第14話 弟皇子ラーミウ

「――待って! 行かないで!」


(ゴツッ!)


 思い切り飛び起きた勢いで、私は思い切り何かに頭をぶつけた。



「痛ったぁぃ……!」



 あまりの痛みに額を押さえて再びその場に仰向けに倒れると、目の前に心配そうな顔で私を覗き込む人がいる。カシム・タッバール、アーキルの従者だ。



「目が覚めましたか? リズワナ」

「はい……ここはどこですか?」

「城壁の外で乗った小舟ゴンドラです。船酔いが酷くてずっと寝ていたんですが、急に起きるから頭を舟にぶつけたんですよ。舟は無事かな?」



 カシムは舟にひびが入っていないか、念入りに確かめている。


(そこは舟より私の頭を心配するところじゃないの?)


 この従者には私が人買いの男をやっつける場面を見られている。私が怪力の持ち主であると知っているから、微塵も心配してくれないのだろう。

 まあ、いい。私だって自分の頭より舟の方が心配だ。


 額を押さえたままもう一度ゆっくり体を起こすと、私とカシムの乗ったゴンドラは宮殿の側に停められていた。前後のゴンドラからはたくさんの荷物が降ろされて、次々に宮殿の中へと運ばれていく。

 向こうの方を見ると、ザフラお姉様も騎士達に付き添われて行列に連なって歩いていた。


 ゴンドラに揺られている間、前世の嫌な夢を見ていた気がする。

 ナジルに酒を振舞われて砂浜に置いて行かれたあと、私はどうやって彼に追いついたんだろう。私の前世での最後の記憶は船上だったから、あのあと船の出航には何とか間に合ったはずだ。

 例え今世で結ばれなくても、来世では貴方の妻になりたい――船の上で強く願ったところまでは記憶にある。


 当時の出来事は忘れてしまいたいような忘れたくないような、そんな複雑な気持ちだけれど、最後に会ったナジルの姿は私の心に引っかかって離れてくれない。


 いつも真面目で朗らかで、弱音を吐く私に前を向くように励ましてくれていたのはナジルの方だ。そんなナジルが珍しく落ち込んで弱気になっていたと言うのに、あの時の私には何もできなかった。


 己の弱さに打ちのめされて自暴自棄になったナジルの姿が憐れで、今でもこうして時々夢に見る。



「リズワナ? 大丈夫ですか?」



 呆けていた私にかけられたカシムの声で、私はハッと我に返った。



「申し訳ありません、カシム様。どうも私は乗り物に弱いみたいです。これまでほとんどバラシュを出たことがなかったので慣れないのかもしれません」

「そうですか。貴女にもそんな弱みがあったのですね。船酔いはいつから?」

「ずっと前からですね……おえっ」

「おっと、無理しないように。宮殿の裏には湖があって、船に乗って神事を行うこともあるんですが……心配ですね。とりあえずゴンドラから降りましょう。お手をどうぞ」



 カシムが船から上がり、私の方に向かって膝をついて手を差し出す。

 彼の言葉に甘えて、私もゴンドラの中から手を伸ばした。

 けれど。



「――リズワナ、何をしている」



 伸ばした私の手を取ったのは、カシムではなくアーキル皇子だった。

 アーキルはカシムをどかせると、彼の代わりに私の手を引く。そしてそのまま私の体を抱き上げた。

 急に高さの変わった視界と船酔いの気持ち悪さで声も出せず、私は為されるがままにアーキルに体を預ける。



「アーキル殿下。そのままリズワナを手元に置くおつもりですか?」

「カシム、なぜそんなことを聞く? 側に置くためにわざわざバラシュから連れてきたんだ」

「しかし、それならばまずファイルーズ様のご了解を得るべきでは?」



 ファイルーズと言う名を聞いて、アーキルの口元がピクリを動いた。


(ファイルーズ様って……女の人の名前かしら。ナセル地方に多い名前だけど)


