第十話


「……ダメだ」


 どれだけ机に向かおうとしても勉強が手につかない。頭が別のことを考える。

 原因は明白。昨日の一件だ。

 結局昨日はあれっきり、ヒスイと会うことはなかった。ついでにオールディらしき人物も探してみたが、結局見つけ出すことはできなかった。

 あの神域での出来事はやはり夢だったのではないか?

 何度もその可能性を考えたものの、ヒスイの強張った表情がそれを否定した。


《最後には私を置き去りにするんだ》


「置き去りにされたことがあるのか?」


 ここは一番ヒスイを知っていそうな人物に聞くのが最適だが……真っ先に思い浮かんだ男は捻くれた返答しか期待できない。

 そこで拓人の知る限りでその次に詳しそうな人物に電話をかけた。

 耳元で6回コールが鳴り、諦めかけた時に通話が繋がった。


「もしもし」

『もしもし?まったくなんの用だい?』


 電話に出た進の声はいつにも増して苛立っていた。

 おまけに背後からパトカーのサイレンらしき音が聞こえる。


「えーっと……なんかあった?」

『総道師様のせいで警察が呼ばれたんだよ』

「えっ……」


 総道師+警察という方程式から導き出されるのは最悪なアンサーだ。魔道界隈の治安が総崩れ待ったなしである。


「なあ、魔道界隈ってヤバい奴しかいないの?」

『はあ?ヤバい人しかいないのは認めるけど、何か勘違いしてないか?総道師様は呼んだ側だぞ』


 呼んだ側の意味がよくわからず、拓人は意味のない唸り声を上げた。


『それで?僕に用があるんだろう?手短に頼むよ』

「あ、ああ。ヒスイってさ……誰かに置き去りにされたこととかってあんの?」

『それ僕に聞く?寧ろ僕の方が毎回ヒスイに置き去りにされてるんだけど』


 それもそうだ。

 初めて会った頃から、進はヒスイの背中を必死に追いかけてた。言葉にすると感動的な響きだが、実態は哀れなものだ。


『ヒスイの事は崇徳さんに聞きなよ。僕よりよっぽど知ってるさ』

「あのおっさんがまともな答え返すと思うか?」

『……たしかに、無理だね』

「だからお前に聞いたんだよ。やっぱ何も知らなかったけど」

『何も知らなくて悪かったね。要件はそれだ……あ、え!?総道師様!?ちょ、ああ────っっっ!!!』

「進?おい、進!?」


 拓人の呼びかけも空しく、通話の切れる音がして会話は終わってしまった。

 何かとんでもない事が起きていそうだが、むやみに首を突っ込むほど拓人も馬鹿じゃない。質問したいことはしたのでよしとする。


「……勉強するか」


 嫌々ながらも座り直し、目の前の課題を片付けるためにシャーペンを持った。

 その時、後頭部にチリチリと焼けるような感触がした。


「!?」


 慌てて手を当てるが、もちろん焼けた痕跡はない。6月も中旬に入った今は暖房も付けていない。

 それでも、気のせいで片づけられないくらいに似た経験をしすぎていた。

 パッと部屋を見渡した限りでは隠れられるような場所はクローゼット以外にどこにもない。

 不審者?それなら家族に助けを求めればいい。だが、拓人の中で熱とは生存本能にも直結するものだ。例えばそう、食欲────


 (……ダメだ)


 迷った末に、右手にシャーペンを逆手に持つ。気持ち道力をシャーペンに流して、ないよりマシ程度の即興武器の完成だ。音を立てないようにゆっくりとクローゼットに近づいて、左手を手すりにかける。

 小さく唾を飲み込んで、一気に戸を引き開けた。


「っ!?」


 開けると同時に振り下ろしかけた右手は途中で止まった。戸に引っかかったハンガーがカラカラと音をたてた。

 中は服やラジカセだけしか入っておらず、生物の気配はない。


「……はぁ」


 知らずに詰めていた息を吐き出す。やはり気のせいだったのかもしれない。

 ……それでも逸る心は未だに落ち着かず、何気なしにカーテンを開ける。

 夜の暗がりの中、何かがキラリと光った気がして凝視する。次の瞬間、今までの比にならないくらいの熱で左目を焼かれた。


「あッッづぅ!!!……ヴぁ……!!」


 痛い。痛い。熱い、熱い!熱い!!

