第十二話


  夕暮れの公園でひとり、ブランコに揺られていた。


 さっきまで聞こえていた笑い声はもうない。

 誰もいなくなった公園でやっと回ってきた順番を、誰にも見られることなく独占していた。ほんの少しだけ地面を蹴ると、キィとブランコが小さく鳴く音が虚しかった。

 じんわりと、少しずつ伸びていく遊具の影を眺めていると、一等大きな影が私を覆う。


「何をしている」


 一番聞きなれた声に顔を上げる。

 予想通り、そこには叔父さんが立っていた。


「みんな、私と遊ぶのがつまらないんだって」


 鬼ごっこをしてもドッジボールをしても、最終的に私が勝ってしまう。

 足が速いから、力が強いから。子どもの遊びの輪の内では、全ての状況を素の力だけでひっくり返してしまう。

 やがて私のいるチームだけどんどん人を減らされて、とうとう誰からも誘われなくなった。

 叔父さんは呆れた目で見下ろして、いつもの台詞を口にした。


「お前が人間ではないからな」


 それは物心ついた時から耳にタコができるほど聞かされていた。

 人にはない身体能力、人では到達できない五感能力、人が持ちえない魔道の才能。

 どこを取っても、常人が私と並び立てるものはない。

 別にその事実を悲観的に考えたことはない。叔父さんに教えられる前から、私と他人には絶対に越えられない壁が横たわっていることは悟っていた。

 それでも、自分がヒトデナイモノとして産まれたことを恨んだことはないけれど。言い訳を重ねて自然と距離を取る人間たちがどうにも気に食わなかった。

 「バケモノ」と、冗談混じりで真実を言い当ててくる一般人たちの言葉と視線が不愉快だった。


「私、人間といたくない」


 私の思考回路は人間のソレじゃない。そんなことは人界で数年過ごせば嫌でもわかる。

 だったらいっそ、魔界に行かせてほしい。

 好きに暴れて好きに喰らう。そうして全部好き勝手して滅茶苦茶にしていくだけの命でいられるなら、それほど楽なことはないだろう。

 なのに、叔父さんはそれを許してくれない。


「どうして人間と一緒に暮さなきゃいけないの?」


 何度目かの質問。

 叔父さんは決まっていつも、「いつか分かる」とはぐらかしていた。

 今回もそうだと思ったのに。


「……もし                   、お前はどうする?」


 その時だけ、叔父さんは別の答えを聞かせてくれた。

 ううん、答えではなかった。

 でも、その問いかけはきっと私にとって重要なものの筈だった。

 なのに、なんでかな?

 どれだけ考えても、記憶のタンスをひっくり返しても。叔父さんの質問も、私がなんて答えたのかも、まるで思い出せないんだ。


 あの時叔父さんは、なんて言ったんだっけ────?




