第3章 縮まる距離
第23話 呪いの真実
翌朝、私が目を覚ますと、アーキルは狐につままれたような顔でぼんやりと寝台に座っていた。声をかけても短く「ああ」と返すのみで、すっかり生気が抜けた様子だ。
寝台から降りてアーキルの前に腰を下ろし、顔を覗き込んでみる。
心配したが、瑠璃色の瞳には光が戻り、顔色も良くなっていた。
(良かった……眠れてすっきりしたみたい)
ホッとした私は、アーキルの顔を拭くための手巾を取ろうと立ち上がった。
するとアーキルが私の手首を掴み、自分の隣に座らせる。
「リズワナ。昨晩は……いや、何でもない」
そうポツリと呟き、アーキルは顔を上げた。
顔色は良くなったのに、その表情には相変わらず昨晩のような怯えの色が見える。バラシュの天幕で目覚めた朝とは違う覇気のない様子に、私は少し面喰った。
「アーキルは昨晩の記憶がありますか? とても苦しそうで、ずっと何かに追われて怯えているような感じでした。あれは呪いのせいなのですね?」
恐る恐る、私の方から話を切り出してみる。
アーキルは手を伸ばして、私の右頬の傷跡を親指でそっとなぞった。もう塞がってはいるけれど、侍女長ダーニャが割ったガラスの破片でケガをしたところだ。
私の頬に当てた手を下ろして悔しそうに拳を握ると、アーキルはポツリと話し始める。
「……
「やめてください! 素直に謝るなんてアーキルらしくないですよ。牢に閉じ込められたことは、私が上手く立ち回れなかった結果です。そんなことより、呪いの件は?」
「リズワナの想像している通りだ。昨晩のことは、俺にかけられた呪いのせいだ」
握った拳を振るわせながら、アーキルは不眠の呪いの真実について口を開いた。
◇
――呪いの始まりがいつだったのか。
アーキルには、そんな記憶もないらしい。
遠い昔、物心ついた時には既に、呪いは毎晩のように容赦なくアーキルを襲ったと言う。
宮殿中が寝静まった真夜中、日が変わる頃。
誰もいない自分の部屋で、アーキルはいつも一人怯えていた。月が高く昇って日が変わる頃になると、恐ろしい魔人の幻影が束になって彼の元に現れ、彼を取り囲むのだそうだ。
周囲が見えなくなるほど部屋は魔人に埋め尽くされ、アーキルの体を這い、切り刻んで痛めつけ、首を絞めて息の根を止めようとする。
全身を斬られる痛みや息苦しさに耐えながら、幻影に抗ってみるが無駄だった。
あまりの恐怖に悲鳴をあげても暴れても、誰も助けには来ない。
幼い頃から毎夜たった一人で、そんな地獄のような長い夜を乗り越えてきたという。
「そんなことが……! アーキルのお母様や乳母は、側にいなかったのですか?」
「俺の呪いが自分にもうつるのではと恐れていたんだろう。広い宮殿の中で、俺の部屋の近くには誰も寄せ付けないようにしていたそうだ」
「酷い……! そんな幼い子どもの頃から、しかも毎晩でしょう?」
「そうだ。バラシュでお前と出会い、共に眠った日を除いて」
私だったらとっくに狂っている、と言いかけて、私は口をつぐんだ。
一人で幾千夜もの孤独と恐怖に耐えて来たアーキルに、そんなことを言ってはいけない。きっと彼は限界まで気を張って生きているのだ。今この瞬間も。
(冷徹皇子だなんて……本当に人の噂は当てにならないのね。きっと冷徹に振舞って自分を振るい立たせなければ生きて来れなかったのよ)
想像もつかない長い苦しみを知り、気付くと私の目からはポロポロと涙がこぼれていた。バラシュで出会ってからというもの、こんなに近くにいたのに、彼の苦しみに気付けなかった。
三日間も牢に閉じ込められていたから、顔は土埃で汚れている。きっと涙と土で私の顔はぐちゃぐちゃだ。
「事情があってここ数日はリズワナを寝所に呼べなかった。お前がいなくても、一人で夜を過ごすことなど慣れているから大丈夫だと思っていた」
「あんなにうなされていて、大丈夫なわけがないです!」
「そうだな。結局三日しか持たなかった。それで、いざリズワナを呼ぼうと思ったら……侍女長がお前を牢に入れたと聞いた。三日もあんなところで、辛かっただろう」
「いいえ。心配して頂くのが申し訳なくなるほどに、全く問題なく過ごしていたので」
寝台に並んで座る私たちの足元に朝日が差し込んでいる。
獅子の姿から白猫に戻ったルサードがどこからか現れて、アーキルの膝の上にちょこんと乗った。アーキルはそんなルサードの背中を、優しく撫でる。
「リズワナ。あんな呪いにかけられた俺のことを、不気味に思うか?」
「……え?」
「俺は毎晩、昨日のように正気を失って暴れるだろう。それを不気味と思うなら、バラシュに戻ったっていい。元々俺が無理矢理連れてきたのだから」
「……」
私とは目を合わせることなく、アーキルはルサードを胸に抱いた。
ああ、そういうことか。きっとアーキルは寂しいのだ。