 左目が熱い。咄嗟に目を抑えた左手が熱い。目からあふれるよくわからない液体が熱い。

 過呼吸になったように喉が引きつる。心臓が内側から体を叩く。

 怖い。怖い。何が起きたのか分からなくてとにかく怖い。一向に回らない頭は恐怖に支配されながら、今しなければならない事を一つだけ導き出した。


「逃げなきゃ……!!」


 自分に言い聞かせるように絞り出した声は、情けない程に震えていた。

 いまだに握っていたシャーペンはその場に捨てて、机の上にあったスマホを手に取り、ズボンのポケットに突っ込む。

 震える足を無理やり立たせ、もつれそうになりながら階段を降りた。


「ちょっと?どこ行くの?」

「公園!」

「また!?こら、待ちなさい!タク!」


 呼び止める母に縋りたい気持ちをグッと堪え、靴の踵を踏みながら家を飛び出した。

 走りながらスマホを取り出し、震える両手で必死に操作する。

 その背後で、布のはためく音がする。 

 祈りながら通話ボタンを押し、スマホを耳に当てる。3コール目でやっと相手は通話に出た。


『……何?』


 昨日から顔を会わせていなかったヒスイの返事はぶっきらぼうだった。

 しかし、その素っ気ない態度を気にしている余裕はない。


「助けてくれ!たぶん魔物に追われてる!!」

『……今どこ?』

「わかんな────」


《エサ》


 ふいに背後から聞こえてきた声と共に、刃物のような何かが飛んできて拓人の右手の甲に刺さった。


「い゛ッ!!」


 痛みのあまり、スマホを取り落としてしまう。通話の途中だったが、背後の存在を考えるととても取りに行っている余裕なんてない。

 

 (ヒスイなら、ヒスイなら来てくれる……!!)


 微かな希望に縋りながら、血で濡れた右手を左手で抑える。刺さった筈の凶器は道力でできていたのかいつの間にか消えていた。

 今拓人にできることは、ヒスイが来てくれるまでやり過ごすことだけだ。

 拓人にできる事は少ない。魔道の修行もあれから続けているとはいえ、先ほどのように凶器を投げられてしまえば青魔道で防御することも、黄魔道で治療することもできない。

 拓人にできるのは、せいぜいほんの少しだけ殺気を早く感じ取ることだけ。


《エサ》


 我武者羅に走って、気づけばいつぞやヒスイと共に踊った公園に来ていた。遮蔽物は特にない。隠れてやりすごすには最悪の場所だ。

 こうなってしまえば、もう正面から迎え撃つしかない。


『感情とはすなわち、魂の発露』


 ふと、先日のマキナとの会話が頭をよぎった。

 殺意も、感情の内。すなわち、殺意も、魂の一部。

 

