第37話 三つ目の願い

 カシム様と別れ、図書館で一日を過ごした私は夜になってアーキルの部屋に戻った。


「どこに行っていた、リズワナ」


 振り返ったアーキルの額には、汗が滲んでいる。


「……」

「リズワナ?」

「遅くなって申し訳ありません、アーキル。早く眠りましょう。今夜はどんな物語にしましょうか?」


 アーキルの目を真っすぐ見ることができず、私は作り笑いをしながら顔を背ける。

 いつの間にかアーキルの部屋には、ルサードが連れて来られていた。机の下で体を丸めているルサードに手を伸ばすと、機嫌が悪かったのかそっぽを向かれてしまう。


「どうした、リズワナ。何かあったのか?」

「いいえ、どうもしませんよ? さあ、アーキル! 早く横になって下さい。新しい物語をいくつか覚えて来たので、今日はそれをお話しましょう」

「新しい物語? 図書館で昔の神話でも見つけたか?」

「はい、そうです。図書館で……」


 という言葉でカシム様のことを思い出してしまった私は、その場にへなへなと座り込んだ。

 そっぽを向いていたルサードが、私の様子がおかしいと思ったのか、のっそりと立ち上がって私の膝に乗る。


 今朝のこと。図書館の前で会ったカシム様と別れ、私は魔石を使って再び図書館の石扉の中に入った。皇統の系譜の入った木箱を置いた棚に向かい、鍵を開ける。

 天窓の真下の明るい場所で、改めて開いたその紙に書かれた「イシャーク・アザルヤード」の名前を探した。

 イシャーク陛下の次に書かれていた次代皇帝の名前は、「サードゥ・ナザリム=アザルヤード」。


 ところどころ紙が劣化して読みづらい部分はあったが、この名前を見るに、イシャーク陛下の次代皇帝はナジル・サーダだったことは間違いないだろう。


(ナジルは前世で弟皇子たちを死に追いやり、イシャーク陛下を手にかけた。そして自分が皇帝の血を引く皇子であることを証明し、次期皇帝として即位した……)


 共にイシャーク陛下に忠誠を誓ったはずなのに、ナジル・サーダの忠誠はどこに消えたのだろう。いつから自分が弟皇子であることを知っていて、どこからどこまでが彼の嘘だったんだろう。


(きっと私を船から遠ざけるために、わざわざ離れた場所まで連れて行ってお酒を飲ませたんだわ)


 そう考えると悔しさと悲しさでいっぱいになって、私は図書館から一歩も動けなくなってしまったのだ。


 しかし、私の心をかき乱すものはそれだけではない。

 今この後宮ハレムでは、数百年前と同じことが起ころうとしている。


 ラーミウ殿下は自室に幽閉され、皇帝陛下から処刑を命じられている。ナジルが……いや、カシム様が次に狙うのは、きっとアーキルだ。


(アーキルを守るには、どうしたらいいの?)


 座り込んだ私に駆け寄って肩に手を置くアーキルの顔を見上げると、私の好きな瑠璃色の両瞳がこちらをじっと見つめていた。

 真夜中が近付き、アーキル自身も苦しい時間だろうに、こうして平気な顔をして私を気遣う。


 冷徹皇子だと言われていながら、こうしてアーキルはいつも私やラーミウ殿下、そしてカシム様のことまで思いやってくれる。

 こんな優しい人に、カシム様が貴方の命を狙っているかもしれないなんて、絶対に告げられない。



「体の調子が悪いのなら、早く横になれ。リズワナ」

「違うのです、アーキル。実は……ナジル・サーダが見つかりました」

「何だと?」

「私が前世で愛したナジル・サーダは、別にいました。ナジルの生まれ変わりはアーキルではありませんでした」

「…………そうか。見つかって良かったな」

「良かった、ですか?」


 私たちの間に、沈黙が流れる。

 

 それから私たちは、どちらからともなく寝台に横になった。

 そして現実から逃げるように、私は図書館で読んだ神話の語り聞かせを始めた。





「――こうして、羊に姿を変えられてしまった男は、愛する妻の暮らす家に戻り、元の姿に戻ることができたのでした」

「……終わりか?」

「はい、終わりです。まだ眠れませんか?」

「もう日も変わった頃なのに、なぜか今夜は寝付けないな」

「これまでのアーキルなら、今頃悪夢に苦しんでいたはずです。不眠の呪いは……?」

「ああ、どうやら不眠の呪いは解けたようだ」 



 厚い雲に覆われて、今夜は月も出ていない。

 白猫姿のままのルサードは、書棚の下に潜り込んで既に夢の世界の住人だ。


 私とアーキルは寝台に横になったまま、お互いに見つめ合った。

 瑠璃色の瞳は、一点の曇りもなく美しく輝いている。



「前世で愛した人を側に置けば、アーキルの呪いは解けるのでしたね」

「ああ、お前のおかげだ」

「アーキルの前世は誰だったのですか? 私のことを愛してくれるような人、他に一人も思い付きません」

「そんなことは、今となってはもう関係ないだろう。俺の呪いは解けた。お前もナジル・サーダを見つけた。だから……」



 その後に続く言葉を聞きたくなくて、私はアーキルの唇に人差し指を置いた。

 私はアーキルのことが好きだ。

 誰からも愛されなくても、自分は周囲に惜しみなく愛情を注いでしまう優しい彼を。


 しかしアーキルは私の人差し指をそっと口元から離し、言葉を続けた。


「リズワナ。三つ目の願いはまだ残っていたな」

「……はい」

「明日後宮ハレムを出て行け」

「どういうことですか……?」


 私の両目の奥が、涙で熱くなる。


「お前はお前の愛する者のところに行けと言っている。これは三つ目の願いだ」

「どうしてそんなことを言うんですか?」


 アーキルは本当にただ眠りたいためだけに私を呼んでいたのだ。自分でも分かっていたことなのに、こうして突き放されて初めて、自分がアーキルに愛されているのではないかと心のどこかで期待していたことに気付く。


「お前には世話になった。最後くらい、お前の希望を叶えてやる」


 アーキルの背中の向こう側にある窓から、月が覗く。

 月明かりで泣き顔を見られないように、私は寝台から降りてルサードを抱き上げた。


「……にゃあぁ」

「ごめんなさい、ルサード。アーキルが眠れないと言うから」


 ルサードを窓際に連れて行くと、雲の隙間から満月が顔を現わしている。

 寝ぼけながら白獅子の姿に変わったルサードは、そのままのそのそとアーキルのいる寝台に登った。

 私は台の上にあったサンダルウッドのお香に火を灯し、そのまま部屋の扉の方に向かう。


「お休みなさい、アーキル。私は外で少し、月を見てきます」

「ああ、お休み。リズワナ」


 部屋を出て、私は回廊を全力で走った。庭園に出る途中で見回りの者と体がぶつかったが、それにも関わらず裸足のまま夢中で駆け抜ける。


 ナジル・サーダが、私を待っている。

 琥珀の短剣ダガーを握りしめ、月明かりの下を図書館に向かって進んだ。


 満月は再び厚い雲に隠れ、ハレムには季節外れの小雪が散らつき始めていた。

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