「躊躇い事かい?」


 背後から聞こえた声に我に返る。

 目の前には、空虚な椅子がポツンと佇んでいる。


「……何でもない」


 空虚な椅子に深く腰かける。椅子は見かけ通り、硬くて冷たい。

 私が腰かけるまで背後に立っていた男が、目隠しをするように手を伸ばした。


「次に目を覚ました時には、君はもう魔王だ」


 何者でもない私に彼が不安になるのなら、何者かになってしまえばいい。

 それで彼が答えを得てくれるなら、誰にも応えてもらえない私に用はない。


─────────────


 拓人、崇徳、橘の3人は無人の教会に足を踏み入れた。

 拓人はどこに何があるのか皆目検討もつかなかったが、あとの2人はまっすぐに教壇へと向かう。


「この下だな」

「わかんの!?」

「目隠し用の結界が張られているが、粗末なものだ。不慣れな魔物が人間の真似をしたに違いない」


 崇徳は教壇を片足で蹴り飛ばした。しかし、その下はまだ巨大なカーペットで覆われている。めくるには部屋の隅から角を引っ張ってくるしかない。


「面倒だな」

「じゃあここは私にお任せあれ」


 そう言いながら橘が取り出したのは、今日も美術室で使っていた粘土細工用のヘラだ。


「部長、それ刃物じゃないですよ」

「まあ見てなって!」


 橘は自身ありげにヘラに道力を通す。するとただの木製のヘラが先端の尖った結界に覆われた。

 そのまま橘が床にヘラを突き立てると、ヘラはパチリと不思議な音をたてながらもあっさりとカーペットを突き破った。そのままパチパチと音をたてながらカーペットを正方形に切り抜き、ペロリとめくる。

 かろうじて残っていた木の床を下に蹴り抜けば、さらに下から現れた地下への階段の奥へと、ガランガランと音をたてて吸い込まれるように転がり落ちていった。


「ビンゴ」


 橘は自身ありげに微笑む。

 一方結果が分かっていたのか崇徳は臆する事なく階段を降りる。続く橘に、呆気に取られていた拓人は気を取り直して2人の後ろに続く。


「部長、さっきの何」

「青魔道だよ。君が使ってるものとおんなじ」

「でも俺がやっても絶対あんな風にならない」


 魔道を物に通せることも、通すものによって効果が変動することは既に拓人も知っている。しかし、青魔道は結界系の魔道であり、あのような物理効果は本来生まない筈だ。


「単純な話だよ。青魔道の出力が君の何倍も高いんだ。青魔道は一定の出力を超えると物理的効果を発揮する。何より、アタシは青魔道の天才なのさ」

「天才ぃ?」

「アタシの魔道取得率、いくつだと思う?」


 取得率とは、人が生まれながらに持つ魔道の才能だった筈。

 基本の赤、青、黄を合わせて100%を超えないと教わったが、自ら天才を語るということは随分青魔道の才能に偏ってるということ。

 拓人の50%でも多いと聞いたことから大雑把に換算して……


「75%?」

「ブッブー」


 階段を下った一番下には脆くなった木製の扉が一枚のみ。拓人には分からなかったが、平然とドアノブに手をかけた橘の様子からして魔道は使われていない。

 橘は一瞬だけ目配せをし、扉を開けた。

 その向こうには牢獄が並ぶ空間にコウモリのような姿をした3つ目の化け物が2体。拓人は絶句する。

 化け物が飛び掛かってくる中、橘は1歩前に出た。


「正解は────」


 彼女は2本のヘラを取り出し、青魔道を流す。巨大な刃物のような結界を纏ったヘラで、迫りくる化け物を瞬きの内にバターのように切り裂いてしまった。


「100%中の95%」


 化け物だったものが、ズシャリと音を立てて崩れ落ちる。辺りに飛び散った血は、橘が張った結界にかかり、拓人達は被らなかった。

 騒動や血生臭さを感じ取ったのだろう。牢獄のあちこちから複数の気配が動き出す。


「アタシが先導します。2人は走って!」

「え!?」


 何が起きたのか状況が掴めず、突っ立ったままの拓人の首根っこを崇徳が掴んで走り出す。その先を走る橘は、襲い来る魔物たちを結界の刃物でバッサバッサと切り捨ててゆく。たまに後方に吹き飛んでくる切れ端は、崇徳が片手間に黒魔道で吹き飛ばしている。

 あまりにも生々しい光景に拓人の胃がせり上がるが、どう考えても吐いている場合ではない。喉元まで来ていたそれをグッと飲み込むと、口の中に不快な酸味が広がった。

 何よりこの状況では安定しない拓人の結界では、全ての魔物の殺気を防ぐ事は不可能だ。先ほどから、熱やしびれ等が体のあちこちを襲う。

 そこで拓人は閃いた。

 痛みで気配が分かるのであれば、ヒスイの気配も辿れるのではないか。


「部長!ストップ!」


 T字路に差し掛かったところで、一旦橘に待ったをかける。そして恐る恐る、拓人は自身の結界を解いた。

 途端、ありとあらゆる暴力を振るわれているような痛みが全身を襲った。


「んぃぃいいいいいだだだ!!!」

「何やってるんだお前は」


 呆れ顔の崇徳に構う余裕もなく、縋るようにその太い腕にしがみつく。あらゆる痛みの中からヒスイの気配を探っていると、どの痛みとも違う。覚えのある刺すような痛みが右腕に広がった。


