第38話 二度目の酒

 小雪が散らつく夜空の下で、私を待つカシム・タッバール様はなぜか薄着だった。


 雪に濡れてかじかんだ足で、私は一歩一歩カシム様の元に近付いて行く。

 私に気が付いて満面の笑みを見せたカシム様を見ていると、体の奥から前世の記憶が溢れ出てくるように感じて、妙に胸の奥が痛み始める。


「リズワナ! 来てくれたんだね」

「……カシム様。遅くなりました」

「ここに来てくれたということは、僕の気持ちを受け入れてくれたということでいいのかな? 君はもうランプの魔人のフリをする必要もないし、バラシュの意地悪な家族の元に戻る必要もない。僕のところにおいで」

「でも……」

「今世こそ、君と一緒になりたい」


 ずっと求めていた言葉をもらえたのに、私の心はこの雪と同じように冷えている。カシム様がナジルの生まれ変わりだからと言って、今世でもナジルと同じようにアーキルの命を狙うとは限らない。


 ラーミウ殿下のことは、もしかしたらファイルーズ様が一人で仕組んだことかもしれない。カシム様の父親である宰相だって何の意図もなく、ただアザリムの慣習に従って皇帝陛下にラーミウ殿下の処刑を助言しただけかもしれない。


 それでもやはり、私の体に眠るアディラ・シュルバジーの記憶がカシム様のことを疑って、拒否している。


 促されるまま、私たちは図書館の扉の前の階段に並んで座った。

 そこでカシム様は何やらごそごそと手元で準備を始める。


「覚えている? 君の二十歳を祝う時に持ってきたお酒と同じものを持ってきたんだ。あの時からもう一度やり直そう」


 カシム様は前世のあの時と同じように、私に酒を手渡してくる。


「カシム様は、私のことがお好きだと? そんな話、誰が信じられるでしょうか」

「アディラ。君は何百年も前からずっと、僕のことを想っていてくれたんだろう? 僕はその気持ちに応えたいんだ」

「なぜですか? カシム様は私と結ばれたら何がどう幸せなんですか?」

「そんなに苛立って、一体どうしたんだ? アディラ」

「私はもうアディラではありません。リズワナ・ハイヤートです。でも今の貴方は、あの日のナジルと同じ顔をしています」


 何かに追い詰められたような、誰かへの憎しみに燃えているような、作り物の笑顔。前世に捉われてがんじがらめになって抜け出せないのは、私ではなくカシム様の方じゃないだろうか。


 カシム様はいつものように目を糸のように細めて、静かに笑う。


「君も言っていたじゃないか。皇帝の代替わりの時に、兄弟皇子が殺されなければいけないなんて許せないと」

「それはそうです。前世でも今世でも、私のその気持ちは変わりません」

「僕も君と同じ気持ちだよ。物心ついた時から、いつか殺される運命なんだと知りながら生きるなんて、普通の人間には耐えられるものじゃない」

「……それで、自分が生き残るために他の皇子のお命を奪おうとなさったんですか?」


 カシム様の顔から、笑顔が消える。

 私はカシム様から酒の入った瓶を奪って、その場に立ち上がる。


「前世ではイシャーク殿下の兄弟皇子たちを見殺しにして、今世ではラーミウ殿下を陥れる。そうやって、自分の敵となる皇子たちを死に追いやってきたのですか?」

「アディラ! 違うよ。何を言っているんだ? 僕たちは共に陛下に忠誠を誓った仲間じゃないか」

「私たちは前世で、兄弟皇子たちをお救いすることができたはずです。自分の益だけを考えて、それを潰したのは貴方でしょう?」

「ちょっと待ってよ、何のことを言ってるんだ?」


(ここまできて、まだ白を切るつもりね)


 座っていた階段をひたひたと裸足で降り、私は側にあった池の横に立ってカシム様を見た。

 持っていた酒瓶を逆さにして、中身を池の中に流し込む。


 しばらくすると、池に泳いでいた魚が何匹も水面に浮き上がってきた。


「あの日も、今夜も。貴方は私のことを殺そうとして、酒に毒を盛ったんだわ」

「アディラ……」

「私がいると、皇子たちのお命を狙う貴方の邪魔になる。だから私を葬ろうとしたのね」


 私の言葉に、カシム様はしばらく絶句した。

 酒に毒が入っていたことを証明されては、カシム様も言い逃れはできない。ここで真実を突き止めて、私はアーキルを守りたい。

 アディラ・シュルバジーの恋心を利用して、今世でも私を操れると思っているとしたら、それは大間違いだ。


 それに何より、アーキルはカシム様のことを大切に思っている。

 自分の妃に手を出すような男を、自分の弟のようだと言って側に置いている。

 カシム様のやっていることは、アーキルの優しさを踏みつけにする裏切り行為だ。


「君は、前世を全て思い出したの?」

「ナジルがイシャーク陛下の弟だったことは知っているわ」


 あの獅子の形のアザは、皇帝の血を引く者にしか現れない。

 ナジルにもカシム様にも同じ獅子のアザがあったのを、私は見た。


「そうか。そこまで記憶があるのなら、初めから教えて欲しかったよ」

「ナジルも貴方も、皇帝陛下の血を引く皇子だったのね?」

「……僕の前世であるナジル・サーダは、君の言う通り皇帝の血を引く皇子だった。でも、僕が皇子として生きたところで、イシャーク陛下が即位すれば殺されてしまう。そうならないように、母親が僕を密かに養子に出したんだ」


 過去を語り始めたカシム様は階段の上でおもむろに立ち上がると、最上段から私を冷たい視線で見下ろす。

 散らついていた雪はいつの間にか大粒となり、風に吹かれて吹雪のように舞った。


「せっかく僕が身を隠したというのに、イシャーク陛下は手の平を返したように『兄弟皇子たちは殺さない』と言い始めた。とても困ったんだよ。兄弟皇子はアザリムの慣習にのっとって、全員始末してもらわないとね。そうすれば、倒すべきはイシャーク陛下だけとなるんだから」

「カシム様……貴方、なんて無謀なことを……」

「ファティマが協力してくれたからだよ」


(……え?)


 カシム様が口にしたその懐かしい名前。

 ファティマ皇妃様は、イシャーク・アザルヤード皇帝陛下の妃だった。


「ファティマ皇妃様……が、どうしたの?」

「アディラ。やっぱり全ては思い出していないみたいだね。君はだと言うけれど、味方がいればそう難しいことじゃない」

「味方? ファティマ皇妃様が?」


(前世で、ナジル・サーダはファティマ皇妃様を味方につけていたというの?)


 ナセルから嫁いで来たファティマ様が、なぜナジル・サードと手を組む必要があったのか。

 それに、もしもカシム様が今世でも同じことを企んでいるのだとしたら、ファティマ様とはつまり……


(ファイルーズ様だわ)


 そう言えば、ここに走ってくる時にアーキルの寝室の近くで誰かとぶつかった。

 まさか、あれは……


「あれはファイルーズ様だったの?」


 私がアーキルの第一妃であるファイルーズ様の名前を呟いた時には、既に私の周囲をカシム様の手先だと思われる大人数の騎士達が取り囲んでいた。

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