第七話
「知りたい……こと」
「そう。私を訪ねて来たってことはそういうことだろう?」
フフン、と橘は自慢げに微笑む。
拓人としては、尋ねた結果知りたいことが増えた状態だが。
「知りたいっていうか、確認?美術部の部長が代々魔道使いだって、崇徳っておっさんが……」
ガタガタッ ドサドサッ
動き回る棚の壁の向こうから、椅子や本が転がる音がした。
既視感のある反応に拓人は口をへの字に曲げ、橘は苦笑いした。
「人によってはヒスイ以上に崇徳さんは厄ネタなんだ。特に上の年代の魔道使いの間では、ね」
「確かにあのおっさん怖いけど……何かヤバい事でもした?」
「ヤバい……えー…………」
今までどこか演技がかった口調でペラペラと話していた橘が言い淀む。顎に手を当て、「これ言っていいのかな?」とボソッと呟く始末だ。
正直、あの男が人を殺していたとしても拓人は驚かない。あの顔は確実に恐ろしい事をしでかしたものだと、信じている。
「やっぱり怖くて言えないや……興味あるなら本人に聞いてみたら?仲いいみたいだし」
「仲良くねぇけど」
「いやいやいや。普通はあの人をおっさん呼ばわりできないからね?」
「試しに言ったら何も言われなかったし……」
あれは拓人なりの一種の虚勢だ。
拓人の体質と本能が告げる。あれはヒスイと同類で、ただの人間ではない。しかし、この体質をどうにかするには崇徳に近づくしかない。そのためには、彼を少しでも人間みのある存在だと信じ込まなければやっていられない。だから、あえて失礼な「おっさん」呼ばわりをして崇徳との距離を測っている。
崇徳も恐らく拓人の意図には気づいている。嫌だとしたら態度で表すだろうから、許されている筈ではある。カウント制であれば詰みだが。
「君は平気でも、周りの心臓が持たないから。兎も角、崇徳さんの名前を出すときはできるだけ小声でお願い」
橘の頼みに、拓人も小さく頷いた。拓人とて、わざわざ周囲から距離を置かれたいわけではない。
「ここも学校の一部だって言ったよな?校長も知ってるって。つまり校長も魔道使い?」
「半分正解。そもそも、この学校は偉大なる魔道使いが設立したのさ」
橘は上の階から降りてきた棚に近づき、迷わず一冊の本を取り出した。そして本のあるページを見開きにした状態で拓人に手渡す。
ここ、と橘が指をさすところに、振多高等学校という文字がデカデカと載っていた。表紙側のページだけひっくり返して見ると、「魔道進路案内─ハイスクール編─」とプリントされている。見やすさと事務的な印象が意識されたレイアウトには、丁度1年前にも拓人の脳が拒絶するほど見返した本と似ている。
「俺、ここが魔道使いの学校だって知らずに入学したんだけど」
「表向きはただの公立高校だよ。初代理事長であるフルタ様が『世間との交流を持てる、魔道使いのためのハイスクールを』という理念の為に設立したのが始まりさ。そんなわけで、この学校にはとりわけ他の学校より魔道使いが多いんだ」
もちろん、一般的な高校に身分を隠して通っている魔道使いもいるけどね。と、橘は付け足す。
「そんなにこの学校、特別なのか」
「うーん……特別といえば特別かな。教員にも何名か魔道使いはいるし、学校のトップが事情を把握しているから、経歴を詐称したりすることなく魔道使いが入学できる点は好まれている。あとは”お上”と繋がってもいるから、諸事情で強制的に入学させられる人もいるよ」
「強制的入学……あぁ」
「そう、君がよく知る”あの子”とか」
そこでふと、思い出す。
元をたどれば魔道を教わる条件を突き出してきたのはヒスイ本人だ。
だが、ここを利用することができれば、わざわざ崇徳から教わる必要はない。
「ここって俺も利用していいんですか?」
「ダメかな」
「なんで!?」
「魔道関係の話だから連れてきたけど、君はまだ正式な魔道使いじゃないよね?一応魔道使いって世界でも通じる役職だから、ちゃんと登録とかしないと関連する施設は使えないんだよ」
「じゃあその登録は!?」
「魔道師クラスの権限を持つ人の紹介がないとできないよ」
拓人は膝から崩れ落ちた。
もちろん、アタシにも崇徳さんにもその権限はないよという追撃に益々へこむ。
登録していないのに監視対象になっているのもおかしな話だ。
拓人は項垂れながら、仕方なく立ち上がる。その後頭部に、チリチリ覚えのある痛みが奔った。
「……殺気!」
危ない!
