第5話 天幕の攻防

「ルサード? ここにいるのは分かっているのよ」



 天幕の中にそっと忍び込んでみたのだが、天幕の中は静まり返っていて誰もいない。耳に入るのは、遠くで奏でられるシタールの音色と人の笑い声だけだ。


 たった一晩二晩を過ごすにしては豪華すぎる調度品の数々に何度も目を奪われながら、私はキョロキョロとルサードの姿を探す。


 テーブルの上に置かれたランプのほのかな灯り、どこからか流れて来るサンダルウッドのお香の匂い。

 天幕の中央に敷かれた絨毯は、まごうことなき一級品だ。絨毯の表面を手のひらでそっと撫でると、最高の手触りにため息が出た。きっと身分の高い人のために最高級の素材で作られたものだろう。



「この絨毯は一体どれくらいするのかしら。素材の染色と言い織り方の技術と言い、模様の出し方と言い……全てが素晴らしいわ」



 サンダルウッドの香りのせいでついついリラックスしてしまった私は、絨毯の上にゴロンと寝転んでみた。すると天幕の端に積まれた木箱の隙間から、ルサードのしっぽが覗いているではないか。



「そんなところにいたのね、ルサード。早く戻りましょう」

「……」

「ねえ、もう月が昇るわ。皆に見つかる前に行きましょ」

「……にゃぁ……ぁ」



 絨毯の上を這うようにして木箱の方に近付くが、眠くなってしまった様子のルサードは両目を閉じている。

 早くここを出なければと分かっているのに、私の方までルサードにつられて眠気に襲われ、重いまぶたを何とか開きながらルサードのしっぽを掴んだ。





「…………プが……煙だ! 早く……火を消し止めろーッ!」



(……ん? 何?)



「……早く、水を持って来い! 殿下、危ないですから天幕の外へ!」



(危ない? 水? 何かが燃えてるの?)


 大声で騒ぐ人たちの声に、私はガバっと飛び起きた。ここはどこだっけ? と辺りを見回してみるが、目の前が真っ白で身動きが取れない。


(何よ、この白いモヤは。まさか……煙!?)


 ようやく自分が天幕の中に忍び込んだのだということを思い出した。ルサードを追って入った天幕で、木箱の隙間に隠れていたルサードのしっぽを掴んだところまでは覚えている。

 まさかそのまま、こんなところで居眠りをしてしまったというのだろうか。



「殿下、早く外へ!」

「……いや、ランプが絨毯に落ちて燻っていただけだ。もういいから下がれ」

「しかし……!」

「早く行け!」

「ははあっ! では、煙を出すために入口は開いておきますので……」

「ああ、早く一人にしてくれ。お前たちがうるさくて休むこともできん」



 煙の向こう側から聞こえた男たちの会話から、私は一番入ってはいけない天幕に入ってしまったのだと悟った。ここはきっと、このアザリムの皇子が使う天幕だ。


(ザフラお姉様が言ってたもの。今日は皇子様たちがお忍びでバラシュを訪れるって)


 昼間、部屋の外でザフラお姉様とお父様が話していた会話が頭を過った。


 ここアザリム皇帝のハレムには多くの妃がいて、皇子や皇女も多いと聞く。

 悪評高い冷徹皇子アーキル、そして多くの皇女たち。そして年の離れた第二皇子はまだ五歳くらいだと聞いたことがある。


(煙の向こうにいるのはきっと、冷徹皇子のアーキルね。背も高いし声も低いし、ものすごく不機嫌そう……)


 白い煙の向こうから一歩一歩、皇子が近付いて来る。天幕の入口から差し込む月の光に照らされて、皇子の姿は逆光で黒い影に見えた。


 その黒い影は側にあった布を手に取ると、くすぶっていた絨毯にかぶせて火を消した。

 天幕の入口から少しずつ煙が吐き出され、徐々に視界が開けていく。このままいけば、私とルサードも見つかってしまう。


(相手が皇子でなければ一発お見舞いして気絶させた隙に逃げるんだけど。さすがに皇子には乱暴できないわ)


 兵たちの首を斬って血の海を作ったという残虐な皇子に見つかるだなんて、万事休すとしか言いようがない。とりあえず木箱の裏にでも身を隠そう。

 煙を吸わないように両手で口を押さえ、その場で体を反転させる。すると私の足に、コツンと何かがぶつかった。


 先ほどテーブルの上に置かれていただ。



「……誰だ」



 物音に気付いた皇子が、地を這うような声でつぶやく。


(しまった! 煙でよく見えなかったから失敗しちゃった)


 慌てて身を縮めてみたが、もう遅かった。皇子は扇で煙を仰ぐと、私の側に落ちていたランプを手で拾う。


 扇の風に吹かれて煙が晴れ、皇子の顔が私の目の前にハッキリと現れた。


 日に焼けた濃い色の肌に、濡羽色の髪。精悍な印象の顔の中で、瑠璃色の瞳だけがギラリと異様に光った。


(あれ、この瞳……市場バザールで見た長衣カフタンの男と同じ瑠璃ね)


 瞳に気を取られて油断した瞬間、私の頭上めがけて皇子の長剣サーベルが勢いよく振り下ろされた。

 サーベルに埋められた琥珀色の石を目印に、私は剣の動きを瞬時に読み取りながら体をねじって避け続ける。



「ひえっ、やめてください」

「何者だ。刺客か」

「違います、誤解なんです!」



 宙に残った煙を斬るように、皇子はシャンシャンと音をさせながらサーベルを私に向かって振り回す。さすがナセルとの戦いで活躍した皇子だけあって、剣筋は確かだ。


 それでも、この霊長類最強の私を斬ることは難しいと思うけれど。


 皇子の剣を次々に避け続けていると、皇子の方もこれは不毛な戦いだと察したのだろう。腕をおろしてため息をつくと、絨毯の上にサーベルを投げ捨てた。


 木箱の上に飛び乗って構えていた私と、再び真っすぐに視線が合う。



「お前は――」

 

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