第24話 琥珀の短剣
「リズワナ、ちゃんとついて来ていますか?」
アーキルの従者カシム・タッバール様が、私の目の前で突然振り返る。
「あっ、すみません! 無意識に気配を消しちゃってました」
「気配を消……そ、そうですか。不思議な方ですね」
カシム様は苦笑して首を傾げると、もう一度前を向いて歩き始めた。
ここアーキルの
前者は皇子以外の男性は立ち入り禁止。
後者は、宮殿に仕える者であれば自由に出入りができる。
だから男性であるカシム様もこうしてハレム内を堂々と歩けるわけだが……今から私は、一体どこへ連れて行かれるのだろう?
(今日は、図書館に行ってみたかったのにな)
アーキルのハレムには、アザリムの古文書や外国の文献を納めた図書館があるらしい。数代前の皇帝陛下がまだ皇子だった頃、の国中に散らばって保管されていた歴史書や資料を集め、その図書館を建てたのだそうだ。
そこには、まだ紙が庶民にまで流通していなかった頃の古い文献も全て集めて揃っているという。
アーキル曰く、ナジル・サーダが生きていた時代の資料が保管されているかもしれないとのことだった。
もしもナジルに関する資料があれば、アーキルが前世の記憶を取り戻すためのきっかけになるような情報が見つかるかもしれない。
それに、私の前世での記憶が途切れているあの船上の宴のあとイシャーク陛下の兄弟皇子たちがどうなったのか。その結果も、資料として残っていたりしないだろうか。
(そう思ったから、私が図書館に入れるようにアーキルにお願いしておいたのに)
回廊をさっさと歩いて行くカシムの後を追いながら、私は自分の腰に下げた
これは昨晩、アーキルからもらい受けたものだ。
アーキルの
宮殿の図書館は限られた者しか入館を許されておらず、入口には魔法錠がかけられている。この琥珀色の魔石があれば、その魔法錠を開けられるのだそうだ。
『このダガーを肌身離さず持ち歩け。それが俺の二つ目の願いだ』
アーキルはそう言って微笑んだ。
残り二つしかない願い事をこんなことに使ってしまっていいんだろうか? と思いながら、私は頷いてダガーを受け取った。
別に本物のランプの魔人でも何でもないのだから、アーキルが願い事をどう使おうと大きな問題ではないのだが、アーキルの意図はよく分からない。
(きっと、私に隠していることがまだまだあるんだわ)
天幕で初めて出会った時もハレムに着いてすぐの頃も、アーキルは不眠の呪いをさも軽い出来事のように語っていた。
ところが先日、私はアーキルが長年苦しんできた不眠の呪いの真相を知った。悪夢にとらわれて苦しむ姿を目の当たりにして、私の気持ちは以前とは変わった。
何とかアーキルを救ってあげたい、呪いを解いてあげたい。彼をこの苦しみから早く解放してあげたい。
あの日からずっと、アーキルのことを考えると胸がぎゅうっと締め付けられるように苦しい。
今世でもやはり私は、ナジル……いや、アーキルに惹かれてしまった。
それに、私の勘違いでなければ、アーキルも私のことを悪くは思っていないと思う。
(でもアーキルにとって、私はただのランプの魔人。もはや人間として見てもらえてすらないなんて、笑い話にもならないわね)
本当の私は、リズワナ・ハイヤート。
バラシュに生まれたハイヤート家の末娘。
ランプの魔人なんかじゃない、正真正銘の人間なのだとアーキルに告げたら、彼は一体どういう反応をするだろうか。
「――リズワナ、僕の話が聞こえてますか?」
「え? あっ、はい! カシム様、私たちは今からどこに行くのですか?」
「ファイルーズ様のところにご挨拶に行くのですよ」
「ファイルーズ様とはどなたでしょう? よくお名前を聞くのですが……」
「ご存知なかったのですか? ファイルーズ様は、アーキル皇子殿下の第一妃です」
カシムがさらりと口にした『第一妃』という言葉に、私はひゅっと息を飲んだ。
(アーキルには、既に妃がいたの? それも第一妃って……)