橘に呼びかけようとしたものの、拓人は先にうつ伏せに押し倒された。かろうじて頭は打たなかったものの、腹に覚えのある感触が巻きついている。
ハッと拓人が頭を上げれば、ヒスイの肉食獣のような爪と橘の美術道具の木製のヘラがチリチリと音を立ててぶつかり合っている。
「やあやあヒスイ・レイノルズ。どうして図書室に乱闘禁止という注意事項がないか知っているかい?人間のあいだでは常識過ぎて改めて言う必要がないからだよ」
「人のモノに無断で手ぇ出してぬけぬけと語ってんなよ、このクズども」
橘の持つヘラは、何やら青いオーラをまとっている。それは以前崇徳が実演して見せた青魔道による結界に近かったが、あれよりもハッキリと発色し、大気との境界もくっきりとしている。
やがて橘はヒスイを受け流し、本棚も机もない廊下に転がす。引っ張られて拓人も床に転がった。
ヒスイはすぐさま体勢を整え、爬虫類のような眼で橘を睨みつけたまま拓人に問う。
「拓人、どうしてここに来たの?」
「どうしてって、そりゃ魔道のことが知れるから……」
「だから、それは叔父さんに教わればいいでしょ!私に何も言わずここに来る必要ないじゃん!」
カチン
拓人の顔に向かってがなるヒスイに、拓人のなかの何かのゲージが突き抜けた。
ヒスイの異形の形に耐えきれず、破けて無残な姿になったカッターシャツに掴みかかる。
それは今までの不安を伴った怒りではなく、単純なストレスの爆発だった。
「言うも何も、てめぇから勝手に距離置いたんだろうが!自分から姿消していて、理由も告げずに勝手なことばっか言ってんじゃねぇぞ!」
「だって!それは……」
「だってもクソもねぇ!俺に嫌われたくないんなら、せめてちっとは好かれる努力をしろ!!」
珍しくまくしたてる拓人に、ヒスイは勢いをなくしてざわついていた頭髪はみるみる萎れていく。拓人の腹に巻きついた尻尾は拘束をほどき、人間として逸脱した鱗のような顔は色を失って白い柔肌に戻った。
突然しおらしくなったヒスイに、拓人も流石にこれ以上は言い淀む。しかし、元を辿れば全てヒスイの身勝手な暴走から来た口喧嘩だ。何故ヒスイだけ傷ついた顔をしているのか。そもそも傷つくという概念があったのか。
拓人がモヤモヤと心のわだかまりと格闘していると、その場を裂くような一拍の拍手が響いた。音の先には、呆れた顔の橘が手を合わせていた。
「痴話喧嘩はそこまでにして……一旦話し合おうか」
乱闘騒ぎで周囲が距離を取りながら野次馬をしている円の中、ドタバタと既視感を覚える慌ただしさが近づいてくる。
いつも通り大きな本を小脇に抱えた進が、荒い呼吸でこちらに詰め寄った。
「ヒスイ!……」
いつもなら文句が続く口はポカンと開いたまま静止した。
「おや」
進の視線の先には、口ぶりとは裏腹に知っていたような顔で微笑む橘が立っている。
そんな彼女に、進は気まずそうに視線を逸らした。
「……姉さん」
「久しぶりだね。進」
「姉さん!?」
静まり返った図書館に、拓人の叫びがこだました。
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振多高校の美術部員……もとい、魔道部員が図書室の一角を遠巻きに眺めている。
机の片隅に座るのは美術部、兼魔道部部長とその弟。そして界隈の地雷とも呼べる少女と、少女が唯一執着する同じ年の少年だ。
彼らは苛立ちや困惑など様々な思惑を抱いていたが、唯一部長の橘だけが呆れを滲ませている。
そんな中、最初に口を開いたのは哀れな巻き込まれ少年、拓人だった。
「えっと、2人は兄弟……?」
「れっきとした家族だよ。苗字は違うけど」
「誤解を生むような発言をするんじゃないよ。”栗原 進”も”橘 美晴”も偽名なんだ。魔道使いではよくあることで、正式な戸籍はちゃんと姉弟だよ。血も繋がってる」
予想外の情報に拓人は眼を丸くする。せめて姉弟で苗字くらい揃えれば良いものを、何故偽名を使ってまでこの学校にいるのだろうか。よほどこの学校で学ぶべき事でもあるのか?
