第25話 ファイルーズ妃

「おや、何だか中が騒がしいですね。取り込み中のようです」

「カシム様、あの声はまさか……」



(私がこの声を聞き間違えるはずがない。扉の向こうで騒いでいるのは、ザフラお姉様だわ!)


 カシムが扉に手をかけるのを待たず、私はお姉様の名前を呼びながら中に入る。扉を乱暴に開きすぎたのか、部屋の中にいた人たちが音に驚いて一斉にこちらを振り向いた。



「ザフラお姉さ……っまぁ……じゃなかった、ザフラ様!」



 その広い部屋の中には、先日と同じように綺麗に着飾った女性たちが集まっている。その少し手前で、ザフラお姉様は床の上に膝をついていた。

 私の声に振り返ったお姉様の頬には、涙が幾筋も伝っている。



「……リズワナ!? ここに何しにきたのよ!」



 涙を浮かべた瞳で、お姉様は私を強く睨みつける。

 お姉様の両横には宦官が立ち、お姉様の両腕を掴んで跪かせていた。


(これではまるで、罪人を裁いているみたいじゃない! 早くお姉様の腕を放してもらわなきゃ)


 一体誰がこんなことを……と、お姉様の前に立つ人物に目をやると、そこにいたのは気まずそうな顔をした侍女長ダーニャだった。

 更にその奥には、これまで見た中で最も華やかなドレスに身を包んだ、一人の女性が座っている。

 ダーニャは私の顔を見ると、しまったとばかりに慌てた表情でくるっと向きを変えた。そして、奥にいた華やかなドレスの女性にうやうやしく頭を下げた。



「ファイルーズ様。あれが例の娘でございます」



(ファイルーズ様って……! この方が、アーキルの第一妃……)


 思わずゴクリと唾を飲む。

 私を一瞥して椅子から立ち上がったファイルーズ様は、ゆっくりとこちらに近付いて来た。


 結い上げた艶やかな銀髪を留めた髪飾りには、輝く石がいくつも施されている。

 薄いシフォンのドレスの裾から覗く手足は、女神ハワリーンの生まれ変わりと言われる私が足元にも及ばぬほど美しい。


(こんな可愛らしい人が、アーキルの妃なのね)


 心の中を様々な感情が行き来するが、その感情を通り越して私はファイルーズ様に見惚れていた。



「……リズワナ、リズワナ!」



 カシムが慌てた様子で私に囁く。



「先ほども言ったでしょう、ファイルーズ様にご挨拶をしてください」

「あっ……!」



 ファイルーズ様には礼を尽くせ、アザリムとナセルの関係を壊すなと、つい先ほど注意を受けたばかりだった。

 私は慌ててファイルーズ様に向かって頭を下げた。



「ファイルーズ様、お取込み中失礼します。リズワナを連れて参りました。騒がしくして申し訳ございませんでした」

「いいのよ、カシム。あなたがリズワナね」



 ファイルーズ様は私の目の前に立つと、両手を私の肩に置いた。



「リズワナ。事の顛末をアーキル殿下から聞きました。このザフラが貴女に失礼を働いたとのこと」

「いいえ、そんなことはなくて……」



 ファイルーズ様の言う「事の顛末」というのが、私が地下牢に入れられたことを指しているのだとしたら、その元凶はザフラお姉様ではなくむしろ侍女長ダーニャの方だ。

 私を捕まえるようにお姉様に指示したのもダーニャだし、杖を投げて怪我をさせたのもダーニャ。お姉様はダーニャに従っただけ……とも言える。


(その上、ダーニャとザフラお姉様を引っ掻いて怪我をさせたのはこちらのルサードだし……)


 黙ったままの侍女長ダーニャを見ると、彼女は気まずそうに私から眼をそらした。

 これは完全に、責任逃れをするつもりだろう。

 


「ファイルーズ様。ザフラ様は私に危害を加えたりはしておりません。色々と行き違いがあっただけで、むしろ私の猫がザフラ様と侍女長のダーニャ様を引っ掻いて怪我をさせてしまったのです」

「でも、あなたの頬にも傷が残っているわ。部屋のガラスも割れていたし、ダーニャの杖も窓の外に落ちていた。ザフラが杖を投げて、貴女に怪我を負わせたと聞いています。殿下の女に傷を負わせた者は、湖に沈めるのが習わしなのよ」

「湖に……!? それはどうか、おやめください! こんな傷跡はすぐに治ります!」

「……まあ、貴女が許すと言うのなら湖に沈めるのはやめてもいいのだけれど……でも、この者を直接殿下の目に触れさせるわけにはいきません。ハレムの外で小間使いに致しましょう」



 平然と言ってのけたファイルーズ様の横で、ザフラお姉様はハッと顔を上げた。



「ファイルーズ様! 違うのです、私がやったのではないのです……!」



 泣き叫んでファイルーズ様のドレスの裾を掴んだザフラお姉様を、宦官たちが引き剥がして連れて行く。


 これではあまりにもお姉様が可哀そうだ。

 小間使いの仕事など、このプライドの高いお姉様に務まるわけがない。

 私は思わず、ファイルーズ様の前に跪いた。



「ファイルーズ様。こちらのザフラ様はバラシュの名家であるハイヤート家の娘で、不自由なく大切に育てられてきたんです。小間使いとして働かせるくらいなら、むしろバラシュに戻して頂けませんでしょうか……!」

「偉そうにいうんじゃないわよ! 全部あんたのせいよ、リズワナ!」



 せっかくお姉様を庇おうとしているのに、後ろから当の本人が邪魔をしてくる。

 小さい頃から目に入れても痛くないほどにお父様から可愛がられていたお姉様なら、ハレムここにいるよりもバラシュに戻った方が絶対に幸せになれるはずだ。


(お姉様、少し黙ってくれればいいのに……)


 宦官の腕に噛みついて暴れるお姉様の方に振り向くと、それまで黙っていたファイルーズ様が声を上げた。



「やめなさい! うるさいわ!」



 側にあった水瓶を手に取ると、ファイルーズ様は思い切りそれを床に打ち付けた。大きな音を立てて、瓶の破片があたりに散らばる。

 唖然とする側女たちをよそに、ファイルーズ様は怒りを露わにしてザフラお姉様を睨みつける。


 後ろで控えていたカシム様は、ファイルーズ様の手を取って椅子に座らせた。破片で足を怪我しないようにというはからいだろう。


 全く、ハレムの女性たちは苛立つとみんな何かを割る癖でもあるのだろうか。

 先日窓ガラスを割ったばかりのダーニャは、慌ててファイルーズ様の元に駆け寄って跪いた。


「ファイルーズ様、今回に限り許して下さいませんでしょうか。ザフラの失態は、私の管理が行き届かなかったせいです。今後はきちんと指導いたしますので……」

「ダーニャ。こんな娘をアーキル殿下の前に出すわけにはいかないの。分かるでしょう?」

「しかし、ファイルーズ様……! 小間使いはさすがにあまりにも……」

「……分かったわ。リズワナもダーニャもうるさいわね。ではザフラは小間使いではなく、しばらくの間私の侍女をなさい。直接私の目の行き届くところで働いてもらいましょう」



 小間使いではなく、ファイルーズ様の侍女。

 寛容な沙汰に見えなくもないが、皇子妃の侍女では余程のことがない限り皇子の側女にはなれない。


(だから、バラシュに帰った方が幸せだと思ったのに……)


 悔しそうな顔をしたザフラお姉様は、唇を噛んだままその場に立ち尽くしていた。

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