたくしへの愛が、カレイスの野望を、止めてしまっていたのですね」
「そう…‥だよばか、この国の人間は全員、薬で私腹を肥やしてんのに、おまえだけは只のばかで。ほんと、空気読まねえしアホすぎて、目が離せなくて、薬を取ってからは、当たり前のことを馬鹿みたいに喜んで、明るくて、うっざいほどにぎやかで。いるだけで……あたしの中の憎しみとか、全てを取り去るようなやつで……」
「半年も、なにもなさらなかったのはそのような葛藤が……?わたくしこれでも、この国いちばんの淑女なのですが、それが作用してしまったのでしょうか……」
「だからこの国は、嫌いなんだよ。お前を縛ってたものじゃなくて、お前の中の、本当のお前に、あたしは」
カレイスは淡く微笑み、わたくしにくちづけをしました。
「っ」
わたくしは、もうそれはうっとりしてしまって、腰が抜けて、これが魅了の魔法でないならば、どういうことなのか全くわかりません。ふにゃぁだの、へにゃぁだのという言葉しか出ませんでした。はしたない。
「いうことを聞いて、隣の国に行け。三日、止めてるから海を歩け。……あたしも、まあ、用事が済んで、気が向いたら──お前に逢いに行くから」
「はひ……っ♡」
吐息のかかる距離で囁かれ、後ろ髪のひかれる思いで、カレイスの言うとおりにわたくしはたちあがり、ごはんなどを持たされて、かなりの過保護ぶりを見せるカレイスに「いちどしか言わねえからな」などと言われながら、彼女が用意した移動手段で、隣の国へゆくことが出来ました。
──一晩で、わたくしの故郷が炎に包まれ、水に沈み、それはそれは美しい湖になったと聞いたのは、それから数カ月後の事でした。
わたくしは、ターラスと名乗り、カレイスの息のかかったかたのご指導で、刺繍を売る仕事に就きました。お針子です。ちょっとしたデザインが認められ、その版権も手に入れることが出来ました。それらを元手に、小さな雑貨屋を開き、刺繍をたっぷりと施したリボンを巻いた小瓶に、素敵な香水などを入れ、売りながら生計を立てております。
元・淑女としての所作がうけたのか、わたくしの生まれ持った美貌のおかげか、美しいものを売ることに長けていたのか、商売気を見せるよりも淡く微笑み、花の様に立っているだけで、女性たちがとても親身にわたくしの商品を買ってくださいました。
元の国での、立ち居振る舞いのようでしたが、気持ちが全く違います。わたくしが、わたくしの気持ちの上に立ち、それをしたいという気持ちですることが大事なのかもしれません。
死を感じた時も思いましたが、思考することは、生きることなのかもしれません。
考えを無くして、全て誰かの思考と共にあればいいという在り方は、やはり生きているわけではなかったのです。カレイスに、うざいと言われるわけです。
「カレイス」
その名を口にすると、涙がこぼれます。気を付けていたのに、悔しいです。しかし目の中がちょうど埃っぽかったので、良かったのです。湿っぽいのは、よくありません。
気が向いたら来るとおっしゃっていたので、きっと気が向かなかったのでしょう。
わたくしのそばよりも、快適な、魔法が使える居場所に、あのかたが、幸せに生きていればそれでいいと心の底から思います。
カランと鈴がなって、お店のドアが開きました。
先日から取り付けたのです。心が弾むように。
「だっさい鈴。なに、こんなのつけなくてよくない?」
わたくしは目を開きました。まん丸になっていたと思います。素敵な鈴に対して、そのように思われるとは心外でした。
「これって呼び鈴だろ?あんたの事だから、お客様を待たせることなんか、ないってのに」
赤い瞳が、わたくしを捕らえました。
魅了の魔法です。足が立たなくなりました。床に崩れ落ちました。もう彼女はわたくしを愛していないのかもしれません。もう立てません。震えて、彼女のことだけしか考えられません。涙があふれて、止まらなくて、手にも力が入らないのです。
「カトリーヌ」
わたくしの本当の名前を呼ぶ声が優しいです。このような声を出すことは、ありません。もっと厳しく、「おまえ」だの「あんた」だの「ばか」だの、心の底から面倒くさい声でしか呼ばれたことはありません。
「カトリーヌ、こっちみて」
動けないと言っているのに、カレイスはわたくしの傍にしゃがみこみ、無理難題を押し付けます。顔をあげることができません。
「顔、みたい」
「駄目っです、だって、鼻水だって、出ててっっぐしゃぐしゃでっ」
そう言っているのに、カレイスは小さな手のひらでわたくしの頬を包むと、顔を無理やりあげさせました。
「ほんとだ、ぐっちゃぐちゃ、美貌が台無しだ」
見た事もない笑顔で笑うと、そのぐちゃぐちゃに体液の出たわたくしの頬に唇を落としました。二回三回と押し付け、そして唇にも。