そこで、隣でふてくされている少女を見る。ヒスイは完全にそっぽを向いて、目が合うことはない。
「”ヒスイ・レイノルズ”は本名だよ。彼女は本名を明かすことを契約に日常を送っているからね」
契約というのはよくわからないが、相手は何度も彼らの会話に出てきた”お上”の魔道使いだろう。こんなのが道端をほっつき歩いているんだ。当然と言えば当然だが、名前というのは拓人が想像しているより魔道において重要なのかもしれない。
もしかしたら、崇徳も偽名なのだろうか?苗字は……何を名乗っていたか忘れてしまったが。
そして契約という単語が出た瞬間、拓人の隣の気温が急激に変化した。煮えたぎるような暑さになったかと思えば、もの悲しい冬のような寒さにまで落ち込む。そのうち水蒸気でも発生しそうだ。
「便利だよねぇ~~本名を捧げた契約。違反にした時の罰が名前の有無で大違いなんだから」
ヒスイの言葉にはチクチクと棘が含まれている。やることなすこと本能のままといった彼女には、珍しい攻撃の仕方だ。
ギロリと睨むヒスイから逃げるように、進は視線を逸らした。
「ヒスイ。貴女がした契約は『魔道使いは青桐拓人を第一美術室及び魔道図書室に連れてこないこと』。でも青桐は自分からやって来ただけで、わざわざ私たちが連れてきたわけではない。契約には違反してないんだなぁこれが」
「屁理屈……」
「なんだその契約」
してやったりと嗤う橘に、ヒスイの口角はますます下がる。
「拓人、君にここに来てほしくなかったのさ」
「はぁ?」
ますます意味が分からない。
拓人が眉をひそめると、ついに橘は呆れたように溜息をついた。立ち上がり、進の首根っこを掴む。
「君たち一回面と向かって話し合いなさい。人間には行動だけでは伝わらないものだよ」
「ちょ、姉さん!離して……」
「橘先輩と呼びなって言ってるでしょ。今日はもう監視しなくていいから、代わりに本の整理でも手伝いな」
嫌だなんだと騒ぐ進を連れて、橘は動く本棚の向こうに消えていく。
一方的に2人きりにされても困る。おまけにヒスイは何も喋らない。しかも、いつものようにふんぞり返る訳でもなく、何故か気まずそうに縮こまっている。
らしくないヒスイに仕方なく、拓人の方から切り出した。
「で?今日まで顔出さなかった理由は?」
「…………」
無言。
拓人の言葉には大抵返事をしていたので、予想以上にふさぎこんでいるヒスイに、流石に拓人も心配になる。
「別に責めてるんじゃないぞ?ただ、毎日一方的に顔出してた奴がいきなり避けるようになったら流石に気になるだろ。しかもあの日からだし」
「…………嫌われたかと思った」
「………………は?」
たっぷりと沈黙を含んだ予想外の答えに、開いた口がふさがらなくなった。
「好き嫌い以前に、怖い」
隠していた訳でもない本音が出る。
今日初めて、ヒスイと目が合った。
「当たり前だろ。どこにいても見つけてくるし、危険なことに巻き込むし、そもそも人じゃない。というかお前も俺が怖がってる事なんてとっくに知ってんだろ。なんで今更……」
「……あの姿、魔道使い以外の人間に見せたの初めてだから」
それはそうだ。
あんな姿、誰かに見られたらニュースに取り上げられるどころか、世界中で話題になるだろう。
そんなことにはならないよう、魔道使い達は、必死にヒスイを世間から隠していたわけだ。
「あの姿も、人間の私も、どっちもおんなじ私。だけど、拓人がちゃんと分かってくれる自信がなかった。よりによって、闘争心が抑えられなくなっちゃったところを見られたから」
「闘争心?」
「魔物は過酷な環境で生きてるから、好戦的なの。私もそう。でも、拓人があの魔物に傷つけられた時、今までにないくらい頭が空っぽになって……兎に角、潰す。それしか考えられなくなった」
恐ろしい思考に拓人の血の気が引く。
だが、同時に思う。それは闘争心とは違くないか?