「右だ!!」


 橘と崇徳は顔を見合わせ、躊躇いながらも拓人に従い右に曲がる。肝心の拓人は既に身体だけボロ雑巾のようだ。

 進むに連れて魔物の数は減っていき、ほとんど寄り付かなくなる頃にはいたって普通の鉄の扉があった。今回も結界は張られていない。

 慎重に橘が扉を開ける。すると今度こそ彼女も絶句した。


「ドラゴン……!?」


 闘技場を連想させる広い空間には、拓人たちの背丈の3倍は超える竜が計3体。扉が開く気配に反応して全ての個体がこちらを見ていた。


「上級の魔物……!こんなの魔道界に気づかれずに人界に呼び寄せることなんて不可能だ!ここはもう魔界です!」

「何を今更」


 魔界。

 弱肉強食で、いずれヒスイが頂点に立ちたいという世界。実感が湧かないが、目の前のドラゴン達が現実を拓人に突きつける。

 1人平然としたままの崇徳は、唸るドラゴンを見上げた。


「青桐!君の指示に従って進んだらこんなのいたんだけど!?」

「だって!こっちからヒスイの気配が……」

「グルルルルルルル……!」


 ドラゴンの1体の喉が不自然に膨らむ。何か吐き出すつもりなのかと警戒するが、次の瞬間、そのドラゴンの翼がメキョメキョと音を立てて紙クズのようにクシャクシャになった。突然翼を失った痛みによるパニックで、ドラゴンは炎を吐きながら他2体を巻き込んで暴れまわる。

 ふと拓人が見上げると、崇徳が何かを握りつぶすように拳を頭上に突き出していた。


「あれ、おっさんがやったの……?」


 翼が潰れた音が嫌に耳に残る。

 あんな風に、実の両親を殺害したのだろうか。

 嫌な想像をして、再び胃酸がせり上がった。


「俺がやろう。お前たちは先の扉に行け」


 ドラゴン達が暴れまわる向こう側に、先ほどはドラゴン達の影で見えなかったいっとう大きな扉がある。その奥から、刺すような痛みと噛まれるような感覚がした。


「行くよ、青桐!」

「え、あ、はい!」


 橘の呼びかけから現実に戻り、その背を追う。

 闘技場の真ん中を突っ切る形になるので、当然ドラゴン達の目に2人は止まる。翼を持たないドラゴンが、2人を踏みつぶそうと前足を上げる。

 しかし、振り下ろすよりも先に前足は横から飛んできた黒い玉に弾かれた。

 闘技場に舞う土煙をかき分けて、向こう側の扉にたどり着く。だが、大きな扉に橘が触れようとしたところ手を弾かれてしまう。今までとは違い、しっかりと結界が張ってあった。

 橘は扉と扉の隙間にヘラを差し込み、青魔道を通して無理やりこじ開けようとする。結界同士が擦れ合い、バチバチと激しい音が鳴り響く。


「部長、早く!」

「うるっさい!」

「だってドラゴンが!」


 まだ翼も足も潰されていないドラゴンが、大口を開けて嚙みつきにかかってくる。その時、バキンと音を立ててようやく結界が破られた。

 拓人は咄嗟に扉に体当たりをする。すると案外あっさりと開いた扉に驚く間もなく、橘と共に転がるように中へと入った。


「うぉあ!?」

「ああああ!?」

「グォルルルルル!!」


 ドラゴンが拓人たちがこじ開けた扉を、顎の力で見事にひん曲げた。あと1秒遅かったら、拓人たちもグチャグチャの遺体になっていたことは想像に容易い。

 命からがら、本当に死ぬかもしれなかった事実に少し腰が抜けた拓人を、いち早く立ちあがった橘が引っ張り上げる。


「何ぼさっとしてるの!行くよ!」


 ドラゴンはまだ諦めまいと、扉のあった隙間からアナコンダのように太くて長い舌を伸ばす。絡めとられまいと、慌てて拓人も橘に支えられながらより暗くて細い道の奥へと進む。