昨晩アーキルの錯乱した姿を見た私が、彼を恐れてここから離れると思ったのだろう。
いくら願っても彼の側には来てくれなかった、アーキルのお母様や乳母と同じように、私も彼の元から逃げ出すと思ったんだろう。
今のアーキルは、どうしようもない孤独と恐怖の夜を、再び一人で過ごさなければいけないことに怯えているんだ。
(なんてこと……)
何という孤独な皇子だろうか。
でも残念。私はアーキルの期待には沿えそうにない。
私は、女戦士アディラ・シュルバジーの生まれ変わり。
今、このリズワナ・ハイヤートの姿ではか弱く見えるかもしれないけれど、本当はちょっとやそっとのことでは動じない強い女だ。
彼が不眠の呪いから解き放たれ、毎晩の悪夢から逃れられるというのなら、私はそのためにここにいよう。そしてアーキルと一緒に、呪いを解く方法を探すんだ。
(目の前に苦しんでいる人がいるのに、放っておけないもの)
それに、アーキルがナジルの生まれ変わりかどうかなんて、もはやどうでもいい。
私はナジル・サーダではなく、今目の前にいるこのアーキル・アル=ラシードのために動きたい。いつの間にかそう思っている自分に、今初めて気付いた。
涙で汚れた顔を手の甲で拭き、私はアーキルの瑠璃色の瞳を見つめた。
天幕で会った時の冷たい瞳でも、孤独な夜を過ごした後の曇った瞳でもない、純粋な瑠璃色の瞳を。
「アーキル。お忘れですか? 私はランプの魔人。アーキルの願いを三つ叶えるまでは、ここを離れられないのです」
「リズワナ……」
「アーキルの一つ目の願いは、『俺を眠らせろ!』でしたよね。つまりその願いを私が叶えるのは、アーキルの呪いが解けた時です。呪いが解けるまで、私は貴方の側にいないといけません」
アーキルの首に手を回し、私は彼をそっと抱き締めた。
私の腕の中で、アーキルは何かに気付いたようにビクっと体を震わせる。
「リズワナ。まさか今お前は、俺の声真似をした……のか?」
「え? 声真似? ああ、『俺を眠らせろ!』の部分ですか?」
気恥ずかしい雰囲気に耐えられず、ついふざけて声真似をしたことを見抜かれてしまった。できるだけ低い声を作って、思いっきりアーキルの声真似で『俺を眠らせろ!』と言ったのだ。
「ふふっ、似てました?」
「……似ていない。俺の声真似をするなど不愉快だ」
「あれ? 似てたと思ったんですけど」
体を引き離し、アーキルはじろっと私を睨みつける。そんなアーキルの膝の上で、ルサードが低く「にゃあん」と鳴いた。
ルサードまでアーキルの真似をしているように思えて、私たちは顔を見合わせて笑う。
こうして笑っている時のアーキルの瞳は、弟皇子のラーミウ殿下を見ていた時のように優しい。
冷徹皇子という二つ名とは裏腹に、アーキルは弟思いで優しい面を持っている。
今思えば、アーキルがラーミウ殿下に向ける愛情は、母からの愛を得られなかったアーキルが本能的に求める家族愛なのかもしれない。
私も何となく、その気持ちは分かる。
リズワナ・ハイヤートとして生まれ、ハイヤート家のお父様やお姉様から嫌われていようと、心のどこかではやっぱり私は彼らに愛して欲しいと願っている。そして私の方も、彼らを愛したいという気持ちを持っている。
「リズワナ。本当にお前は、ハレムに残るんだな?」
「はい! それに、実は他にもやりたいことがあるんです」
私は心を決めてアーキルを見つめる。
前世で為し得なかったイシャーク・アザルヤード皇帝陛下の願いを、今世で叶えたい。帝位につけなかった兄弟皇子の命を無条件に奪うという悪習を終わらせ、ラーミウ殿下の命を救いたい。
弟思いのアーキルなら、きっとラーミウ殿下を守るために共に動いてくれるはずだ。
アーキルは不思議そうな顔でしばらく私を見たあと、意地悪そうな笑みを浮かべた。
「よし。そうと決まれば、まずはリズワナを俺の寵姫としてハレム中に知らしめねばならんな。大々的に宴でも開くか」
「えっ、寵姫ですか!? ちょっとそれは一足飛び過ぎるのでは……」
「何を言う。俺はお前を気に入っている。お前を牢に入れた奴らは必ず厳しく罰してやるし、今後同じようなことを考える輩も必ず……」
「うわっ、やめてください! 私は本当に大丈夫ですし、それにルサードがダーニャ様とお姉さ……いえ、ザフラを引っ掻いたのは事実なんですから」
危ない危ない。ここでザフラお姉様が処罰されてバラシュに帰されでもしようものなら、私は一生お姉様に恨まれるだろう。
(それはそれとして。アーキルったら、『俺はお前を気に入ってる』だって。嬉しい……)
さらっと口にしたアーキルの言葉を、私は聞き逃さなかった。
すっかり話し込んでしまった私たちの側で、ルサードは『俺を巻き込むなよ』といった表情で「にゃあ」と鳴いた。
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