「それ本当に闘争心か?」
「……わかんない。あんなに自分を制御できなかったのは初めて。魔物を潰したら、急に頭が冷えて……こわくなった」
ヒスイは椅子の上で、自分の身を守るように器用に蹲る。
彼女の説明は要領を得ず、たどたどしい。それでも、拓人は根気よく聞き出した。
「怖くなったって、何が?」
「……私の知らないわたしがいる。今まで制御出来ていたと思っていた、いつ暴走するかも分からないわたしがいる。それが……こわい」
ヒスイは今、変わろうとしている。その為に、遠まわしにだが拓人を頼ってる。そして拓人も、ヒスイの困惑の元が掴めてきた。
「お前が今抱いてる恐怖は、お前の周りにいる全員が抱いてる恐怖だぞ」
ヒスイは人ではない。
本人は自身の力を制御出来てるつもりだろうが、リスクは常に付きまとっている。その証拠に、進が監視に付いているのだろう。
現に、先日の件はヒスイ本人すら想定していない暴走だったらしい。拓人が恐怖を覚えて当然の状態だった。
魔道使いの上層部の不安は、見事的中したわけだ。
「いつ何が起こるか分からない。だから警戒せざるをえない。普通じゃないんだ。お前も、俺も」
顔を伏せながらも、ずっとそわそわしていたヒスイの動きが止まる。
「私、ずっとこのままなの……?」
彼女の声は、今にも泣くんじゃないかというほど震えていた。
いつになくうじうじベショベショしているヒスイが気持ち悪くて、つい、小突いた。
「どうにか頑張って証明するしかないだろ。自分は無害だって」
顔をゆっくり上げたヒスイは、口を小さく結んでいた。
周りから信用されるには、偽りだとしても無害だと信じてもらうしかない。
拓人が過剰知覚者だと悟られぬよう、周囲も自分も偽りながら生きているように。
「お前はそういう配慮を全くしてこなかっただろ。だから、ちょっとは周りを気遣う行動を心がけろ」
「……うん」
「あと言葉にしろ。橘先輩も言ってたけど、行動だけじゃ伝わらんから。お前の場合とくに」
「……わかった」
素直すぎていっそ怖いくらいだが、悪い事ではない。
拓人の推測だが、ヒスイにはまともに対話ができる存在がいなかったのかもしれない。なにせ、保護者がアレだ。
一人拓人が納得していると、ヒスイはふにゃふにゃと目の前の机に突っ伏した。
「拓人はさ、今も私が怖い?」
「怖い」
嘘を吐く意味はない。
先ほども言った言葉を、念を押すように繰り返す。
「でも、強くなるって覚悟決めたから。それがヒスイの傍にいることなら俺は離れない」
離れたくてもどうせ離れられないのだ。ならば、せめて引きずられないように追い付こう。まるで誓いじみた決意だと、少し恥ずかしくなる。
すると、うつ伏せのままだったヒスイが、顔だけ拓人の方を向いた。
「……ありがとう」
何故か鼻だけ赤くしたヒスイは、それだけ告げて再び突っ伏した。
「おう……」
まさかお礼を言われるとは思わなかった。
妙にこっぱずかしくなり、「トイレに行く」と言い訳のように告げてその場を離れた。
美術部との契約云々に関して聞くことを忘れていたが、どうせお互い理由を話せるような心境ではないのは明らかだった。
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「独占欲だな」
後日、ヒスイが契約した理由を崇徳に聞くと、キッパリと告げた。
今日は梅雨らしい湿気マシマシの小雨である。夜にかけて更に強くなるらしい。現在拓人は青魔道の練習をし、ヒスイは雨の中2人分のアイスを買いに出かけている。
