第3話 バザールにて

 異国の珍しい果実や香辛料、香油、装飾の施された骨董品。

 狭い道の両側にずらっと並んで商う露店の隙間を縫うように、猫のルサードは軽やかに駆けていく。


 私はルサードの姿を見失わないように、人混みの間をすり抜けながら石畳を進んだ。


(今日もバラシュの街は平和ね)


 街の人々だけでなく荷を運ぶロバまでもが自由に往来しているこの通りは活気に溢れていて、あちこちで人々の笑い声が湧き上がっている。

 しかし一見平和に見えるこの街も、つい数年前まではいつもピリピリとした緊張感に包まれていた。隣国ナセルとの関係が悪化し、いつ国同士の戦に発展してもおかしくない状態だったのだ。

 その頃を思うと、今のこの市場バザールの賑わいは嘘のようだ。


 両国の国境に近いこのバラシュの街がここまで再興したのは全て、アザリムの第一皇子アーキル・アル=ラシードの功績だと言われている。何年も両国の力が拮抗していたところにアーキルが成人して参戦すると、あっという間にナセル軍を倒して制圧してしまったそうだ。


(何でもアーキル皇子自ら兵たちを次々に斬り殺し、一晩で血の海を作ったとか……ああ、怖い怖い!)


 昼夜問わず戦い続けるアーキル軍の陣営はまるで不夜城のようだったと、ナセルの商人に聞いたことがある。

 戦地での功績は、とかく大げさに語られがちだ。アーキルの噂も本当かどうかなんて分からない。しかし、冷酷で残虐な人物であることは間違いないだろう。



「そんな恐ろしい人が来るとも知らず、バラシュの人たちはみんな平和ボケね……あっ、ルサード! 見つけたわ!」



 市場の裏、細い路地の方に入って行くルサードが視界を横切って行く。見失わないように目を見開いて、私は露店の間を抜けて路地に入った。



「ルサード? どこにいるの?」



 誰もいない細い路地を、そろそろと進む。

 陽の光も石壁に遮られ、一本道の路地は昼間にも関わらず薄暗い。


 ここまで来ると市場の賑わいはほとんど聞こえず、目の前の細い路地は延々と向こうまで続いているように見える。


(もしかして、この道じゃなかったのかしら)


 ルサードとは別の道を来てしまったのかもしれない。このまま進むのを諦め、私は市場に戻ろうと背を向けた。

 ――その時。


 歩いて来た方向に振り向いた瞬間、私の体が何かにぶつかった。



「きゃあっ!」



 人の気配など一切なかったのに、私の目の前には大柄で人相の悪い男が立っていた。男はゴツゴツした手で私の口を覆うと、腕を掴んでそのまま石壁に背中を押し付けてくる。


(物盗りかしら……それとも?)



「お前、可愛い顔をしてるじゃないか。一緒に来てもらおう」



 なるほど、これはきっと物盗りではなく人買いの類だ。

 私を売って、都で後宮ハレムの奴隷にでもするつもりだろう。


(あーあ。私ったら華奢で儚い美女のはずなのに……こんなところで本性をバラさなければいけないなんて)


 この男には、私に手を出したことを後悔して欲しい。

 もちろん、あの世でね。


 私は人買いの男の腰にぶら下げてあった短剣ダガーを右足でひょいっと蹴り上げる。

 不意をつかれて驚いた男の腹に蹴りを一発喰らわせ、地面になぎ倒す。するとその勢いで、男の体が音を立てて地面にめり込んだ。

 私は宙に浮いたダガーを右手に取ると、男の背中に腰かけて首筋にそれを当てた。



「あなた、誰か他に仲間はいらっしゃるの?」



 うつ伏せに倒された大男からは、返事がない。



「このバラシュの街は、とっても治安がいい場所なんです。あなたの仲間はどちらかしら。暴れられる前に根こそぎっておく必要がありますから教えてください」



 やはり、返事はない。



「あれ? どうしました? まだ致命傷ではないはずなんだけど……おーい」



 座っていた背中から降りて、男の前髪を掴んで顔を上げてみる。するとその男の口ではなく、私の背後の方向から別の男の声がした。



「無駄だ。気を失っている」

「え?」



 振り向いてみれば、そこには白い長衣カフタンを纏った男性が二人立っている。口元まで隠すようにターバンを被っているので顔も体も殆ど見えない。

 私も慌てて自分の面紗を整え、できるだけ顔を見せないようにうつむいた。


 どう考えても、私がこの人買いの男をボコボコにしたところを目撃されてしまった気がする。


 後から現れたこの二人、このバラシュの人間ではなさそうだ。人買いの仲間なのか、それとも別の街から来た人なのか。

 いずれにしても、顔を見られては面倒なことになる。とりあえず誤魔化すために演技をしよう。



「こっ、怖かったですぅ……助けて下さってありがとうございましたっ!」

「いや、俺たちは何もしていない。お前がその男を倒したように見えたが?」



(あ、はい。やっぱりバレてますよね)


