第5章 神話の結末

第42話 ファイルーズの侍女

 水の中から現れたルサードの背中に乗り、私たちは船に向かった。


「ルサード! ところでどうしてここに?」

『お前がアーキルの寝室の扉を開けたまま行っただろう? 寒さで目が覚めた。扉を開けたら必ず閉めろと、俺は何度注意した? もうそろそろいい加減に……』

「今はそんなことどうでもいいわ! ちょうどいいところに来てくれてありがとう。私、前世の記憶を全部思い出した。アーキルが危ないの。早く船に向かわなきゃ!」


 そういうことなら、と言って、ルサードは船に向かって速度を上げる。

 私を背中にのせたルサードは、まるで神話に出て来る神のように、湖の水面を駆けていく。


(間に合って。ファイルーズ様がアーキルの命を奪う前に!)


 まさか、アーキルがイシャーク陛下の生まれ変わりだったなんて。

 そしてアーキルの不眠の呪いは、私が死んだあの夜に、イシャーク陛下がナジルを守ろうとしてかかってしまったものだったなんて。


 これで全部繋がった。

 イシャーク陛下、ファティマ皇妃様、カシム、そして私。

 あの夜に戦った四人が、今世でも同じように船に集うことになる。


 船の側まで来ると、私はルサードの背中から船壁に飛び移った。前世と違い、今の私は毒なんて飲んでいない。こんな船壁を登ることなど容易いことだ。あっと言う間に私とルサードは甲板まで昇り切った。


 冷たい水を振り払うように体を震わせたルサードの周りには、水しぶきが散った。



『誰もいないじゃないか』

「少なくともアーキルとファイルーズ様はいるはずよ。それに、他にも何人か連れているって女官たちが言ってた」

『……女官か。アイツもそうなのか?』

「え?」



 ルサードが見た先に目をやると、そこにいたのは侍女服に身を包んだザフラお姉様だった。初めて見る白獅子ホワイトライオン姿のルサードに驚いたお姉様は、大口を開けて立ち尽くしている。


(そうだわ。ザフラお姉様は今、ファイルーズ様の侍女なんだった……!)


 手を震わせて、持っていた荷物も下に落としてしまい、お姉様は今にも悲鳴を上げそうだ。私はザフラお姉様の元に駆け寄って、両手で口をふさいだ。


「……んんっ!! ううんー!!」

「お姉様、ごめんなさい。大声を出さないで頂きたいんです」

「う! んん!」

「大丈夫。ルサードあれは決して人を襲ったりしません。手を離しますよ?」


 少しずつ力を抜いて、お姉様の口から両手を離す。

 お姉様はふうっと一呼吸し、ルサードを指差して私を厳しく睨みつけた。


「リズワナ!? 何でここにいるの? あれは何?」

「お姉様。後からちゃんと説明します。今はアーキルを探しているんです」

「びしょ濡れだし、まさか雪の中をここまで泳いで来たわけ? あなた本当に体が弱いの……?」

「それも後からお話しますから。とにかく急いでます。アーキルはどこに?」

「ファイルーズ様と、船首側の甲板にいらっしゃるわ。何かの儀式の準備をするから近寄らないように言われているの」

「船首の方ですね。ありがとうございます!」


 お姉様に御礼を言って私は船首に向かおうと二、三歩踏み出し、すぐに立ち止まった。


(このままお姉様を一人にしたら危険かも)


「お姉様。少しの間、このルサードと一緒にいて下さいませんか?」

「……は!? 嫌よ、気味が悪い! 私は船室に籠るから、こんな恐ろしいものは早く連れて言ってちょうだい!」

「大丈夫。これは白獅子に見えますが、魔法で姿を変えているだけで、元は白猫のルサードです」

「ルサードって……あなたの飼ってる猫の?」

「ええ、そうです。ルサード! お姉様をちゃんとお守りしていてね!」


 これからアーキルとファイルーズ様との間で、何が起こるか分からない。お姉様を危険な目に遭わせるわけにはいかない。

(たくさん意地悪もされたけど、私の大切な家族であることには変わりないもの)