結局美術部の奥の図書室はヒスイの機嫌が悪くなったり、許可が取れていなかったりで利用できていない。その為拓人はこうして以前通りヒスイの家に来るしかなかった。
「独占って、俺を?」
「他にいないだろう。オレに魔道を教えさせたのはアレなりの妥協点といったところだ。魔道使いの巣窟から遠ざけたのも、低級魔物にキズモノにされて冷静さを失ったのも、全て独占欲だ」
拓人の中でも、独占欲や嫉妬という推測は無かったわけではない。ただ、自惚れるつもりもなかったので、無意識に選択肢から外していた。
だが、全て分かった今引っかかるのは────
「アンタ、全部分かってて俺に教えたのかよ。保護者が子供を虐めんなよ」
「一種の確認でもある。ヒスイの性格は益々奴に……」
ブツブツ呟く崇徳の目は鋭く尖り、なのに瞳は濁って見えた。明らかに踏み込んではいけない雰囲気に、拓人も黙って練習に戻る。この自己中心的で相手を試すような崇徳の行動はどうにかした方がいいのだろうが、誰も止められないからこうなっているのだろう。
改めて拓人は集中する。
掌にスプレーの噴射口があるイメージをしながら、見えない壁に道力を吹きかけるように手をかざす。これが結界系の青魔道の基本らしい。
魔道は大技であればあるほど口頭呪文や身振り手振りが大きいらしい。逆に、そこそこの魔道を無言で発動したり、大がかりな魔道を小さな手振りで発動する魔道使いは実力が高いそうだ。
勿論、今の拓人にはそんな技量はないので掌を前後左右に振りかざしては、小物をぶつけられての繰り返しだ。丸めたティッシュがふんわりとでも跳ね返ったときの感動は忘れられない。現在はティッシュから消しゴムにシフトチェンジして練習している。
しかしこれが中々うまくいかない。道力の壁を何重にも重ねればいいわけではない。1mmのプラスチックと鉄板なら鉄板の方が丈夫なように、薄くとも丈夫な結界を作るには兎に角道力を練りだす必要がある。量より質というわけだ。
「おい」
なけなしの道力が空になりそうになった時、意識の隅に追いやっていた崇徳から声を掛けられた。
「今、痛みはどうした」
「痛み?」
崇徳の言っている意味が分からず、首を傾げる。
すると数秒後、底を這うような圧迫感が足元から迫り、全身を駆け上がった。
「グ、が……!カ……っガハッ!!……ゲホッ、……ュっ……!」
一瞬で首に迫り、3秒ほど圧迫された後、拓人は解放された。突然迫った恐怖にその場にへたり込む。
あの感触は僅かに覚えがある。締め付けるようなあの殺意は、崇徳のものだ。
「……オレは今、ある存在に殺意を抱いた。お前に対する威嚇とは比較にならんほどのものだ」
「いや……それ以前に言うことが色々あんだろおっさん!」
「だが、過剰知覚者であるはずのお前にいつもより反応にラグがあった」
「聞いてんのかよ!?」
苛立ちのままに掴みかかりそうになるのをグッと堪え、フラフラの腰で立ち上がる。
崇徳は考え事をするように唇に手を当てて、視線だけ拓人に向けた。
「体質が故に感情特化型の魔道に変質したのかもな」
「だから、何が……」
「お前は既に青魔道で他者の感情をシャットアウトできる。オレの殺意を感じなかったのがその証拠だ」
拓人の頭が真っ白になる。
「……は」
「問題は持続性だな。今の道力量では話しにならん。底を増やして一日持つように調整していく必要があるな」
「そ、それって!」
先ほどは踏みとどまった拓人は、今度は縋るように崇徳に掴みかかった。
「それって……治った……!?」
全身が心臓になったかのように、バクバクと内側から音がする。拓人がずっと焦がれていた常人の生活が、もう目の前にあるのかもしれない。
