第2章 皇子の後宮と呪い
第12話 都の洗礼
バラシュの街を出発して数日後――
私たちはアーキル皇子御一行と共に、アザリムの都に入った。
移動の疲れと馬車の揺れに酔ってフラフラになった私は、馬車から降りるや否やその場に座り込む。
(ああ、気持ち悪い……)
そう言えば私はリズワナ・ハイヤートとして今世に生を受けてから、バラシュの街を出たことが一度もないのだった。馬車に乗っての旅がこんなに過酷なものだなんて知らなかった。
(今世の私は随分とひ弱ね。前世では馬に乗ったくらいでは酔わなかったのに。まあ、船は苦手だったけど)
自分で馬を乗りこなすのと馬車の揺れに身を任せるのとは、別の話なのかもしれない。とにもかくにも馬車酔いした私の目の前の世界はぐるぐると周っていて、どこかにもたれかかりでもしないと倒れてしまいそうだ。
私は両手で自分の頭を抱えて目を閉じた。
よろける私の体の動きに合わせて、腰に下げた偽物の魔法のランプがカチャカチャと鳴る。
「リズワナ様、大丈夫ですか?」
「お水をお飲みになりますか?」
お供の騎士たちは私のことをすっかりアーキル皇子の寵姫扱いしていて、ご機嫌を取ろうと必死に話しかけて来る。よほど
何と言ってもアーキルは、ナセルとの戦いで一晩で血の海を作ったと言われる、恐ろしい冷徹皇子なのだ。
(やっぱりどう考えてもアーキルはナジルとは似ても似つかないのよね。あの獅子のアザを除けば……)
その場で顔を上げて見回してみるが、近くにアーキルの姿は見えない。バラシュから都までの間の数日間、アーキルは一人で眠れたのだろうか。
たった一晩眠れただけで大喜びしていたアーキルを思い出し、心配になった。
とりあえず、騎士から受け取った水を口に含んでその場に立ち上がってみる。
すると私の目の前には、長くて高い石造りの壁が続いていた。この石壁の向こうにアザリムの都――人々の暮らす街や宮殿が広がっているのだという。
そして私のすぐ傍らに流れる小運河は、水門の下をくぐって石壁の向こうまで続いていた。ここからは
(また乗り物で移動するのね……船酔いしそう)
胃から込み上がってくる吐き気を抑えるように、私は面紗の上から口に両手を当てた。
「リズワナ、待ちなさいよ!」
隊列の後ろの方から走ってきたザフラお姉様が、私の右肩に手を置いてぐいと引く。
お姉様はバラシュに残るだろうと踏んでいたのに、よほどアーキルの
ザフラお姉様は、恐らく勘違いをしている。
田舎者の娘がいきなりハレムに入ったところで、初めからアーキルの側女になれるわけではない。
お姉様が期待しているような皇子とのめくるめくロマンスなど、よほどのことがない限り夢のまた夢。待っているのはハレムで働く者としての勉強と、使用人としての労働のみだ。
前世で皇帝陛下直属の武官として働いていた私は、皇帝とのロマンスを夢見て都に出てくる田舎娘の悲しい末路を何度も目にしてきた。
(だからバラシュに残った方が幸せだと言ったのに)
それでもどうしても皇子の寵愛を受けたいのなら、むしろお姉様の方が先にアーキルの天幕に忍び込めば良かったのだ。そうすれば今頃、ランプの魔人としてこきつかわれるのはお姉様の方だったかもしれない。
(まあ、それはそれで困るわね。もしもアーキルがナジル・サーダの生まれ変わりなんだとすれば……)
色々と考えているうちに、また吐き気が襲ってくる。
気分が悪い時に考え事をするべきではない。深く考えるのはやめよう。
アーキルはナジルの生まれ変わりかもしれないし、そうじゃないかもしれない。
どうせしばらくアーキルの側にいることになったのだ。真実はゆっくり確認すればいい。悩んでいたって仕方がない。
何とか自分を奮い立たせようと頑張る私の横で、お姉様はいつも通りの金切り声を私に向けている。
「リズワナ、やっと話せるわね。なぜ私たちは姉妹なのに別の馬車にされたのかしら。腹が立つわ!」
「ザフラお姉様、あまり大きな声で喋らない方がいいですよ。お姉様は使用人としてハレムに入るのですし、あまり目立っては……」
「は? 私を使用人にする気?」
「だって、お父様がそう仰って……」