《エサ》


 ずっと背後から聞こえていた声が、今までで一番近くで聞こえた。

 振り返ると、外套に包まれたピエロがケタケタと笑いながら立っていた。陶器のような質感の顔が、ぐにゃりと皮膚のように歪む。


《エサ、エサ、》

「……!!」


《エサエサエサエサエサエサエサエサエサエサエサエサエサエサエサエサエサエサエサエサエサエサエサエサエサエサエサエサエサエサエサエサエサエサエサエサ!!》


 笑うように同じ単語を繰り返す魔物に背筋が凍る。グリグリと上下左右に動く首がより不気味さを際立たせる。

 痛む左目から手を離す。勝負は一瞬。絶対に掴む気持ちで、それを悟らせないように両腕を広げた。


「来いよ化け物」


 グリグリと動いていたピエロの首が止まる。時間にしてわずか数秒だった。

 まず先に首が焼けたように熱くなった。泣き叫んではがしたくなるのを根性で堪え、両手である筈のない熱の”根源”を「掴んだ」。


『つまり、俺にぶつかってくるのは感情だと思ってたけど、正確にはその人の魂?』


 感情が魂の一部であるのであれば。

 魂を触覚で感じられるのであれば。

 感情として肉体から漏れ出した魂を掴めない道理はない。


「う、あ、あああああああああああああぁぁぁ!!!」


 手に掴んだ何かは急速に熱を失い、それをいいことに拓人は振り回すように引っ張り上げ、そして地面に叩きつけた。

 すると拓人の掴んだ何かに引っ張られるようにピエロは宙に浮かび、地面に叩きつけられた。パキ、と何かが割れる音がする。


「で、できた……」


 まさか本当に上手くいくとは思っていなかった。自分の触覚でこんな事ができるなんて、マキナとの会話がなければ考えもしなかった。


《ァ……ヒ……》


 ピエロのうめき声に我に返る。

 己の知覚に関心している場合ではない。

 拓人は魔道によって新しい刃物が作られていたのを、ピエロの手を踏んで邪魔をする。そしてもがくピエロに馬乗りになって、ヒビの入った陶器のような顔面をひたすら道力をまとった拳で殴りつけた。

 過剰防衛だとか、右手の傷はもう気にしている余裕はなかった。道力の制御がままならず、今拳から放出している魔道が何色なのかもあやふやだ。

 殺さなければ殺される。そんな極限状態でアドレナリンが溢れだし、冷静な判断はとうにできる状態ではなかった。


「死ね!死ね!!」


「そいつは殴っても死なないよ。仮面を割るんだ」


 突如拓人は襟足を掴まれ、ピエロから引きはがされる。

 何が起きたか分からずもがいていると、突如ピエロが倒れた左右の地面が半円を描くようにせりあがった。そしてそのまま、地面同士が重なるように閉じた。中心にいたピエロは潰され、地面の中からバキバキと何かが割れる音がする。

 せりあがった地面が元に戻ると、ピエロだったものは黒いシミになっていた。


「え……」

「わかったかい?」


 問いかけに顔を上げて、拓人は驚いた。

 拓人をピエロから引きはがしたのは、肌も着物も真っ白な麗人だった。

 最初は男かと思ったが、着物は女性の着付け方をしている。かといって女形かと問われると困るくらいにその顔立ちは中性的なものだ。本当の性別は着物特融のボディラインを隠す着こなしのせいで真偽は不明だ。