想像だけで震える手指を、崇徳はやんわりと払った。
「最初に言ったように治ることはない。だが、少しの間だけならもう既に常人と変わらぬ知覚で過ごすことが可能だ」
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気が付けば、拓人は自室の扉にもたれかかっていた。
確かにヒスイの買ってきたアイスを食べ、自分の足で帰宅したはず。なのだが、記憶があやふやだ。それほどまでに、衝撃的だった。
体質が、治った。
いや、正確には治ったわけではない。
だが、肌に張り付く不快な感触を自分の意思である程度シャットアウトできる。
それは拓人にとって、ほぼ治ったも同義だ。
教室で間違いをしても、街中でうっかり大きな音を立てても、少なくともベタついた不信感や不快感を投げつけられることはなくなる。
そして、ステージに立っても────
「……っ!!」
何を馬鹿なこと。
なくなったのは感触だけ。視線だけはどうやっても誰もが感じるもの。
……分かっているのに。
おもむろに、クローゼットの奥底に眠っていたCDラジカセを引っ張り出す。
「…………」
8歳の誕生日に買ってもらった防水仕様のそれは、当時3桁に上るのではないかというほど繰り返し再生していたダンサーの、動画の隅に映っていたものと同じだ。
あの人のようになりたい。子供ながらに曇りない憧れを持って、形から入ろうと親に強請った。どうせすぐに飽きるだろうと踏んでいながらも、最終的に母が折れて買ってくれた。
だが、親の予想に反して拓人は何度もCDを再生した。同じフレーズで何度も失敗し、例え飽きようとも「次こそは」と、食らいつくように必死に練習していた。決して友人には伝えなかった。ダンススクールに誘う母の意見は突っぱねて、ひたすらに独学で踊り続けた。
上手い下手は気にしてなかった。気まぐれで動画にして投稿しようとも、再生数はかたくなに見ようとしなかった。
ただかつて動画の向こうで楽しそうに踊っていた人たちと同じでありたいと、狂ったように真似をしていた。
────去年の夏までは。
元々、あんな形で踊りたかった訳ではない。でも、今なら形に囚われることなく踊れるかもしれない。
その小さな希望に、ついに拓人は縋りついた。
「ちょっと?これから晩ご飯なのにどこいくの?」
「公園」
「こんな雨の中!?待ちなさ、こら!」
呼び止める母の声など気にも止めず、ラジカセとお気に入りだったCDを抱えて飛び出していた。雨は放課後と比べて明らかに強くなっていたが、足を止める理由には至らなかった。傘は差していたものの、駆け足のせいで足元は雨と泥で汚れていく。
衝動のままに走り続け、ついに近所の公園の東屋にたどり着いていた。傘を閉じるのも億劫になって、その場に放り捨てる。風に流されて飛んでいくそれには目も向けず、屋根の下にあるベンチにラジカセとCDケースを置いた。
以前はここで人気のない時間を探して踊っていた。今となっては、来るのも久しぶりだ。
ベンチの前にしゃがみ込み、CDケースを開く。これは父がお気に入りだと言っていた曲が入っている。どうせならこれも踊ってみろと、貸してもらってからそのままになっていた。
汗と雨で湿った指でCDを取り、ラジカセにセットする。あとは再生ボタンを押せば、勝手に曲が流れだす。
なのに、拓人の指はどうしてか震えて力が入らない。
もしも体質など関係なく踊れなくなっていたら?結局全てが嫌になり、蹲って終わってしまったら?
