第18話 事実無根
「――この田舎娘が!」
ダーニャの声が響き渡る部屋の中、ザフラお姉様は恐ろしい形相で私に飛び掛かって来る。私はお姉様の腕をすり抜けて、寝台やテーブルの間を飛び回ってかわした。
(何故こんな狭い部屋で追いかけっこしなければいけないのよ……!)
しかし蝶よ花よと大切に育てられたザフラお姉様と、前世最恐女戦士の私である。この勝負は既に始まる前からついているも同然。
案の定すぐに息が切れて動けなくなったお姉様は、疲れて床に倒れ込んだ。
するとこの状況に苛立ったダーニャが、先ほど折れてしまった杖をおもむろに拾う。
そのままダーニャはお姉様を押しのけて、窓際の壁に張り付いた私に向かって杖を思い切り振り被った。
(杖を投げつける気なの!?)
そう思った次の瞬間にはもう、杖は私に向かって突き刺さるように空を切って飛んで来ていた。
杖を避けようか、避けまいか。
このまま顔に刺さって怪我をするのは癪にさわるし、かと言って杖をはじき飛ばせば魔法を使ったのかと疑われて面倒だ。
一瞬迷った後、私は壁に背中を付けたまま少し顔をずらして杖を避けた。
ガシャーンという大きな音と共に、私の顔の横で
破片が私の頬をかすめて、右頬に小さな傷を作った。血がつうっと顎まで流れていくのが分かる。
(ああ、高そうなガラスが……! もったいないわ)
割れた窓の向こうを覗いてみると、そこは茂みになっていて誰もいない。怪我人が私一人で済んで胸をなでおろす。
感情に任せて杖を投げたダーニャも、ガラスが割れてようやく自分のしたことの重大さに気付いたらしい。青い顔をして口元を引きつらせている。
(仮にも皇子が連れて来た娘を傷付けたなんて知れたら、世が世なら処刑されてもおかしくないものね)
これでダーニャもザフラお姉様も、気持ちを落ち着かせてくれるだろうか。そう思ったのも束の間。
せっかく静かになった部屋の中で、ルサードの鳴き声が地を這った。
「グルゥゥ……」
「あっ! 駄目よ、ルサード。落ち着いて」
毛を逆立ててダーニャとザフラお姉様を威嚇するルサードを止めようと手を伸ばしたが、遅かった。ルサードはあっという間に家具の上に飛び乗って、そこから二人に向かって爪を立てて飛び掛かる。
「きゃああっ! 何なのこの猫!」
「シャアァァッ!」
「ルサード、やめなさい!」
部屋を飛び回るルサード、パニックになった二人。
新たに始まったルサードとの追いかけっこのせいで寝台の敷布は引き剥がされ、テーブルの上のランプや籠は床に散らばり、狭い部屋の中は嵐の中のようにぐちゃぐちゃだ。
二人の顔はルサードの爪で引っ掻かれ、頬にお揃いの傷ができている。
ルサードを止めようと一歩踏み出したところで、騒ぎを聞きつけた人たちが部屋の入口に集まってきた。
「騒いでいるのは誰だ! ここはアーキル皇子殿下のハレムだぞ!」
ああ……ハレムへの滞在直後からこんな大騒ぎを起こすなんて。
私と侍女長ダーニャ、そしてザフラお姉様は、駆け付けた宦官長に連れられてハレムの別の部屋に移された。
◇
連れて来られたのは、私の部屋とは比べ物にならない程の広くて豪華な部屋だった。部屋の中に一段高く作られている壇には、側女らしき美しい女性が何人も集って話込んでいる。
私たちが中に入ると、彼女たちは一斉にこちらを見た。品定めをするように私の頭から足先まで、視線が動くのを感じる。
田舎街のバラシュでは決して見ることのない美しいドレスに宝石類、むせかえるような化粧の匂い。慣れないものに囲まれて、何だか頭がクラクラしてきた。
これが本物の女の園なのか。
私をここまで引っ張ってきた宦官長は、私を絨毯の上に思い切り突き飛ばした。
正直言って痛くもかゆくもなかったのだが、とりあえずか弱いフリをして絨毯に倒れ込んでみる。
「リズワナ! お前は侍女長に向かって何をしたんだ!」
私に向かって大声を上げる宦官長は、ブルハンと言う名前らしい。
頭に巻いたターバンには大きな宝石が飾られていて、そこそこの身分であることが分かる。嫌な人に目を付けられてしまったようだ。
「ブルハン様! このリズワナという娘が、自分の猫を使って私とダーニャ様を襲わせたのです」
引っかき傷のついた頬をブルハンに見せながら、ザフラお姉様はポロポロと涙をこぼす。これはきっと、皆の前で私を悪者にして後宮から追い出そうということなのだろう。
着いたばかりだというのに、いきなり面倒なことになった。
(もしも、私がこのままハレムを追い出されたらどうなるんだろう?)
ずっと目の敵にしていた私が目の前から消えれば、きっとザフラお姉様の気持ちは晴れる。それに私の方だって、おかしなランプの魔人のフリをしなくても済む。
(でも、私がいなければアーキルは眠れない。最初は彼がナジルの生まれ変わりなのかどうかを確かめようと思ってここまで来たけれど、私だって今は……)
私の心は少しずつだが確かにアーキルに惹かれている。彼はきっとナジルの生まれ変わりに違いないと信じ始めている自分がいる。
宦官長と侍女長が私に向かってワイワイと何か喋っているのを無視して、私は絨毯の上で倒れ込んだまま考えを巡らせてみた。
(もしも私がいなくなったら、アーキルはどうするだろう……)
逃げたランプの魔人など信頼するに足らない。きっと彼はまた、別の方法で呪いを解こうとするだろう。
アーキルの目的は、自分にかけられた不眠の呪いを解くことだ。何もそのために、偶然出会っただけの私に固執する必要はない。
ナセルの魔道具の中には呪いを解けるものがあるかもしれないし、いっそのことアーキル自身がナセルに行けば解決するかもしれない。ナセルになら、解呪魔法が使える者がいるかもしれないじゃないか。
私がいなくたって、きっとアーキルは困らない。
(でも、もしもアーキルが私を必要としなくなったとしたら、私はちょっと寂しいわ……)
私の頭の中に、ぐっすり眠って朝を迎えた時の満足気なアーキルの表情がよぎる。
「……リズワナ! 何をボーっとしているの。立ちなさい」
絨毯に突き飛ばされたのに、今度は腕を無理矢理引っ張られて立たされる。
高壇にいる側女たちは、そんな私を見てクスクスと笑っている。さっきまで泣いていたザフラお姉様も、それに合わせて高い声で笑った。
結局。
宦官長ブルハンと侍女長ダーニャにより、私はわざとルサードを操って二人の顔に傷をつけたことにされてしまった。ザフラお姉様の高笑いを聞きながら宦官たちに連れられて、私は部屋を出る。
そしてハレムの端の塔にある、地下の暗い牢に閉じ込められることになったのだった。
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