第43話 前世も今世も

「ファイルーズ! 今だ!」


 カシムの叫び声に、ファイルーズ様はハッとこちらを振り返る。

 前世のあの日のファティマ皇妃様と同じ青ざめた顔で、ファイルーズ様は自分の胸元に手をやった。

 と同時に、夜の闇と雪の向こうでファイルーズ様が動いた。

 きっと、胸元に短剣ダガーを隠し持っているんだ。


「……やめて! 刺さないで!」


 私の声を聞いて、アーキルがファイルーズ様の剣を避けてくれたら。そう思って、私は必死に叫ぶ。

 急いで体勢を立て直し、甲板の上に設けられた祭壇を飛び越えて、私はアーキルの体に手を伸ばした。


 その間、ほんの一瞬。

 しかし、私の動きは一歩遅かった。


 私がアーキルの体を突き飛ばす前に、ファイルーズ様の持っていたダガーはアーキルの胸の上に吸い込まれていく。

 私のすぐ目の前で、アーキルは甲板にうつ伏せで倒れ込んだ。

 ファイルーズ様の利き腕を横から思い切り突くと、ダガーが甲板に落ちて船首の先の海に滑り落ちていく。


「……アーキル!!」


 右頬を甲板に付けるようにしてうつ伏せに倒れたアーキルの顔を覗き込む。

 いつもと変わらない瑠璃色の美しい瞳は、力なく私の顔をじっと見た。血しぶきが顔にかかり、アーキルの褐色の頬を伝っていく。


「アーキル、しっかりして下さい!」


 私の声に返事をするように、アーキルは何度か瞬きをしてみせた。

 とりあえず、まだ意識はある。

 早く刺されたところの止血を……と思うのに、周りを見渡してもファイルーズ様とカシムの他は誰もいない。


 今この瞬間が前世とそっくり同じなら、きっとあのダガーには毒が塗られていたはずだ。

 最恐の女戦士と呼ばれた私、アディラ・シュルバジーの命さえも奪った強毒。止血だけではなく解毒処置もしなければ、アーキルの命は尽きてしまう。


(ザフラお姉様も船室に籠っているように言われたらしいし、ここには本当に誰も助けてくれる人はいないの……?)


 アーキルの治療のために、早く船を岸に戻したい。しかしそのためには、まずはこの二人を片付けなければならないようだ。

 私は自分のダガーを鞘から抜くと、ファイルーズ様の顔を見上げた。


「前世だけでなく今世までも、よくもアーキルを……!」


 鞘を甲板に投げ捨て、ダガーを握ってファイルーズ様に向かって立ち上がろうとした瞬間、私の服の裾をアーキルが思い切り掴んだ。


「……待て、リズワナ」

「アーキル!! 喋らないで! ファイルーズ様とカシムは、私に任せて下さい」

「駄目だ、リズワナ……ファイルーズには手を出すな」

「そんな、なぜ……?」


 たった今、アーキルはファイルーズ様に刺されたばかり。

 それなのになぜ、彼女を庇うのだろう?


 前世だってそうだった。

 ファティマ様がナジルに呪いをかけようとしたところを、瀕死のイシャーク様はわざわざ最後の力を振り絞って制止した。

 そのせいで自分が不眠の呪いにかかり、生まれ変わってまでもこんなに苦しんできたんじゃないか。


(なぜ、自分が犠牲になってまで人を助けようなんて思うの……?)


 アーキルを刺された怒りと、そのアーキルがファイルーズ様を庇ったことに対する疑念が心の中で渦を巻く。何もできない悔しさで、私の両瞳からは涙が溢れ出た。

 力が抜けて床にへたり込んだ私の足をゆっくりと撫でながら、アーキルはその瑠璃色の瞳をファイルーズ様に向ける。


「……ファイルーズ」

「……殿……下……」


 ファイルーズ様は怯えたように数歩下がると、意を決したようにカシムの方を振り返った。

 カシムはサーベルをぶんぶんと振り回しながらこちらに近付いて来る。祭壇の前、私たちのいる場所から十歩ほどのところまで来て、馬鹿にしたように高笑いをする。


「ははっ! 今回は成功だ。先にラーミウが失脚してくれていて良かったよ!」


(……今回は、? この男は何を言っているの?)


「カシム! 私に殺されたくなければ、すぐに船を岸に戻しなさい!」

「リズワナ。君は僕に手を出せないよ。僕には皇家の印である獅子のアザがある。アザルヤードの皇帝に忠誠を誓った君のことだ。皇帝の血を引く皇子を殺すことなんてできないよね?」

「なぜこんなことを……? アーキルは貴方のことを、弟のようだと言って大切に思っていたのに!」

「それは残念だったね。僕は前世からずっと、アーキルを恨めしいと思っていたよ」

「だから、なぜなの? 前世で貴方は自分の希望を叶えたはずでしょう?」


 私の言葉を無視して、カシムは祭壇に腰をかける。

 前世でナジル・サーダは『サードゥ・ナザリム=アザルヤード』としてイシャーク陛下の後を継いだはずだ。自分の思い通りの地位を手に入れたのに、なぜ今世でもしつこくアーキルを恨み、帝位を狙うのか。


「ファイルーズ。そろそろ神官たちをここへ呼んで、僕の獅子のアザを披露しよう」


 カシムに言われ、ファイルーズ様は船室に通じる扉に歩いて行く。


(今この場に神官を連れて来られたら、どうなるの? カシムが次期皇帝として認められることは絶対に許せない)


 手の甲で涙を拭い、私はアーキルの肩に手を置いた。

 前世のあの日とは違って、アーキルの体は温かい。私を見つめる瑠璃色の瞳も、まだ生気に満ちている。

 今すぐハレムに戻って治療をすれば、助かるかもしれない。船を戻すことはできなくても、アーキルだけをハレムに連れて行くことはできないだろうか。


 いくらカシムがアザルヤードの神の前で次期皇帝であると神官に認められたとしても、アーキルが回復しさえすればカシムの皇位継承順位は覆るはずだ。


「……そうだ、ルサードがいる」


 船室にいるザフラお姉様の元に、白獅子ルサードを置いてきた。私がこの船に来た時のようにルサードの背にアーキルを載せて、湖の上をハレムまで走ってもらえば――。

 ファイルーズ様は船室の扉に手をかけて、中に続く階段を降りていく。


 いつの間にか雪はやみ、東の空が白み始めている。

 ルサードが白猫の姿に戻る前に、急がなければ。

 

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