「最近魔物が人界に増えていたのは聞いたけど、ここまで低級のものまでいるとは想定していなかった……君、噂のヒスイのお気に入りだろう?聞いていた以上に弱いね」

「……素人同然なんだから仕方ないだろ」


 白い魔道使いの言葉は、ハプニングによってささくれ立った拓人の心にぐさりと刺さった。つい口から出た言葉は拗ねた子供のようなとげとげしさがあった。

 魔道使いは拓人の言葉など意に介さず、懐からスマホを取り出して黒いシミを撮影する。


「誰だよお前」

「僕はセツ。叶 雪(カノウ セツ)」


 雪と名乗った魔道使いは、そこでようやくまともに拓人の姿を見た。


「小汚いね。随分と無様だ」

「うるせっ……たァ……!」


 アドレナリンが切れたのか、思い出したように痛みがぶり返す。焼けた左眼はジクジクと痛み、ナイフが刺さった右手の甲は魔物を殴ったせいで出血が止まらない。

 痛みに耐えようとうずくまる拓人の姿に、雪は呆れてため息を吐いた。

 どうにも気を逆撫でするような態度がカンに障り、拓人は頭を上げようとした。が、その頭を押さえつけるように上から雪が手を置いた。

 すると、みるみるうちに眼や右手の痛みが引いていく。黄魔道で癒してくれたようだ。


「あ、あんがと……」

「僕でも治せる軽傷で騒ぎすぎだ。ヒスイへの借りにもならない」


 眼が焼けたのだ。拓人にとっては十分大事なのだが、雪は吐き捨てるように拓人の礼を無下にした。


「……アンタ、ヒスイの知り合い?」

「……彼女は僕の事を知らないだろうね」


 意外な返答に、拓人の中で雪に対する警戒心が大きくなる。ヒスイの話ばかりするので、てっきり彼女の知り合いかと思った。

 傷を癒してくれたので危害を加えるつもりはないだろうが、相変わらず不審な人物であることには変わりない。


「じゃあお前は一体何なんだ?何をしに来た!?」

「何を?勿論、君だよ。青桐拓人。ヒスイが選んだ人間がどんなものか、一目見に来た。そうでなければ助けなどするものか」

「……はぁ?」


 拓人自身に興味を持たれているのは意外だったが、肝心の興味は期待色ではない。

 どうにも先ほどから、雪の言葉には棘が含まれている。魔道を使う気力もないため、チクチクと細い針でつつかれるような痛みが体のあちこちから感じる。


「もしかしてなんだけど、ヒスイが俺を選んだことが……不満?」

「当然さ」


 正面から断言され、拓人はたじろいだ。

 今までの周囲の反応は「ヒスイが選んだのなら仕方がない」と、あくまでもヒスイの意見は尊重されていた。


「彼女はいずれ魔王になる」


 突拍子のないことを言い出した雪に、拓人は狐につままれた顔になった。


「魔物が巣食う魔界は弱肉強食の世界。数多の魔物の頂点に立ったものは魔物の王、魔王と呼ばれる」

「ヒスイは魔物じゃない」

「魔王に血筋は関係ない。魔物を従えられるなら、半魔物(アールヴ)だろうと人間だろうと関係ない。少なくとも僕は、ね」


 拓人に振り向いた雪の髪が風になびく。髪の奥にあった耳は、人間ではあり得ない尖り方をしていた。


「おま、え、人じゃ……!」

「人間よりも魔物の方が魔道を使う才能に秀でている。人間では使えない黒魔道の才能もあれば、道力貯蔵量も多い。その才能目当てに非合法に捉えた魔物と媾って子を成す魔道使いも少なくない」


 おぞましい。

 今まで伝聞でしか得なかった知識から、現実味がなかった。だから、きっと自分はそういった偏見がないのだろうと拓人は勝手に思い込んでいた。

 違った。実際に被害者である半魔物本人と、本人の口から淡々と語られる魔道使いの一線を越えた行いに、初めて現実を突きつけられて「おぞましい」と心の底から思ってしまった。


「その目だ」


 雪は嫌悪の眼差しで拓人を見下した。


「個の数が勝るというだけで他者を異端として無意識に見下している。群衆という弱者でありながら真に秀でた者を食い潰す。同じ知性体であるにも関わらず!」

「み、見下してなんか……」

「いるんだ!君だけじゃない。誰もかれもが無意識化で異端な者を見下している!何故、人間は肌の色が違うだけで差別が起きる!?魔道使いは食人を禁忌とするのに、魔物食らいの罪は軽いのだ!?」


 声を張り上げた雪は、急に静まり返って天を見上げた。


「そんな莫迦げた世界を、ヒスイが変える」


 風が木々を通り過ぎる音が、やけに大きく反響した。


「彼女は人でも魔物でも、神でもない。何物でもない彼女が武力で世界を制した時、三界に革命が起きる。そんな折、彼女の隣に君のような弱者が居られるのは邪魔なだけだ」

「そ、そんなの知らねぇよ!それに、選んだのは俺じゃない。ヒスイが俺を選んだんだ!」

「傲慢な思考だな。選ばれたからと言い訳をして、切り離される可能性を微塵も考慮していない……いや、いずれ君自身がヒスイを切り離す」


《最後には私を置き去りにするんだ》


 雪の言葉に、あの神域で聞いた言葉が拓人の脳裏に蘇った。


「切り離す、って……俺にはそんなこと」

「できない。そう思ってるだろう?だが、それは動きようのない現状に甘んじてるだけだ。君がもし、ヒスイから離れる手段を手にしたら……君は間違いなくヒスイから距離を取る」