 崇徳とドラゴンが戦う騒音が遠のいていき、聞こえなくなった頃。2人は魔女の実験室に変えられたような、巨大な階段がそびえる古ぼけた謁見の間にたどり着いた。

 

「……ようこそ、異界の客人よ」


 階段の頂上には、巨大な氷のような石の柱に包まれた玉座がある。その玉座の前で跪いていた存在が立ち上がった。

 振り返ったその姿は、一見普通の人間にしか見えなかった。


「魔王様の目覚めを見届けにきた謁見者……というわけではなさそうだ」


 しかし、動いた口の中から覗く、全てを磨り潰すような細かい大量の歯からそれが人でない事は明らかだった。

 魔王という単語に反応してしまい、拓人は石柱で固められた玉座を見上げる。玉座よりもその上、丁度石柱の中央に蹲った少女のような影があった。

 それが誰かなど、考えるまでもなかった。


「ヒスイ!!」


 咄嗟に駆け出そうとした拓人を、橘が咄嗟に片手で制した。その様子に、魔物はつまらなさそうに口をへの字に曲げる。

 先に切り出したのは、橘だった。


「ここ数か月で頻発していた魔物の発生事件は君が原因だね。X-28」

「部長、あいつ知ってんの!?」

「ヒスイから逃げきった唯一の魔物だよ」


 Xとは、討伐対象になっていながら魔道使いから逃げきった名もない魔物の異名。目の前の魔物はその28番だ。


「そうだとも。しかし、なんだね。そのセンスのない愛称は。我にはキュリオという、魔王様から承った素晴らしき名がある」


 キュリオ、と名乗った魔物はそれはそれは残念そうに嘆いた。

 一連の様子から魔王に心酔しきっている様子が見て取れるが、肝心の魔王と思しき存在はどこにもいない。


「……じゃあキュリオ、君はヒスイを誑かしたのかい?」

「誑かした?人聞きの悪い。かの少女は、魔王様になることを志願したのだ」


 ヒスイがこんな魔物についていったのか?本当に?