踊る楽しさよりも失敗の恐怖が頭を大きく占め、そんなことなら始めなければいいと、脳がブレーキをかけてしまう。まだ早すぎたのかもしれない。
折角こんな時間にこんな雨の中、こんなところまで来たというのに。
(なにやってんだ、俺)
自分で何がしたかったのかわからなくなり、溜息を吐きながら項垂れた。
「何やってんの?」
聞こえる筈のない声に咄嗟に振り返りながら立ち上がる。
拓人が放り投げた傘を持ち、きょとんとしたヒスイがずぶ濡れの部屋着姿で立っていた。
「……風邪ひくぞ」
「残念。ひいたことないんだなー、これが」
ヒスイの言葉には説得力があり、思わず拓人も頷いてしまった。
彼女は傘を畳み、雨水をまき散らしながらベンチに座った。
どうしてここにいるのかは聞かないことにした。拓人自身が同じ質問をされたら、返答をすることができないから。ラジカセの調子を気にするふりをして、ヒスイの出方をうかがう。
「せめて傘くらい差してこい。目立つぞ」
「それは、あれよ。居ても立っても居られなかったってやつ」
「は?」
「様子が変だったから」
まさかまともな返事が返って来るとは思わず、ラジカセを撫でていた手が止まる。
「『気遣う行動を心がけろ』、でしょ?」
「……」
「それに『言葉にしろ』だっけ?どうしたの、拓人」
その言葉尻がいつもよりも重くて、想定以上に早く拓人は折れた。
根比べにもなっていない。
「あぁあ──────もぉぉぉ~~~~~~~~……お前そんなキャラじゃないだろうがよぉ~~~~……」
「失礼な。私だって誰が何考えてるかくらい想像しますぅ──」
吐き出したい弱音とさらけ出したくないプライドがぐるぐる混ざり、その場で拓人は頭を抱える。自身に好意を抱いてくれている女の心配は予想以上に心に重く圧し掛かるというのが本日の気付きだ。
拓人だって分かってる。あの思い出を吹っ切れて、笑い話にできたときに初めて前に進める。そうしないと、きっといつまで経っても踊れないことも。
思い出すのは、もうすぐ1年前。
たっぷりと沈黙を含んで、ようやっと拓人は口を開いた。
「……去年の夏、ダンスコンテストの助っ人に出た」
事の初めはクラスメイトのいわゆる1軍に部類する男子だった。
大して話した事もなかったが、拓人が気まぐれにSNSに上げた動画に偶然たどり着き、背景が近所と一致したことから拓人だと気づいたらしい。中学生ゆえの金欠で交通費を渋ったことが裏目に出た。
動画を観てダンスのクオリティを認めたチームが、事故で骨折したダンスメンバーの代役として拓人を誘った。
もしかしたら断ることもできたのかもしれない。だが、元より体質のせいで人との関りを絶ち気味だった拓人には、こんな時どう断れば良いのか分からなかった。
数人集まってのダンス練習はどうにか乗り切ったが、事故は本番になってから起きた。
元より独学でダンスをやっていた拓人にとって、壇上に上がって踊るなど初めてのことだった。ホールから見る大量の椅子。暗がりから覗く数えきれない視線。拓人達だけに当たる焼くような照明。何もかも異次元の世界で、自然と動きがぎこちなくなる。
そして襲い掛かった、感情の暴力。
右端だけズレてね?
あいつだけキレないなぁ。
うわ、露骨に足のステップ間違えたよ。
そんな言葉が、腕に、足に、顔に邪魔をするようにぶつけられる。音に合わせて伸ばした指先が弾かれる。その感触がまた拓人を鈍らせる悪循環。何気ない誰かの感想が、ただ踊りたいだけの拓人の邪魔をする。
やがて大勢に監視されている中、壇上という檻の上でもがくように踊っていた。チームであることも忘れ、兎に角認めてい貰うために、完成度をひたすらに高めたダンスを踊らねばと、酸素を求めるように目を回す程集中していた。
それでももう限界だと思った時には、拓人は舞台の上で震えてしゃがみ込んでた。
勿論ダンスコンテストは入賞にすらならなかった。敗因など考えるまでもない。
助っ人を頼んだクラスメイトは無理に誘ったと勘違いして、焦りながらも励ましていた。が、噂というのは流されたくない側が一番嫌う形で流れるものだ。夏休みが明けたときにはコンテストの話は広まり、拓人は腫れ物のように扱われるようになっていた。
そして遠巻きから流れてくる感情がまた拓人を物理的に傷つける。どこにいても見えない何かに触れられる感触に、中学を卒業するまで苦しめられていた。
