第19話 恐怖の夜 ※アーキルside

 孤独と恐怖と戦わなければならない時が、近付いて来る。


 しかしこれからはもう、怯えながら夜明けを待つ必要がない。

 俺の不眠の呪いを解くことのできるリズワナと共に、穏やかな眠りにつこう。

 バラシュ訪問で不在にしていた間に溜まっていた仕事もさっさと片付けて、早く後宮ハレムの部屋に戻りたい。



「カシム! そこにいるか」



 一通り仕事にめどがついたところで、扉の外に控えていたカシムに声をかける。



「はい、アーキル殿下。お呼びでしょうか」

「カシム。リズワナを俺の部屋に呼べ。食事もそこでとる」

「アーキル殿下、その前に少しよろしいですか」

「……なんだ?」



 カシムは目を細めて一礼をすると、執務室の入口扉を開いた。


 扉の向こうからしゃなりと現れたのは、久しぶりに顔を合わせるナセル王女のファイルーズだ。カシムは俺に目配せすると早々に部屋から出て行き、俺とファイルーズが二人きりで部屋に残される。


 ナセル風に編み込んだ長い銀髪を揺らしながら、ファイルーズは俺の座っている椅子の横まで進み出た。



「アーキル皇子殿下」

「……ファイルーズ。何か困ったことでも?」

「はい、とても困ったことが起こったので参りました。殿下は後宮ハレムに、バラシュの娘を連れて来られたそうですね」

「それがどうした?」

「ハレムを取りまとめるのは私の役目です。ハレムのことについては全て、まず私を通して頂かなければ」

「俺は、君にハレムを任せたつもりはないが?」



 ここアザリムでは皇家であろうが庶民であろうが、妻は四人までと決まっている。

 妃を迎えるつもりなど毛頭なかった俺のハレムには、側女候補として連れて来られた女官たちは多く暮らせど、「妃」という立場の者はいなかった。


 しかしこのファイルーズは、ナセルから献上された言わば人質。

 一国の王女を使用人として働かせるわけにも行かず、ファイルーズは一足飛びで第一妃となったのだが、そもそもこちらが望んで人質を受け入れたのではない。


 いつかナセルに戻す時が来るだろうと、普段の暮らしに困らないよう援助しているが、本当の妃だとは思っていない。


 ファイルーズの方もそれを察してか、これまで一度もハレムのことに口出しなどしなかった。それが突然リズワナのことに口を出してくるとは、どういう風の吹きまわしだろうか。

 ファイルーズは目に涙を溜めて唇を噛むが、その悲しそうな顔が演技なのかそうでないのか判別がつかない。

 それほどに、俺たちはずっと遠い関係だった。



「……これまでは、殿下はハレムに近付くことすらなかったではありませんか。それに殿下の第一妃は私でございましょう?」

「君が好き好んでアザリムに来たわけではないのは分かっている。人質など寄越さなくても、アザリムがナセルを再び攻めることなどない。無理にここに残らず、ナセルに戻っても良いと何度も言っているだろう」

「私は、無理に残っているわけではございません!」



 その場に跪くと、ファイルーズは俺の衣の裾を掴んで軽く口付けをする。

 そして恨めしそうな顔で俺を見上げた。



「殿下、私の立場というものもお考え下さい。第一妃を差し置いて、初めに寝所に呼ぶのがバラシュの田舎娘だなどと……」

「ああ、なるほど。王女の誇りが許さんと、そういうことか?」



 俺の言葉に、ファイルーズの口元がピクリと引きつった。


 彼女が俺のことを好いていないことなど、とうの昔に知っている。

 ハレムに来てからの数年間、二人きりで話をしたことすら殆どなかったにも関わらず、突然こうして白々しくすり寄って来るのはなぜなのか。


 ナセルの王女としての誇り――それ以外に、思い当たる節はない。



「……アーキル殿下、お言葉が過ぎます。第一妃を差し置いて別の娘を召すなど、ナセル国王陛下の耳に入ればどう思われますでしょうか」

「ではどうしろと言うのだ、ファイルーズ」

「あのリズワナという娘は、私にお任せください。ハレムに置くかバラシュに帰すかは、私が決めます。それと、まずは第一妃である私をお召しください」

「……それはできない」



 意味の分からない言葉を吐き続けるファイルーズに、苛立ちが募る。もしもここが戦地ならすぐにでも長剣サーベルを抜いているところだが、ここは宮殿であり、相手は一国の王女。無下にするわけにもいかない。


 しかし、俺は知っている。ファイルーズが本当は誰のことを想っているのか――



「カシム!」



 扉の外に控えていたカシムが、もう一度部屋の扉を開けて入って来る。



「カシム、ファイルーズがハレムに戻る。連れていけ」

「承知しました、アーキル殿下。それで……リズワナはいかが致します?」

「……今夜はもうよい。だが勝手にリズワナをハレムから出すことは許さない」

「ですが、僕はハレムに入れないんですよ。管轄外です」

「ハレムの奥までは入れなくても、出入りの管理くらいはできるだろう?」

「あ、まあそうですね。かしこまりました。さあ行きましょう、ファイルーズ様」



 不服そうな顔のファイルーズに、カシムはいつものように調子よくニコニコと微笑む。やっと静かになった執務室で、俺は思い切り机に拳を叩きつけた。

 

 今夜リズワナを呼べば、またファイルーズは騒ぎ始めるだろう。

 あの様子では、ファイルーズは侍女長や宦官長も交えて大事おおごとにするかもしれない。せっかく関係を改善したばかりのナセルと再び揉めることは何としても避けたい。


(少し様子を見るか)


 既に二十年も、恐怖の夜に耐えたのだ。

 穏やかに眠れる夜がまた数日先に延びたところで、大きな違いはないはずだ。


 窓の外では既に夕陽が沈み、空を闇が包み始めていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る