第36話 早朝の約束

 短剣ダガーを手に、私は急いで図書館へ向かう。

 早朝の後宮ハレムは人影もほとんどなく、見回り担当の宦官とすれ違う程度だ。


 まだ肌寒い空気の中、いくつもの庭園を抜けていくと、青いタイル壁の図書館が目の前に現れた。周囲を見回し、誰もいないことを確認して、入口に向かう階段を昇る。

 そして図書館の入口扉に手をかけようとしたその時。

 入口横の柱の陰に人の気配を感じた私は、咄嗟にダガーを鞘から引き抜いた。


 ダガーの刃が、隠れていた男の喉元に触れるか触れないかのところで、その男と真っすぐに目が合う。男は息を飲みながら、ゆっくりと自分のターバンを掴んでするすると引いた。

 ターバンの下から現れたのは、こちらから会いに行こうとしていたあの男だった。


「カシム様……」

「おはようございます、リズワナ。ちょっとダガーこれは乱暴な挨拶ですね。とりあえず仕舞ってもらえますか?」

「……はい」


 柱の陰にいたのは、カシム・タッバール様だった。

 ラーミウ殿下をお救いするために、今カシム様を怒らせるのは悪手だ。

 私はゆっくりとダガーの刃を喉元から離した。目線はカシム様としっかり合わせたまま、手元でダガーをカチャリと鞘に納める。


 カシム様はそれを見て、いつものようにニコニコと笑った。


「今まで黙っていてごめん。リズワナが探しているのは、多分僕だよね」

「……どういうことでしょうか。カシム様」

「リズワナには前世の記憶があるんでしょう? リズワナじゃなくて、と呼べばいいかな?」

「……」

「その身のこなし、剣を持った時の動きのクセ。きっとリズワナが、アディラ・シュルバジーなんじゃないかと思ってた。バラシュで刺客を放った時も、君が一人で刺客をやっつけたのを見たしね」

「バラシュでの刺客って……まさか、あれは貴方がアーキルを!?」

「別に、本気でアーキル殿下を手に掛けようとなんて思っていないよ! あくまで、君がアディラなのかどうかを確認するためにやったことだ。バラシュの市場バザールで出会った時に、きっと君がアディラの生まれ変わりなんだと気が付いたから」

「初めから、気が付いていたのね?」

「もちろん! 僕は君のことを誰よりもよく知っている。だって僕は、ナジル・サーダの生まれ変わりなんだから」

「……やっぱり貴方だったのね。ナジル・サーダ」


 ナジルの胸にあった獅子のアザが、カシム様の胸にもある。

 もっと早く気が付いていれば良かった。ナジルの生まれ変わりは、アーキルじゃなくてカシム様なのだ。


 あんなに会いたかったナジル・サーダに再会できたのに、私の心は今、再会の喜びよりも彼に対する疑念で満ちてしまっている。


「アディラ。君はどこまで過去を覚えてる? 僕はずっと、君と最後に会ったあの日のことを後悔していた。早く船に乗らなければと焦るばかりに、君を置いて先に行ってしまって……」

「ううん、あの日は皇子様たちの処刑の話が出て、貴方も気が動転していたんだと思うわ」


(あの日が、私とナジルが会った最後の日だったのね)


 カシム様は、私の記憶がどこまで残っているのか知らない。

 それを確認するために、私を試すように少しずつ情報を出しているんだ。


「……そう言ってもらえると少し気持ちが晴れたよ。アディラはあの時、船には乗れた?」

「ねえ、ナジル……じゃなくて、カシム様。私、今から行くところがあるの。その話はまたあとでいいかしら」


 カシム様と話をする前に、皇帝の系譜を確認しておきたかった。

 ナジルがイシャーク陛下を手にかけて皇帝となったのかどうか。それを早く確かめたい。


「リズワナ。君、もう一度図書館に行くつもり? 僕たちはもう前世から解放されるべきだと思う。君はリズワナ・ハイヤートとして生きるべきだし、僕も今世を楽しみたいと思ってる」

「私も本当はそうしたい。前世の記憶に残る貴方が心配で、ずっとここまで過去を引きずってしまった気がするの。前世で貴方は最愛の方と結婚することはできたのかしら? 前世の貴方は、幸せだった?」

「どうだろう、もうその女性のこともあまり記憶にないね」


 微笑んだ顔、両瞳の奥に見え隠れする私への苛立ちの感情。

 前世の記憶が曖昧だと言いながらも、カシム様の表情や癖は前世でのナジルそっくりだ。

 カシム様に対する疑念と前世でのナジルへの想いが交差して、自分で自分の感情もよく分からない。


「僕はナジル・サーダとは別の人間だよ。ナジルは他の女性を愛していたかもしれないけど、僕は違う」

「貴方は今世で一体何をしたいの?」

「リズワナ。実は、アディラの気持ちを知っていたよ。今世こそアディラと――いや、リズワナと結ばれたいと思ってる。待たせてごめんね」


 カシム様は笑顔のまま私の腕を引いた。

 そのまま私の体は、カシム様の腕の中にすっぽりとおさまる。


 あれだけ好きだったナジル・サーダに抱き締められていると言うのに、私の頬を悲しい涙が伝う。

 早く図書館に行って確かめたい。イシャーク陛下の次の皇帝が、ナジル・サーダではありませんように。

 そしてラーミウ殿下を陥れようとファイルーズ様と共に謀ったのが、アーキルが弟のようだと慕うカシム様ではありませんように。


(獅子のアザを見たい)


 私はカシム様の衣の隙間にそっと手を入れる。上衣を少し引っ張ると、彼の右胸にはやはり青白い獅子の形のアザがあった。


「カシム様。貴方は……」

「リズワナ。積極的なのは嬉しいけど、ちょっとそれは早いんじゃないかな」

「え?」


 密着する私たちの背後で、図書館の掃除に来た女官たちがつんざくような悲鳴を上げた。カシム様の腕の中から離れて振り向くと、女官たちは青ざめた顔をして散り散りに逃げていく。


(……まさか、私とカシム様の仲を誤解されてしまった?)


 女官たちの背中を眺めながら呆然と立つ私の横で、カシム様はクスクスと笑った。


「リズワナ。きっと君のことだから、ラーミウ殿下をお助けしようと考えているんだろう? 人がいないところで話をしたい。また今晩、この場所で落ち合おう。誰にも見られないように、一人で来てくれる?」

「……分かったわ。今晩、必ずここに来ます」


 カシム様に見えないように、私はダガーに施された琥珀色の魔石を撫でた。



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