「……バカだろ?最初から断れば良かったんだ」
そうすれば、遠巻きにされることも、必要以上に体質に苦しめられることもなかった。
自嘲しながら、拓人は髪をかきむしった。
「拓人はどうしたい?」
拓人が喋り終えるまで黙って拓人の言葉を聞いていたヒスイが尋ねた。
どうしたい。
その問いに対し、少しだけ言い淀んだ後、案外するりと口に出せた。
「……踊りたい」
それが答えだった。
過去とかトラウマとか、難しい感情はなくて。ただ純粋に、幼い頃から画面の向こうで踊っていたあの人たちのように、曲に合わせて自由に踊りたかった。そのためにこの雨の中、こんな場所まで来たのだから。
踊りたいように踊ればいいのに、壇上の光景が目に焼きついて、脳が完璧を求めだす。
だから、いざラジカセの再生ボタンを押そうとしても、指に力がはいらないのだ。
再生が出来なければ、始まるものも始まらない。
「なら踊ればいいよ」
「そんな単純じゃねぇし」
「単純だよ」
足をぶらぶらと揺らしていたヒスイは、突然拓人のラジカセに向かって上半身を伸ばした。
「えいっ」
拓人が押そうとしても押せなかった再生ボタンを、あっさりとヒスイが押してしまった。カチッと乾いた音が雨の中でもわずかに響く。
数秒間を置いて、CDのトラック1が再生される。ハミングのような小さな曲調が、少しずつ音が重なり大きくなっていく。
拓人は慌てて止めようとしたが、ヒスイに遮られた。
「あ、これ知ってる。家にCDがあるんだよね」
ラジカセから流れる機械的な曲に、ヒスイがうろ覚えの鼻歌を乗せる。
前後に振る足の動きは徐々に大きくなり、ついに勢いのまま立ち上がった。そしてそのまま、東屋の外に飛び出した。
「ふーんふーんふーんふん♪」
「あ、おい!」
拓人の静止にも止まらず、ヒスイは雨に打たれながら踊り出した。
まるで水中のようになびく桃色の髪。雨を弾くように伸び縮みする指先。塗れて張り付いた衣服が、彼女の体のしなりを浮き彫りにする。
リズムもテンポもバラバラで、協調性は全くない。ただそれっぽく体を動かしているだけに過ぎない。けれど、形に囚われずに動くヒスイは今まで見た彼女の姿の中で一番楽しそうだった。
ただの雨降る公園の中も、彼女が踊れば例え足元の泥が跳ねようと、MVの演出のように映えた。
その光景に、拓人は見惚れた。
誰よりも楽しく踊る。
拓人が幼い頃に焦がれた、画面越しの光景が目の前にあった。
拓人が踊りたい光景が、手を伸ばせば届く距離にあった。
拓人の視線に気が付いたヒスイは、どこか自慢げに微笑む。そして、拓人に向かって雨の中から手を伸ばした。
「ほら」
ヒスイは踊りながら誘う。
もし目の前の手を掴んでしまえば、まだ足元が湿っているだけの拓人もずぶ濡れになってしまうだろう。
いつもだったら遠慮していただろうに。踊るヒスイがあまりにも楽しそうだったから、つい拓人も伸ばされた手を握ってしまった。
「それっ!」
案の定、ヒスイに引っ張られて雨の中に引きずり込まれる。
引かれる手に釣られるように腕を伸ばし、体を捻る。踊っていた時の癖で足でステップを踏むが、以前のようなキレはない。泥に足を取られて、もたつく始末だ。こんな不器用なダンスでは、審査員も顔を覆ってしまうだろう。
でも、それでいいと思えた。
宙に舞う飛沫を集めるように、全身を撓らせる。僅かに掌に集まる雨の感覚が、まるで魔法でも使って集めているみたいだ。
そして手にまとったそれらを飛ばすつもりでターンすれば、丁度逆回転をしていたヒスイと偶然ハイタッチした。
「ふふ、ははは!」
「んふふふふ!」
どこか可笑しく感じてながら、いつの間にかどちらともなく笑い出した。
水が染み込み、服が重くなっていく。水を含んで肌にまとわりついて、上手く体が動かない。絶え間なく、気持ち悪い感触がする。
それでも、いままでのダンスの中で、一番拓人がしたかったダンスができている気がした。
雨の中、狂ったように笑いながら2人きりで踊り続けた。
夜中だからとか、誰かが見ているかもしれないなんて野暮なことは、頭の片隅にも浮かばなかった。
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