 衝撃と疑念の中でわずかに生じる、会話のズレ。 


「ヒスイをどうするつもりだ」

「だから言った通りだとも。魔王様に仕立て上げる」

「”どの”、魔王様にだい?」


 橘の問いに、キュリオがにいぃ、とずっとへの字だった口を吊り上げた。


「我が魔王様は、魔界でも歴代でもっとも凶悪とされた魔王の3本の指に入る」


 その魔王は生まれながらに凶悪で、圧倒的な道力と魔道の才能を有し、目に映るもの全てを捻り潰してきたらしい。

 魔王の中でもごく僅かな魔界全域の統一を果たし、やがて三界全てを平らにするとさえ言わしめた。しかし、その野望半ばで突如現れた軍神に討たれてしまった。


「魔王様の悲願は我が悲願。しかし、魔王様なしであれば悲願すら悲願にあらず」

「……それが、ヒスイとなんの関係があるんだよ」

「この少女を触媒に魔王様を蘇らせる」


 拓人には、キュリオの言っている意味がよくわからなかった。

 しかし、隣りの橘は衝撃を受けたように息を呑んだ。


「そんなこと、理論上は不可能だ」

「そう、理論上では!不可能だった!しかし、実態する肉体、融合性を持つ道力、可変する魂!人、魔物、神全ての性質を持つ彼女だけがあらゆる存在の魂の器となりうる!」

「そんなことヒスイ本人が受け入れるわけないだろうが!」

「いいや、彼女は頷いたとも。『魔王になりたい』、と」


 血が出るんじゃないかと思うほど、拓人は強く歯ぎしりした。昨日あんな会話をしたからだ。

 ヒスイを強く揺さぶるような物言いをしてしまったことに、何度目かの後悔をする。


「我が長年研究した降霊術はもう施した。あとは魂が融合し、魔王様がお目覚めになるのを待つのみだ」


 これ以上の会話は不要とばかりに、橘はヘラを取り出した。


「青桐!アタシはキュリオを抑える!君は何が何でもヒスイを叩き起こせ!」

「はぁ!無茶言うな!」

「やらなきゃヒスイが死ぬだけだ!!!」


 ヒスイが、死ぬ。

 そうだ。これはできるできないの問題ではない。崇徳達は、拓人ならできるだろうと信じてここまで送り込んだのだ。

 ここでヒスイを助けられなければ、きっと自分は永遠に何も成せない人間になり下がる。


「我がそれをさせると思うかね?」


 キュリオは何もない空間から、真っ黒で自身の半分の背丈ほどもある鎖鎌を取り出して構えた。

 

「あれは、リアーリナスチ!?」

「ご名答」

「なんそれ?」

「高出力の魔道を圧縮して造られた兵器さ。これは我が崇拝するお方とは別の魔王の爪を擦り上げて作られた高圧な重力をもたらす鎌」


 そう言いながら、キュリオは床に鎌をひっかける。するとスライムのように持ち上がった床の切れ端が、高圧な重力を伴ったまま2人の方向に飛んできた。

 拓人は咄嗟に顔を庇い、橘は結界を纏わせたヘラで床の切れ端を弾き返す。あらぬ方向に吹き飛んだ床の切れ端は壁にぶつかった途端、衝撃波を放った。パラパラと瓦礫が崩れ落ちる壁には底の深いクレーターができている。


「部長!」

「この威力......!大魔道師に匹敵する!正直君の身を守る自信はない!」

「えっ」

「一応これだけ渡しておこう!」


 橘が投げてよこしたのは、パレットナイフだった。

 橘でもないのに、こんなもの渡されてどうしろと。

 問おうとしたときには、一瞬で移動したキュリオの鎌と、橘のヘラとが鍔迫り合いをしていた。


「人間にしては器用な真似をするじゃあないか」

「生憎、これしか取柄がないんでね!」


 重力と結界がぶつかり合う間に、もう拓人が入る余地はなかった。

 こうなってしまえば、拓人にできることは1つしかない。

 重力で地面が揺らぎ、転びそうになりながら拓人は玉座が包まれた石柱に向かって走り出した。

 人間2人が死に物狂いな一方、キュリオは不思議そうに顎をさすった。


「解せんな。道力量も魔道の才能も半端なあの少年に何ができる?」

「さぁね!強いて言うなら奇跡かな」

「奇跡!?そんな確証もないものに縋っているのか君たちは!これはお笑い種だなぁ!」

「確証はあるさ」


「だって彼はもう自分の気持ちに気づいている」



 拓人はダメもとでパレットナイフを石柱に突き立てる。しかし予想通り、傷一つ付かない。橘の真似をして青魔道を通してみるが、拓人の魔道では出力が全然足りない。ただ焦りだけが募っていく。

 この部屋に入ってから、拓人は自身に結界を張っていなかった。感じるのはキュリオの恍惚とした気持ち悪い熱。そして、少しずつ和らいでいく刺すような痛み。

 ヒスイは今、怒っている。怒っているのに、その怒りが遠のくようにどんどん弱っていく。決して怒りが収まっている訳ではない。きっと怒ることもできないほどに、ヒスイの自我が遠のいているのだ。