 咄嗟に雪に反対する言葉が出なかった。

 もし今の拓人にヒスイから距離を置く手段があったとして、その手段を使わないと断言できる自信がなかった。

 言葉を詰まらせた拓人に、雪は呆れたように肩をすくめた。


「そんな中途半端な覚悟でヒスイの傍にいてもらっては困るんだ。彼女はいずれ世界を動かす魔王になる。魔王にはそれに相応しい強者が隣に立つべきだ」

「魔王魔王って……ヒスイがそんなの望んでるかは分かんねぇだろ!」

「わかるさ。魔王はヒスイ自身の夢だ」

「……は?」


 思ってもいない一言に拓人の思考が停止する。

 ついに雪は踵を返して、公園の出口に向かう。


「忠告はさせてもらった。次に会うときは相応の対応をさせてもらおう」

「……お前は!一体なんなんだ!」


 どうにか絞りだしたのは、根本的な疑問だった。

 拓人を助けたと思えば、弱者呼ばわりをする。かと思えばヒスイが魔王になる、拓人は邪魔だと言い切れば、それを忠告だと言い張った。

 半魔物を自称しているが、それすら本当か怪しい存在だった。


「僕は雪。弱き者が淘汰された夢の世界を、ヒスイの託した魔道使いさ」


 雪は振り返ることなく告げた。

 結局謎と疑念しか残さなかった魔道使いと入れ替わるように、今頃ヒスイが公園に一瞬で駆け付けた。


「拓人!」


 息を切らしたヒスイが拓人に近寄ったかと思えば、体のあちこちを掴んだり裏返したりして確認する。やがて汚れてるだけであることを知った彼女は、ホッとした様子で拓人を解放した。

 しかし、つい先ほどまで命を狙われ、険吞な会話をしていた拓人にはヒスイが安堵する様子すらどうにも気に障ってしまった。


「いや、おせぇよ」

「しょうがないじゃん、拓人どこにいるか教えてくれなかったんだもん。先にスマホ見つけた私の気持ちにもなってよね。食べられてやしないか心配になったじゃん」


 はい、と手渡されたのは間違いなく拓人のスマホだ。ただし、液晶は怪我をした際の血が飛び、落とした衝撃で角から蜘蛛の巣のようにヒビが伸びていた。


「ん?じゃあこの血拓人のじゃない?」

「俺のだよ……ああ、雪って魔道使いが魔物を倒したよ!そいつが傷も治してくれた!」

「……誰それ」


 魔物に怪我を負わされたと知り、改めて怒りを露にするヒスイをどうにか宥める。


「俺が知りてぇよ……半魔物の魔道使いだって」

「ふぅん」


 自分から聞いてきたくせに、ヒスイはほとんど興味がなさそうだ。雪と直接関わりがないというのは、どうやら本当らしい。

 だが、拓人はそれだけで終わらせるつもりは毛頭なかった。


「そいつが言ってたんだけど……お前、魔王になるのが夢だって」

「?そうだけど」


 ガツン。

 さも当然とばかりに頷いたヒスイに、鈍器で殴られたような衝撃が頭から全身に走った。まるで裏切られたような心地に、くわんと眩暈がする。


「お、まえ……なんで……?」

「なんで?うーん……性に合ってるから?」


 予想以上にふんわりとした回答に、また拓人の中で愕然とともに動揺が押し寄せる。

 今までヒスイの言っている事が理解できたことは少ないが、それでも今ほど理解できなかったことはない。

 この苛立ちにも似た感情に従い、拓人は声を張り上げた。


「お前は!人として生きてるんじゃないのかよ!?」


 流石に拓人の様子がおかしいことに気が付いたのだろう。だが、何に苛立っているのかは分からないのか、首を傾げてこう答えた。


「いやぁ……別に」


 ついに拓人は言葉を失った。


「人としてっていうか、人界で生活してるのは叔父さんがここにいたがるから。別に私は魔道界……は嫌だな。魔界。そう、魔界で生きたい。好きに暴れて好きに死んでく。そういうのにあこがれてる」


