第40話 前世の死んだ時の記憶

 ナジルからの祝い酒が、体中の力を徐々に奪っていく。


(私ったら、こんなに酒に弱い体質だったのね。知らなかった)


 戦地ではあれだけ最恐女戦士と呼ばれて恐れられていた私が、たった一杯の酒で体の自由がきかなくなるとは。

 情けなくて笑えてくる。


 船の出発まで、あとわずか。

 傍に落ちていた木の枝を拾って杖替わりにし、這うようにして船に向かう。


 私が船に到着する前に、弟皇子殿下たちの処刑が決まってしまったらどうしよう。アザルヤードの神々の前で、神官によって処刑が宣言されてからではもう遅い。

 そうなる前に、必ず阻止しなければならない。


 イシャーク・アザルヤード皇帝陛下のご意思を尊重し、私とナジル・サーダで陛下のお考えを神官たちに伝えなければ――


(でも……)


「今日のナジルは様子がおかしかったわ。今は下手に動けないなんて言っていたけど、きっとナジルなら皇子たちの処刑をやめるように進言してくれるはずよね……?」


 ナジルの名前を口に出した途端、それまで堪えていた涙が溢れて頬を伝う。



『――僕は愛する人を妻に迎える。今は大事な時なんだ、下手には動けない』



 さっき聞いたばかりの、ナジルの言葉が頭を過る。

 不安な気持ちに捉われて、一度流れ出した涙は止まらない。


(……馬鹿ね、アディラ。今は私情はどうでもいい。 何とかあの船に乗らなきゃ)


 ふらつく体でようやく船着き場に到着したのは、船が出発した直後だった。無理を言って側にいた騎士に小舟を出してもらい、何とか船に追いついた。


 しかし縄はしごを使って甲板に登ると、そこには船員の他に誰もいない。

 神官も多く同行するはずだったのに、甲板の上は儀式用の準備もなされておらず閑散としていた。


 不自然な光景に違和感を覚え、私は側にいた船員の胸ぐらを掴む。

 問いただしてみると、やはりこの船にはイシャーク皇帝陛下とファティマ皇妃様、ナジルを含む宰相たち、そして数名の神官しか乗っていないと言う。


 しかも、船員たちは全員が新しく雇われた者たちばかりだった。「顔も知らない相手と仕事をするのは大変ですよ」と、その船員は怯えたように笑った。


(とりあえず、ナジルを探さなくちゃ)


 先ほどまでちらついていた小雪はいつの間にか強くなり、雪混じりの冷たい風が船上の私に吹き付ける。寒さと船の揺れのせいで、私の体力はみるみるうちに尽きていく。



「おかしいわ……お酒と船酔いのせいで、こんなに酷い状態になるかしら」



 最後まで目を背けていたかったが、私の心にはある疑念が浮かんでいた。


 ナジルから振舞われた酒の中に、何か良からぬものが入っていたのではないだろうか。


 手は震え、視界は霞み、足には力が入らない。

 彼を疑うことなく簡単に酒を口にしてしまったが、恐らくあの酒の中にはが仕込まれていたのではないだろうか。



「ナジル、まさか貴方本当に皇子たちのお命を奪おうと……? そのために私が邪魔になったの?」



 意識を保つために、私は自分の頬を平手打ちしながら船の裏側に回る。

 ナジルを探して毒のことを問いただす時間は、私にはもう残されていない。


(儀式を止める。そのためには、イシャーク陛下を探すのが先よ)


 甲板の反対側に回ると、降り続ける雪の向こうに人影が見えた。



「誰……?」



 霞んだ目をこすってよく見ると、人影は二つ。

 我らが皇帝陛下、イシャーク・アザルヤード様。そしてその妃である、ファティマ皇妃様だった。



「……陛下ッ! 皇帝へい……か……!」



 私の声は、風の音にかき消される。

 

 その時、船首にいた二人の影が突然一つに重なった。そしてすぐに離れたかと思うと、皇帝陛下の影が視界から消えた。



(え? 陛下? イシャーク様……?!)


 目をこすって良く見ると、イシャーク様は甲板の上に倒れてうずくまっていた。

 最期の力を振り絞り、私は腰に差していた長剣サーベルを抜いてイシャーク様の元に駆け寄った。

 急いで膝に抱きかかえてみるも、腹に深い傷を負っており、既に陛下は虫の息だ。



「陛下、どうなさいましたか! ファティマ様、これは一体……!」

「アディラ・シュルバジー? なぜここに?」



 ファティマ皇妃様の震える手には、べっとりと血の付いた短剣ダガーが握りしめられている。刀の表面は変色していて、毒が塗られていたことが読み取れた。



「ファティマ様、まさか陛下を……イシャーク様を弑そうとなさったのですか!?」

「なぜ……なぜ貴女がここにいるのよ! もうとっくに死んだと思ってたのに!」

「もうですって? まさか、ファティマ皇妃様……」



 頭の中で、点と点が線で繋がって行く。

 私のことを「死んだ」と勘違いしたということは、ファティマ皇妃様は裏でナジルと繋がっている。ナジルが私に毒を盛って殺そうとしたことを知っていて、だからこの場に私がいることに動揺しているのだ。


(ナジルがずっと愛していた方って、もしかしてファティマ様のことなの?)


 ファティマ様は、イシャーク様の妃。

 皇帝陛下の妃に対して思いを寄せるなど、臣下としてあってはならないことなのに。


 ナジルはファティマ様を手に入れるために、イシャーク様を殺そうと考えたのだろうか。ナジルが邪魔になりそうな私を始末している間に、ファティマ様はイシャーク様を刺す。そう二人で申し合わせていただのだろうか。


 しかしイシャーク様を弑したところで、妃であるファティマ様はその後も弟皇子の後宮ハレムに入れられる可能性が高い。

 ナジルにとって、ファティマ様はいつまで経っても手の届かない存在であるはずだ。


(まさか、そのために弟皇子様たちを処刑しようとしたの……?)


 

「ファティマ様、貴女はナジル・サーダと通じているのですか!?」

「アディラ、許して……私はナセルから捨てられ、陛下からも冷遇されて、行き場がなかっただけなの。やっと私を愛してくれる人が現れたのよ」

「ご自分のことしか考えてないのですね。どんな理由があろうと、イシャーク様を裏切ったことは絶対に許さない!」



 胸ぐらを掴んで殴り飛ばしてやりたい気持ちでいっぱいだが、膝に抱えたイシャーク様から手を放すわけにはいかない。


 息も絶え絶えに肩を揺らすイシャーク様を膝に抱えたまま、私はサーベルの先をファティマ様に向けて睨みつけた。


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