「うるさい! すぐに皇子の側女になってみせるから見てなさいよ。ところであの時、アンタは皇子の天幕で何してたの?」
「ああ、それはですね」
口どもる私の横で、白猫姿のルサードが毛を逆立てて「シャー!」とお姉様を威嚇する。
「まさか私が殿下のお世話をすることを知っていて、抜け駆けしたんじゃないでしょうね!? 何がランプの魔人よ、ふざけないで!。『リズワナは私の妹です!』って、今すぐバラしてやるから!」
「お姉様、そんなことをしてはお父様の立場がなくなります。私たちの嘘がバレて、お父様の首が飛んだらどうなさるんですか?」
「それはそうだけど、でも……!」
「もしもお姉様がバラシュに戻りたいと仰るなら、交渉してみますから」
「何を偉そうに! もう皇子の寵姫気分なの?」
「お姉様、落ち着いて……」
その時、お姉様の金切り声のせいでふらついた私の肩を、背後から何者かがそっと支えてくれた。私ともあろう者が、背後の人の気配を感じ取ることができないなんて……と、情けなく思いながら振り返ると、そこには黒髪の男が一人立っている。
満面に笑みをたたえる、少し頼りなさそうな優男。
(この糸のように細い目、どこかで見たことがあるような……)
「あっ、もしかして」
「気付きましたか?
間違いない。この優男は、私がバラシュのバザール近くの路地で人買いの男を殴って気絶させた時に出会った人だ。
あの時は
(……ということは、もう一人の瑠璃色の瞳の男は、やっぱりアーキル皇子だったんだわ。アーキルは私には気付いていなかったみたいだけど)
ふと嫌な予感がよぎって、私は優男の方に振り返る。
バザールで出会ったのが私だと知っているなら、私がランプの魔人ではないことも分かっているはずだ。
それをアーキルに伝えられでもしたらどうなる? 偽物のランプを献上した罪で、お父様の首が危ない。
(この優男に口止めしなきゃ)
しかし私が言葉を発するのを遮るように、優男は私たちに向かって恭しく礼をした。
「ご挨拶が遅れましたね。僕の名はカシム・タッバール。アザリムの第一皇子アーキル・アル=ラシード殿下の従者を務めています」
「カシム様、こちらこそご挨拶が遅れました。私はリズワナと申します」
私の挨拶が終わらないうちに、ザフラお姉様がずいっと前に飛び出して来る。皇子に近い人物に出会って興奮したのか、目をキラキラさせてカシム様にすり寄って行く。
「カシム・タッバール様! 初めてお目にかかります。私はバラシュの商人の娘、ザフラ・ハイヤートと申します。カシム様もバラシュからの長旅でお疲れでしょう? もし良ければ私が側でお手伝いいたしますわ」
「え? ああ……すみません。ゴンドラは二人乗りなんですよ。それに、あなたがたは皆アーキル皇子のために都に来られたのですから、僕の世話をさせるわけにはいきません。さあ、リズワナ。行きましょう」
「お待ちください! リズワナはこの通り体が弱くて……きっと皆様にご迷惑をおかけしますわ。私が共に参ります」
「同じことを何度も言わせないでくれますか? 僕は、リズワナと共に行くと言いましたよね」
カシムが目配せをすると、慌てて駆け寄ってきた騎士たちがザフラお姉様の腕を両側から掴んだ。そのまま騎士達に引っ張られ、お姉様は列の後ろの方に連れて行かれる。
「待って、待って下さい! その子は本当に体が弱くて役立たずなんです! 私の方が……っ!」
悲痛な叫びも空しく、お姉様の姿はあっと言う間に見えなくなった。
都とは恐ろしい場所だ。バラシュの街でハイヤート家の娘をあんな乱暴に扱いでもしたら、お父様が裏で手を回して大変なことになってしまう。
(ここは紛れもなくアザリムの都。いつまでもぐずぐずと迷ってても仕方ないわね。せっかく遠くまで来たからには、アーキルが本当にナジルの生まれ変わりなのかどうかしっかり確かめるわ!)
馬車とゴンドラのせいで酔いまくっていても、心だけは強く持っていたい。
吐き気で朦朧とする意識の中で、私は改めて決意を固めていた。
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