「ん、ん……っ」
モグモグとなにかを言いたくても、動けないわたくしを、カレイスは自由にします。
床に押し倒されてもなにも抵抗が出来ません。体がまるでふにゃふにゃになって、溶けたようです。高揚感とも、なにともつかない、まるで青い空に溶けていく雲のような気持ちです。
「はにゃ♡」
「あはは、何だよもう……おまえぐちゃぐちゃのぐにゃぐにゃだな」
「だって魅了の魔法でしょう?」
「まだ言ってる、あんたには効かねえっての……それとも、もうあたしがきらいになった?」
「そんなのっだって、お慕い申しております……」
「……あたしも」
くちづけをされて、また身動きが取れません。恐ろしい魔力です。体を伝わって、火照ります。こんな衝撃は、初めてです。
「カレイシュ・・・・・・しゅき」
「ん」
「どうして、もっと早く……わたくしのもとへきてくださらなかったの」
問いかけると、涙があふれて止まらなくなりました。寂しさが急に襲ってきたようでした。ぎゅうと抱きしめるカレイスが、「あのさ」と言いました。
「あのあと、あんたには見せたくないほどの悪逆非道を繰り返して、全てナシにして、湖にしてからさ、水面に映った、血まみれの自分を見て、あんたに触れないっておもったんだ」
「……?」
「きょとんってするなよ」
「わたくしなんて、いくらでも触ってよろしいのですよ!?ほら、ほら!!」
胸の上にカレイスの華奢な手のひらを運ぶと、慌てたように振り払われて手の甲を叩かれてしまいました。痛い。
「あんたは綺麗なお花だから、そんな簡単に身を許すんじゃねえ!──湖の周りに綺麗な花が、おまえみたいに綺麗っておもえるまで、そんで、それでも、逢いたかったら、逢いに行こうって……」
「あらいがいと、ロマンチストでしたのね」
「バカにすんなよ!」
「ほかのお花にあなたの時間を奪われただなんて……!悔しいです」
「おまえのほうがアホだわ」
相変わらずの言葉の悪さに、思わず噴き出してしまいました。そして自分の涙が前に飛び出すのを初めて見ました。カレイスがそばにいることが嬉しくて、今度は涙が止まりません。
滲んだ景色の向こうにわたくしを慈しむように見つめる赤い瞳が、好き。わたくしの事を、心配してくださる、手が好き。
言葉は荒っぽくても、わたくしの言葉を聞き洩らさないようにしてくださる、困ったように見つめる仕草が、愛おしくて、はにかんでしまう。
「おまえかおぐっしゃぐっしゃだかんな」
「わかってますわ」
「かわいい顔すんなっつってんの」
「可愛いと思いですの?ではこのままで」
「ばか!ふけ」
カレイスは売り物の布を、わたくしの顔にあてて、ごしごしと拭き始めました。
その仕草が、ひどく手荒ですのに、わたくしを大切なものの様におもっているようなふわふわとした様子が取れて、また、くすぐったい気持ちになりました。
「本当に魅了、使ってませんの?」
「……何回確認すんだよ」
「見つめるたびに、胸が苦しいんですもの」
「……うっぜ」
「お会いしたかった。愛おしく思わない日は、ありませんでしたわ。わたくしのすべてを、変えたあなた」
見つめてそうつぶやくと、カレイスはしょんぼりと視線を床に落としました。
「……全部、こわしてごめん」
わたくしは、罪悪感に苛まされているカレイスの小さな手を取り、ぎゅうと握りました。
「あなたに出会えて、わたくしは新しく生まれたのです」
「……なんなの?花じゃなくて、ひよこなのかな、おまえ」
わたくしの金色の髪をなでながら、カレイスはそう言いました。
「なるほどですわ、鳥は殻を破らねば外に出られませんものね、その殻をやぶってくださったのですわ」
「ばーか、あの殻は、自分で破かねえと、中のやつは死んじゃうの」
物を知らない自分に、少ししゅんとしていると、カレイスは頭をさらに撫でで言いました。
「だから全部、おまえが選んだって思ってもいいか?あたしを、選んで、殻を破ってくれたんだって……。都合がよすぎるかな?」
しおらしいカレイスが愛おしくて、わたくしは思わず飛びつくように彼女を抱きしめました。
「そうですわ!それでよろしくてよ」
「なんだよもう~~!!」
言いながら、カレイスはわたくしの背中に手を回してくださいました。
「かわいいんだよ、くそ」
悔しまぎれの様に言われ、わたくしは思わず笑いました。
滅ぼしきりたかった国の民がのこっていて、申し訳ないと思いつつも、わたくしはカレイスの胸に沈みました。
彼女はわたくしを取り囲む全てを滅ぼした悪女。
けれどわたくしは、全てを手に入れた幸福に包まれて、気球に乗る夢を彼女に語るのでした。
幸福の国の悪役令嬢 梶井スパナ @kaziisupana
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