第41話 不眠の呪い

「――ファティマ皇妃様!」



 ファティマ様と睨み合う私の耳に、風の向こう側から男の声が聞こえる。

 現れたのは、つい先ほど私に毒を盛った張本人、ナジル・サーダだった。


 ずっとナジルに対して抱いていた恋心の行き先がなくなって、自分の感情が上手くコントロールできない。振り絞っていた力が抜けて、私はファティマ様に向けていたサーベルをゆっくりと降ろした。


 ナジルには、私の姿などどうでもいいようだった。

 真っすぐにファティマ皇妃様だけを見つめ、甲板の上をカツカツとこちらに向かって歩いて来る。



「ファティマ様、なぜ先に陛下を! 弟皇子の処刑をアザルヤードの神前に誓うのが先だと言ったでしょう!?」



 慌てた様子でファティマ様に駆け寄ったナジルは、目の前に来てやっと私の存在に気付いたようだ。

 彼は私を見てゴクリと唾を飲み、まるで悪魔でも見つけたような怯えた目をしていた。



「……アディラ?」

「ナジル・サーダ。貴方はファティマ皇妃様と共に謀ったのね」



 イシャーク様に隠れて愛し合っていたらしいナジルとファティマ様の再会を目の前に、胸のムカムカは止まらない。

 まだかろうじて意識のあるイシャーク様の視界に二人が入らないよう、イシャーク様を支える腕に力を入れて胸に抱き寄せた。


 ナジルの顔は、これまでにないほど青ざめている。

 つい先ほど毒を盛った相手がこうして生きて目の前に現れたのだから、当然だ。


 イシャーク様の腹の傷からの血が、船の揺れに合わせてナジルの足元に吸い込まれるように流れていく。



「ひいっ! 足に血がっ……!」

「ナジル、私たちどうしたらいいの? 陛下はもう……」

「ファティマ様。あなっ、あなた様が皇帝陛下を刺したのですよね?!」

「私はナジルのために……だって、貴方がそうしろと仰ったから……」

「うるさいっ! 黙ってください!」



 腕に縋りつこうとしたファティマ様に向かって、ナジルは大声で叫んだ。ファティマ様はその声に驚いて、よろよろと私のすぐ側に座り込む。



「ナジル。まさか貴方、私に全ての罪をなすりつけようとしているの?」

「なすりつけるだって? 初めから全てファティマ様が計画なさったことですよね。僕は関係ない!」

「何を言うの? 貴方は私を妻に迎えてくれると仰って……」

「違う! ファティマ様はイシャーク陛下からこれっぽっちも愛されていなかった。その恨みから陛下を刺したんですね? 我々の大切な君主を!」

「酷い……! 貴方がアディラに毒を盛ったことも、もう分かっているのよ? アディラが証言すれば貴方だって無実では済まないわ。だって貴方のその獅子のアザは……」



 ファティマ様が私の名前を口にしたその時、私の腹に鈍い衝撃が走った。そのまま私の体は宙に飛んでゴロゴロと転がり、甲板から滑り落ちる。

 寸での所で甲板の手すりに片手で掴まり、何とか船にしがみついた。


(ナジルに蹴り飛ばされた……! 私を湖に落として殺す気だわ)


 私が膝に抱いていたイシャーク様も勢いで甲板に投げ出され、その側にファティマ様がダガーを握りしめたまま腰を抜かしている。


 騒ぎを聞きつけたのか、数名の船員たちが神官と共に駆け付けて来るのが見えた。


(ファティマ様に全てをなすりつけようとしている今、毒を盛った私が生きていては不都合だものね)


 湖の上を進む船の揺れに合わせて、私の体も大きく揺れる。

 絶対に湖になんて落ちてやるものかと、私は最後の力を振り絞って船の手すりにしがみついた。

 しかし、毒にやられ、寒さでかじかんだ手には力がなかなか入らない。



「神官殿! ファティマ皇妃様が皇帝陛下を弑そうとなさったのです!」



 嘘にまみれたナジルの言葉を聞き、神官たちは慌ててファティマ様を取り押さえようと身構える。しかしファティマ様の両手にはしっかりとダガーが握りしめられていて、迂闊に手を伸ばすことはできない。

 誰もその場を動けないまま、雪だけがしんしんと降り続けた。


(くっ、何とか甲板に戻らなきゃ)



 何とか半身を甲板の上に戻した私の目の前で、ファティマ様の手からダガーがこぼれ落ちた。カランカランという音を立て、ダガーはイシャーク様の体にぶつかって止まった。



「……ねえ、ナジル。私のことを愛してくれていたんじゃなかったのね?」

「何を仰る! ファティマ様は皇妃というお立場ではないですか。私が貴女を愛することなどあり得ません。私は決して貴女の味方ではない……!」

「ナジル・サーダ。私はこの恨みを絶対に忘れないわ。何度生まれ変わったとしても、朝も昼も夜も、絶えず貴方のことを呪います」



 震える声でそう言った後、ファティマ様は胸元から何かを取り出した。

 ブツブツとよく分からない呪文のようなものを唱え始めると、その何かは青白く不気味な光を放つ。


 よく見ると、それはナセルに伝わる魔石だった。


 愛してくれていると思っていた人にあっさりと裏切られたファティマ様。

 そんな彼女の、『何度生まれ変わっても昼も夜も絶えず呪い続ける』という永遠の呪いが、その魔石に込められる。

 

 呪いの魔石がナジルに向かって投げられようとしたその時――彼女の腕を掴んで止めた者がいた。

 それは、今にも息絶えそうなほどに弱ったイシャーク様だった。


(イシャーク様、おやめください!)


「呪いをかけている者に触れると、呪いがイシャーク様の方にかかってしまいます……!」


 私が懸命に声を上げたのも空しく、呪いの魔石から発せられた不気味な光は、ナジルではなくイシャーク陛下の体を包んだ。





 冷たい水の中で、私は懸命に手を伸ばす。


(思い出したわ。前世でナジル・サーダは、イシャーク様もファティマ様も、そして私も手にかけた)


 私は、前世の記憶をすべて思い出した。

 ナジルは私に毒を盛り、ファティマ皇妃様と謀って皇帝イシャーク様を手にかけた。元々は弟皇子の処刑を確実なものにしてからイシャーク様を刺すつもりだったのに、ファティマ様が先走ったことで計画は狂った。


 ナジルはいとも簡単に愛するファティマ様を裏切り、保身に走った。


 私はナジル・サーダと結ばれるために、前世の記憶を忘れずにいたんだと勘違いしていた。

 全然違う、私はナジルがまたイシャーク様の地位を狙って愚行に走るのを止めるために、記憶を保持していたんだ。


 イシャーク・アザルヤード皇帝陛下は、今世に生まれ変わり、アーキル・アル=ラシードとなった。

 あの時、ファティマ様からの呪いを引き受けて、自分が夜も昼も眠れない体質になってしまったアーキル。


 私が今世で守るべきは、ナジルの生まれ変わりのカシムなんかじゃない。初めから、アーキル・アル=ラシードだったんだ。


 やっとのことで水面に顔を出し、私はプハッと息を吸う。

 アーキルとファイルーズ様の乗っている船は、まだまだ先だ。ここから泳いでたどり着けるだろうか。

 そう思った瞬間、水の中から私の体が突然何かに押されて浮き上がった。



「……きゃあっ! 何? ルサードじゃないの!」

『このまま行こう、リズワナ!』

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