 ここまで、拓人がヒスイを追い込んでしまった。


「ごめん」


 パレットナイフを放り投げて、石柱に振れる。


「ごめん」


 謝りたいのに、言葉が届いているのかすらわからない。

 自分の気持ちに気づくのが遅れたせいで、いらないことを言って不安にさせた。

 本当は神とか魔王とか、魔道使いとか番とかなんて、どうでもよかったのに。

 ただいつも通り隣で笑ってくれるなら、立場なんてなんでも良かったのに。

 祈るように、石柱に額を擦り付けた。見た目通りの、氷のような冷たさが頭を冷やすだけだ。


「もう一度笑ってよ」


 石柱に向かって、1人で魔物と戦った時のように魂を伸ばす。流すのは隔てる青魔道ではなく、繋げて癒す黄魔道を。

 言葉が石の壁で通じないのなら、隔てるものなどすり抜ける魂で呼びかける。


《噓つき!!!!!!》


 つんざくような悲鳴と水流に、吹き飛びそうになった。

 そこはいつの間にか古ぼけた玉座ではなく、水で満たされた神秘的な城内になっていた。魂で触れようとした結果、ヒスイの神域に侵入したのだ。目の前には、オールディが開けなかった巨大な扉がある。

 前回と違うのは、扉が全開になり、そこから激流が流れている点だ。

 水流でぶれる視界の中、扉の奥に目を凝らす。真新しくてピカピカの、ヒスイにぴったりな玉座の上で真っ黒な影が蹲っていた。

 心の距離が一気に近づき、グッと刺す痛みがぶり返す。貫かれているんじゃないかと思うほどの痛みに、うめき声が漏れる。それでも吹き飛ばされまいと、笑いそうになる膝で拓人は立ち上がった。


《本当は、怖いくせに!》

《怖いから!遠ざけて、はれ物みたいに扱って!》

《傷つきたくないからと、私にわき目も振らず逃げていく!》

《だって貴方は無力な人間で、私は何物でもないバケモノだから》

《何者かもわからない私を怖がるから》


《最後には結局、独りぼっちだ》


 頭に流れ込んでくる弱々しい言葉に、拓人は唇を噛みしめた。

 それは触れてようやく分かった、ヒスイの魂の叫びだ。

 拓人が真っ先に気づくべきだった、ヒスイ本人すら気づいていなかった心の傷だ。


「ごめん」


 目から溢れる涙も拭わず、手(たましい)を伸ばした。


「独りにしてごめん」


 一歩踏み出せば、脚に血が滲んだ。

 骨までやられたんじゃないかと頭の片隅で考えながら、それでも反対の脚も前に進める。


《近づくな!!》


 耳が割けるような金切り声に混じって、震えた声で彼女は叫んだ。

 進むほどに痛みが増す。激流も強くなる。

 ヒスイが俺を拒絶してる。


《どうせ最後にはいなくなるなら、私はもう独りでいい!!!》


 前に進める足が痛い。ヒスイに伸ばす手が痛い。

 何より、この想いを自覚した心が痛い。


「それでも、俺は一緒にいたいよ」


 頬に痛みが走り、血が滲む。

 ヒスイが伏せている隙に、伸ばす方とは反対の手で頬とみっともない顔を拭う。


《……噓つき》


「嘘じゃない」


「今は信じてもらえないかもしれない」

「ヒスイと人間の俺じゃあ歩幅が違うから、離れて見えるかも」

「でも、追い付くから。振り回されても、距離を置かれても、傷つけられても」


 激流が徐々に弱まってゆく。

 水に混じり、滲む血液を纏いながら、体だけ不自然に傷だらけの拓人はゆっくりとヒスイの元に歩み寄る。

 たとえヒスイが何物でも、何物でもなくても関係ない。



 魂が傷ついても、傍にいたいと思った。



「好きだよ。ヒスイ」


 真っ黒な影を纏ったヒスイの手を取った時。

 水の流れが止み、初めてヒスイの泣き顔を見れた。 

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