 手前に立って話す男はとても口調が冷たいが、どうやら人買いの仲間ではなさそうだ。後ろにいる男もターバンの隙間から覗く目がニコニコしながら私を見ていて、私を捕まえて売り飛ばそうなんていう緊迫した気配は感じられない。


 笑って誤魔化すしかないと思った私は、とりあえずその場にダガーを投げ捨てて、間に合わせの笑顔を作って立ち上がった。

 武器も捨てたし、私が敵ではないことは伝わったはずだ。さっさとここからずらかってしまおう。

 しかし二人の横をすり抜けて市場に戻ろうとした私の手首を、ニコニコ男が思い切り掴む。



「きゃあっ!」

「失礼。ついでに少々伺いたいことがあるのですが」

「……なんでしょうか? 私は今、猫を探していて急いでいるんです」

「猫ですか? どんな?」

「毛が白くて……珍しい猫なので、見たら印象に残るかと」



 私は二人と視線を合わせぬよう、地面に目を落とした。

 するとその刹那、後ろにいた冷たい方の男があっと言う間に私の腕を引き、体を壁に押し付けて自由を奪う。


(――動きが速いわ! 一体、何者なの!?)


 この男はきっと、私が下を向いたから腰元に武器でも隠し持っているとでも勘違いしたのだ。自分が斬られる前に私の動きを封じようとしたんだろう。

 道でバッタリ鉢合わせただけの小娘をここまで警戒するなんて、何という見掛け倒し、臆病な男だろうか。


 しかし、女戦士アディラの生まれ変わりであるこの私よりも素早い身のこなし。心は臆病でも、相当の手練れと見た。



「お前、何者だ?」

「ええっとですね。私は、その……」

「ナセルに近いこの街では、魔法を使える者もいるということか?」

「え? 魔法、ですか?」

「お前みたいな小さな体で、あんな巨体の男を倒せるわけがない。魔法を使ったのか? それとも魔道具を?」



 少々話が飛躍し過ぎていて整理が追い付かない。

 確かに隣国ナセルは魔法の国なんて言われているけれど、私が人買い男をなぎ倒したのは、ただの実力。私はナセルの者ではないので魔法は使えないし、今は魔道具だって持ち合わせていない。



「私は魔法は使えません、魔道具もありません」

「それでは、お前がこの男を倒したことの説明がつかない」

「女神ハワリーン様のご加護かもしれませんね。このバラシュの地は、昔からハワリーン様のお膝元と言われておりますから」



 腕も脚も壁に押し付けられて身動きが取れないまま、私は目の前にある冷たい男の顔を見上げた。

 ターバンの隙間から覗く男の瑠璃色の瞳は、異様な雰囲気を醸し出している。目の周りに刻まれた深いクマのせいで、美しいはずの瑠璃色はくすんで見えた。


(何だろう、この瞳。すごく見覚えがあるような)


 私たちは瞬きもせずお互いの動きを牽制しながら、至近距離でしばらく目線を合わせる。


(それどころじゃなかった。このままじゃ、ルサードがますます遠くへ行ってしまうわ)


 こんなところで見知らぬ男と時間を無駄にしている場合ではない。

 私は腕を素早くねじって男の腕をすり抜けると、男の長衣カフタンの隙間から覗いていた琥珀色の宝石のついた長剣サーベルを抜き取った。


 シャン――と、サーベルが空を切る音が路地に反射する。

 その音が鳴り終わる前に私は二人の足の間を通り抜け、彼らの背後に回った。 


 突然私が視界から消えたことに驚いた男たちには、一瞬の隙ができた。その隙に私はサーベルを持ち直し、後ろからニコニコ男の背中に剣先を突きつける。



「ごめんなさい。急いでいますので、ここで失礼してよろしいですか?」



 突き刺してはいないものの、私の持つサーベルの先はニコニコ男の長衣に触れている。

 男が唾を飲む音が聞こえる。

 冷たい方の男とは違い、こっちの人はどうやら随分と弱そうだ。



「…………お前、そのサーベルが使えるのか?」



 冷たい方の男は目を見開いて私の方を見つめている。

 こんなに細くてか弱そうな見た目の私が、屈強な男を気絶させ、その上男性用のサーベルを振り回しているのだから、男が驚くのも当然だ。


 確かにこのサーベルは装飾品がたくさん施されていて、武器としては少々重たい。普通の女性では長時間扱うのは難しいかもしれない。

 柄に施された琥珀色の魔石はとても美しくて、女性が好みそうではあるけれど。


 私はサーベルを冷たい男に向けて放り投げた。



「ごめんなさい。私はただ急いでただけで、悪気はなかったんです。どうか気を悪くせず、バラシュを楽しんで下さいね!」



 二人に手を軽く振って、私は大通りの方に向かって走った。

 背後で男たちが私を呼び止める声がした気がしたが、私は振り返ることはなかった。

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