 納得したように頷くヒスイの言葉は頭に入らない。ただどうしようもなく、裏切られたような感覚が拭えない。

 震えた膝に力を入れて、衝動のままにヒスイに掴みかかった。体勢的に縋るような形になってしまったが、拓人より細い体格であるはずのヒスイはビクともしなかった。

 それが何故かまた無性に拓人の心を掻き立て、唾が飛ぶ距離でヒスイに怒鳴りつけた。


「俺のことは!どうでもいいのかよ!!」

「はぁ?そんなこと言ってないじゃん!!」

「言ってるも同然だろうが!!俺は!魔界なんかで生きれないし、生きてくつもりもない!!」


 種族の違い、想像もつかない環境、確実に異なる文化。

 人界ですら他人の感情に振り回される毎日だというのに、そんな場所で拓人が生きていく覚悟はない。


「別に私の隣にいればいいじゃん!番なんだし!」

「番ツガイって、言葉覚えた子供みたいに繰り返しやがって……!!好きな奴の事なんだから、もう少し俺の気持ちも考えろ!!」

「好き!?何言ってんの!?」

「おま、この期に及んでいい加減にしろよ!?お前があの日俺に告白してきたんだろうが!!LOVE!!好きなんだろ!!?」

「いや、別に……」


 ヒスイが何をいっているのか分からない。

 ただ、何故か困惑した様子のヒスイに、拓人の苛立ちに似た感情も萎んでいく。


「だって、お前……俺に言っただろ。番になってって」

「言ったよ。そうすれば私のものにしておける」

「番ってそういうもんじゃねぇだろ……!!その前に好きとか、もっと別の感情があるだろ!!」

「あるよ。拓人を一目見て傍に置いておくって決めた。大体、番って別に『好き』って感情がなくてもなれるものでしょう?」


 つまり何か。

 勝手に好かれてるつもりになっていたのは自身だけということか。

 これではまるで滑稽な道化ではないか。

 複雑な感情が押し込まれて破裂しそうになっていた心が、口の開いた風船のように中身が抜けてしぼんでいく。


「…………もういい」


 ゴミのカスほど残った心の残骸で呟いた。

 禅問答でもしている気分だった。

 少なくとも、これ以上会話をしたところで介入できるものもいない現状では平行線を辿るしかない。

 ずっと掴みかかっていたヒスイから手を離し、ズルズルとその場にしゃがみ込んだ。


「もういいって、なに」

「やっぱさ、違うんだよ。ただの人間の俺と……何者なのかも分からないお前とじゃ」


 それ以上はやめておけ。きっと彼女を傷つける。

 直感による警鐘が頭の中に鳴り響いたが、理不尽に傷つけられた心が耳をふさいだ。

 だって、俺はこんなにも傷ついてる。彼女に裏切られた気持ちを植え付けられた。


 なら、俺にだって彼女を傷つける権利がないのは不条理じゃないか。


「ヒスイ・レイノルズ……人でも魔物でも神でもない。お前は一体、何者なんだ?」


 ヒスイが目を見開いて肩をすくめる。どう見ても動揺している顔だ。

 誰もがヒスイは人ではないという。本人は魔物の血が混ざったと言っていた。では何故完全な人の形をしている?何故神域を持っていた?

 その謎に、どうしてヒスイは答えられないのか?


 ──答えられない、きっとそれが『答え』だからだ。


「……わからない。ねぇ拓人、どうしたの?私──」

「謝らなくていい。どうしても許せない俺の心がどうしても言いたくなっただけだ。だから、これでおあいこ」


 迷いながらも差し伸べられた手を、拓人は構わず払いのけた。


「いつか一緒に魔界に行く覚悟があるのか、”ヒスイ・レイノルズ”は何者なのか……お互い答えを得てからもう一度話し合おう。それまでは距離を置くべきだ」


 俯きながら絞り出した声は掠れていた。

 やがて、拓人の傍から1人分の気配が去っていく。

 ついに誰もいなくなった頃、どうしようもないやるせなさに拓人はその場でうずくまることしかできなかった。

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