「それは存じ上げませんでした。失礼しました。その……ファイルーズ様がいらっしゃるのに、私がハレムに入っても良いのでしょうか」
「なぜ駄目なのです? ハレムとはそういうところですよ。しかしいずれにしてもハレムを取りまとめているのはファイルーズ様ですから、礼は尽くして頂かないといけません」
「礼とは?」
「ファイルーズ様を敬い、認めて頂いて下さい。このハレムではファイルーズ様の命令は絶対です。女同士の争いを仲裁するのは苦手ですから、くれぐれもファイルーズ様には逆らわないで下さいね」
「私も苦手です……女同士の争いなんて……」
まだ見ぬファイルーズ様の姿を想像すると、胸の奥がざわざわする。
側女ではなく妃と呼ばれているならば、もしかしたらもうアーキルには御子もいたりするのだろうか。
(アーキルのこと、まだ私はほとんど知らないんだわ)
私は思わず、腰に下げていたダガーの柄をぐっと掴んだ。
それを見たカシム様はぎょっとして、つかつかと私の目の前まで近付いて来る。
「そんな物騒なものを持って……ダガーは私がお預かりします」
「えっ、でもこれは、アーキルに頂いたもので……!」
カシムが私のダガーに手を伸ばす。
カシムの指がダガーに触れたその瞬間、ダガーに付けられた琥珀色の魔石がカッと強い光を発した。まるで雷でも走ったかのように火花を散らし、カシムは慌てて出した手を引っ込める。
カランという高い音を立てて、ダガーは回廊の床に転がった。
「…………リズワナ!? 今、何をしたのですか?」
「わっ、私は何も……急にこの魔石が光って……!」
床に落ちているダガーに目をやると、魔石の光は既に消えている。何の変哲もない、ただのダガーだ。
(さっきの光は何だったの?)
ダガーを拾おうとその場にしゃがもうとすると、カシム様がそれを制止した。
「ファイルーズ様にご挨拶すると言うのに、武器を持たれていては困ります。これは僕がお預かりしますから」
「ええ、でも……大丈夫ですか?」
もう一度カシム様がダガーに触れようとしたが、またしても琥珀の魔石が光って邪魔をする。どうやらこの魔石は、扱う者を選ぶようだ。
カシム様に目配せをして、今度は私がダガーに触れてみる。
すると琥珀色の魔石は何の変化もなく、難なく地面から拾い上げることができた。
状況を察したカシム様は、小さくため息をついた。
「どうやら、僕はその魔石に触れることができないようです。仕方ないのでこのままお連れしますが、ファイルーズ様に武器を向けることは絶対に許しませんよ」
「もちろんです! いくら私でも、何の危害も加えてこない方に武器を向けることはありませんから」
「……ファイルーズ様はナセル出身の王女です。貴女が変な気でも起こそうものなら、再びナセルとの関係が悪化するかもしれません。アザリムの国を背負っていると思って、心して接して下さい」
「ナセルのご出身……!? ファイルーズ様はナセルの方なのですね?」
「そうです。アザリムとナセルが和睦を結んだ際に、ナセルから嫁いで来られたのがファイルーズ様です」
両国の和睦の際に嫁いできたというならば、つまりナセルがアザリムに人質としてファイルーズ様を差し出した、ということだろう。
あのナセルの王女であれば、アーキルの呪いを解くために一役買って下さることはできないのだろうか?
魔法の国と言われるナセルの王女を頼る方が、私に頼るよりもよっぽど解呪方法にたどり着く可能性が高いように思う。
アーキルはなぜ、妃であるファイルーズ様を頼らなかったのだろう。
しばらく回廊を進むと、カシムがとある部屋の扉の前で足を止めた。そこは、先日私が侍女長ダーニャに連れて来られて事実無根の罪を着せられた、あの部屋だ。
中に入るのは気が進まないが致し方ない。私はカシム様の横に並んで扉に向かって立った。部屋の中からは、聞き慣れたあの人の声が漏れ聞こえてきた。
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