 カシムの問いには答えないまま、アーキルは私を連れて宮殿に続く階段を登った。だだっ広い広場を抜け、宮殿の門をくぐり、庭園を抜けて行く。


 時折すれ違う使用人たちが私の姿を見て驚きの声を上げているのが、何とも恥ずかしい。

 いきなり現れたどこの馬の骨とも知れない娘が皇子に抱かれているのだから、使用人たちが驚くのも当然だ。


(船酔いもおさまってきたことだし、そろそろ自分の足で歩きたいのに……)



 周囲の視線を避けるように、私は身をよじった。

 するとアーキルが私の困り顔を見て鼻で笑う。



「……なぜ笑うのですか? 自分で歩けますから降ろしてください」

「もう少しで着く。降ろすのも面倒だからこのまま行くぞ」

「慣れないんですよ。誰かに助けてもらったり、ましてや抱きかかえてもらったことなんて一度もないから……」



 何と言っても、私の前世は最恐の女戦士アディラ・シュルバジー。物心ついてから男性に抱きかかえられたことなんて一度もない。

 むしろ私の方が屈強な男性兵士たちをおぶり、支え、時には抱きかかえて戦地を走ったものだ。


 今世に生まれ変わった後だって、似たようなものだった。

 お父様から抱っこしてもらったことなど一度もないし、私を愛して育ててくれたはずのお母様は物心つく前に亡くなったから記憶がない。


 こうして他人に抱きかかえられるなんて初めての経験だ。

 こそばゆくて恥ずかしくて、心臓が破裂しそうなほどドキドキしてしまう。


(それに、もしかしてアーキルはナジル・サーダの生まれ変わりかもしれないんだし)


 火照る頬を両手で押さえてアーキルの顔を見上げてみるが、彼はいつも通りの涼しい顔で口元だけ笑っていた。



「――兄上! おかえりなさい!」



 どこからか、アーキルに向かって可愛らしい声がかけられる。

 声のした方を見ると、回廊から庭園に飛び出して満面の笑みで走って来る小さな男の子が見えた。



「ラーミウ、良い子にしていたか」

「はい、兄上! その方はどなたですか?」



 ラーミウと呼ばれた男の子が側まで来ると、アーキルはゆっくりと私を地面に降ろした。そして今度はその小さな男の子をひょいと抱き上げる。



「ラーミウ、これは誰だと思う?」

「うーんと、ものすごくかわいいから、女神ハワリーンさまですか?」

「ははっ! 確かにそうだな」



 冷徹皇子の名とは裏腹に、男の子を見つめるアーキルの瑠璃色の瞳はとても優しい。

 兄上と呼んでいるからには、この子はアーキルの弟皇子なのだろう。アーキルとは異なる金色の髪をした、五歳くらいの子だ。



「ハワリーンさま、僕はラーミウ・アル=ラシードです」

「ラーミウ皇子殿下、ご挨拶が遅れました。私は女神ハワリーンではなく、リズワナと申します」



 私はその場にひざまずき、頭を下げた。

 ラーミウ様の服の裾に軽く口付ける。


 バラシュの田舎娘にしては、堂々と接し過ぎだろうか。

 仮にも私は前世で皇帝陛下に直接お仕えしていた身で、こういう場に慣れっこだ。しかし普通の田舎娘なら、皇子を前にして緊張のあまり失神してしまう者だっているかもしれない。

 何と言っても、このアザリムの皇子を二人も同時に目の前にしているのだから。


 私はどう振舞ったらいいのかとまどいながら立ち上がる。

 そしてラーミウ殿下に、とりあえずの微笑みを向けた。



「ねえ、リズワナ。その猫さわってもいい?」



 ラーミウ殿下が指差した先には、白猫のルサードがウロウロと歩き回っている。


 空を見上げてみるが、まだ日も高い。今ならルサードが白獅子に変化する恐れもないし、少しくらいラーミウ殿下にお預けしても問題ないだろう。


 私は歩き回るルサードをつかまえて抱き上げ、ラーミウ殿下と目線を合わせるようにその場にしゃがんだ。殿下の瞳はアーキルと同じ瑠璃色だった。



「ラーミウ殿下、この子と遊んでくださいますか? この子の名前はルサードと言います」

「ルサード! かっこいい名前! 僕、お庭で遊んでくるね」

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