 ルサードとお姉様が共に船の階段を降りていくのを見届けて、私は再び船首の方に向かった。


 ファイルーズ様は、ファティマ皇妃様の生まれ変わり。

 彼女に前世の記憶があるのかどうかは分からないが、もしも前世を覚えていたら、今世でカシムに協力しようなどと思わないはず。

 だってファティマ様はナジル・サーダに恋心を利用された挙句にイシャーク陛下を刺した罪を被らされたのだ。

 それで自暴自棄になって、ナジルに呪いをかけようとしたのだから。


(イシャーク様がファティマ様の手を掴んだせいで、呪いはイシャーク様にかけられてしまったんだけど……)


 今世でも、ファティマ様はファイルーズ様としてカシムと通じている。カシムに言われて、アーキルを殺すように言われているはずだ。


「急がなきゃ!」


 船首まで来ると、そこには儀式用の祭壇が整えられていた。

 雪の降り続く中で目をこらしてみると、祭壇の向こうには、アーキルとファイルーズ様の姿が見える。


 船首の柱に身を隠しながら、私は少しずつ二人との距離を詰めていく。

 湖の向こうの方、岸の方角から、いくつかの小舟がこちらに向かっているのが見える。早速カシムが追い付いて来たようだ。


(早くしなきゃ。でもこれ以上近付くと、ファイルーズ様に気付かれてしまう)


 ファイルーズ様の手元は武器を持っているようには見えないが、どこかに短剣ダガーを隠し持っている可能性はある。下手に刺激してファイルーズ様が慌ててアーキルを刺さないように、私は慎重に二人にじりじりと近付いた。


 アーキルにかけられた不眠の呪いを解く方法は、二つあると聞いた。

 アーキルが前世で愛したという相手――それは、私のことらしい――が、側にいること。

 そしてもう一つは、アーキルを呪った本人がその呪いに込めたを、代わりに晴らすこと。


 アーキルの前世であるイシャーク陛下が、アディラ・シュルバジーのことを愛していたなんて、全く気が付かなかった。

 しかし、とにもかくにも私が側にいたことで、アーキルの呪いはほとんど解けている状態となった。


(でも、もしも私が先に死んでしまったらどうなる?)


 私が側にいることが呪いを解く条件なのであれば、私がいなくなれば再びアーキルが呪いに苦しむ可能性もある。


 イシャーク陛下に呪いをかけたのは、ファティマ皇妃様だ。ファティマ様のはそれすなわち、ファティマ様の恋心を弄んだ上に罪をなすりつけられたカシムに対する恨み。

 ファティマ様の生まれ変わりであるファイルーズ様が自らカシムに復讐することで、解呪の二つ目の条件を満たすんじゃないだろうか。そうすれば、アーキルの呪いは私が側にいなくても、完全に消え去るかもしれない。


(まずはアーキルとファイルーズ様を引き離したい。あの至近距離では、アーキルも剣をかわせない)


 二人の様子をうかがってみるが、風にかき消されて会話はほとんど聞こえない。



「……ルーズ?」

「…………私は貴方……さし……す」

「……めだ」



(刺し……? ファイルーズ様は、やっぱりアーキルを刺す気なのね!?)


 思わず柱の陰から飛び出そうとしたその時、私の背後から長剣サーベルが空を切る音が響いた。

 冷たい空気を斬るシャンという音と共に、私は咄嗟に頭を低くしてしゃがみ込む。すると、私が隠れていた柱にそのサーベルが突き刺さった。


(誰!?)


 見上げると、サーベルを振ったのはカシム・タッバールだった。


(もう船に登ってきたのね!)


 カシムと、その後ろには騎士が数人。

 私がしゃがみこんだ姿勢から立ち上がるよりも先に、カシムはファイルーズ様に向かって叫んだ。


「ファイルーズ! 今だ!」

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