第五話
みしり
まだ古くない建物の床が軋む。
みしり
一歩、ヒスイが踏み出すたびに音は彼女の足元で響く。
みしり
「どいて」
一言だけ口にしてヒスイは崇徳を睨み上げる。その声は、とても身内にかけられるような冷たさではなかった。
彼女の言動は流石に崇徳の勘気に振れたようだ。眉間に僅かにシワを寄せ、顎を開いてヒスイを見下ろした。
「偉くなったな。それは俺の嫌いなものを知っての狼藉か?」
「もう貴方の時代は終わった。生身の人間でしかない貴方に、頭を下げる道理もない」
「吠えるじゃないか。小娘が」
会話の雲行きが怪しくなり、拓人が口を挟む隙すらなくなった。
ヒスイは喉からサイレンのような唸り声を発する。威嚇するように膨らんだ鱗まみれの翼が、室内の僅かな光を反射して煌いた。
2種類の怒りが狭い廊下で反響し、拓人の肌をピリピリと焼く。鳴り続ける唸り声は鼓膜から脳を揺さぶり、頭痛を引き起こす。正直、拓人にとっては先ほどの化け物なんかよりこの2人の方がよっぽど怖かった。
──そうだ、あの化け物。
目の前の恐怖に充てられて、すっかり意識の向こうにやっていた気配を探す。丁度、化け物が吹っ飛んでいった部屋の暗がりから、軽いプラスチックが転がるような音がした。
パァン!
唐突な破裂に、どこかで発砲でもしたのかと拓人は一瞬身を縮める。
だがすぐに違うと気づいた。先ほど弾けて、かろうじて足に引っかかっていたヒスイのパンプスが暗闇しかない化物のいる部屋に蹴り飛ばされたのだ。見えなかったが、パンプスは木端微塵になっただろう。
一泊置いて部屋の中から金切り声と荒らす音が響く。危険から逃げようとあの化け物が怯えているのだ。
どうすべきかわからず拓人が狼狽えていると、崇徳は呆れた顔でヒスイに道を譲った。
「もういい、興が削がれた。好きにしろ」
「最初っからそうすればいいのに」
じろりと半目で崇徳を見上げて、ヒスイは部屋に足を踏み入れる。
途端、ギャアギャアと汚い鳥の鳴き声と共に大きなガラスが割れる音がした。部屋の中で新鮮な空気が膨れ上がり、廊下に吐き出された風が3人の隙間を通り抜ける。そこに混じった異様な生臭さに、拓人はえずいた。
「うっ……ぅえ゛っ……」
「逃げたな」
「チッ」
2人は異臭などまるでないかのように、部屋の中を見回す。この部屋に唯一存在する窓は歪に取り外され、窓辺には大きなガラスの破片が撒かれている。粒子状になった欠片は空気中に舞ってキラキラと光った。
拓人も異臭に怯えながら部屋を大雑把に見回す。
どうやら大人の寝室らしく、暗がりに浮かぶキャビネットには、大きな爪跡が残っている。しかし荒れ様は先ほどの子供部屋程ではない。その代わり、不自然に黒く染まった壁やマットレスが何があったかを物語っていた。
想像と異臭が結びついてしまい、拓人は鼻と口を押さえる。
すると、水分を多く含んだ質量のある物が階段をドチャドチャと駆け上がる音が迫る。また別の、命を脅かす存在かと身構えたが、その正体は全く別だった。
「ヒスイ!何やってるんだ!敵が逃げたぞ!」
「お前こそ、それどうした」
「あの魔物に沈められてたんですよ!本もダメにされるし、ヒスイは僕を置いて行くし!」
何故か全身ずぶ濡れの進が、可愛い顔を歪めて吠える。
「おい、ヒスイ!……ヒスイ!?」
突如室内で風が吹き荒れる。
強風が痛くて拓人は目をつむる。吹き飛ばされないよう、拓人は扉の縦枠に、進は壁にしがみついた。
唯一何もないかのように立つ崇徳が、口を開いた。
「アレの得意魔道は”赤”と”黒”。周囲の物質を分解・吸収し、自在に操る」
言っている意味は咄嗟には飲み込めなかった。
「目を閉じるな。よく見ておけ」
有無を言わせぬ命令に、拓人はうっすらと目蓋を開く。
飛び散ったガラスも、赤黒く汚れたマットレスも、全て光の粒子になってヒスイに吸い込まれる。作り物かと疑いたくなる光景に、拓人は何故か儚さを見出した。
ヒスイは猫が獲物に狙いを付けた時のようにくぐむ。彼女が翼を羽ばたかせるとまた新たな風が生まれた。
「……河から逃げようとしてる」
500mほど離れた場所に川があるが、もしやヒスイはそこまで見えているのだろか?
拓人が疑問に思っていると、突如首根っこを捕まれ、ヒスイに向かってほうり投げられた。
「えっ」
「見学だ。連れていけ」
ヒスイの背中から伸びた尾に撒きつかれる形で捕まり、彼女の背中に引き寄せられる。
「うわっ!」
拓人は咄嗟にヒスイの肩に手を着くが、目の前には人間にはあるはずのない、目蓋が左右についた目があり声が出た。ヒスイの背中の目は瞬きをしながら拓人を見つめていたが、そっと目蓋を閉じた。
意図が読めず、崇徳に尋ねようと振り向こうとした。
が、それ以上に突如腹に食い込んだ尾の締め付けにうめき声が盛れる。
そして爆発音にも似た空気の動く音が、足元から一瞬だけ聞こえた。次の瞬間には視界が急激に遠ざかる引力に、拓人の口からは悲鳴しか出なかった。
「ぅぁあああああああああああああああああ!!」
気づけば拓人はヒスイと共に空にいた。
唐突な状況に、拓人は震えながらヒスイの背にしがみついた。何が起こったのか分からず、状況把握もままならない。
少し首を回すだけでは、左右に広げられた翼に遮られて何も見えない。勇気を振り絞って下を覗き込むと、一戸建ての屋根が切手の大きさになっていた。
「逃がさない」
ヒスイの呟きの後に、今度は下に引き下ろされる。速度も安全性もジェットコースターを上回る危険に、とうとう拓人の喉からは悲鳴すら上がらない。
(俺、死ぬのかな?)
漠然とした恐怖が心臓を急激に冷やす。
実際の時間はほんの一瞬だっただろう。だが、拓人にとっては少なくとも30秒近く感じる中、目をつぶってやがて来るだろう衝撃に備えた。
だが、待っていたのは想像よりは優しく液体の中に落ちる感触だった。
(体、が──……)
動かない。
うっすらと目を開いても、夜の水の中は墨汁に潜ったかのように真っ暗だ。
拓人はどうすることもできず、重力に身を任せて沈んでいった。
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どれほど時間がたっただろう?
ずっとぼんやりしていた頭は次第にクリアになっていく。そして、次々浮かんでくる様々な現状の疑問。
感触的には確かに拓人は水の中に落ちた。だが、息はできる。しかも、川の水にしては濁っていない。
少しずつ感触が戻ってきた右手を試しに正面に持ってくる。水の中特有の抵抗はあったが、目の前にある自分の手は水の中で裸眼で見ているとは思えないほどクッキリと映った。
やはり、普通の水ではない。
(なんだこれ)
一気に色々なことが起きすぎて、頭が疲れて考えることを放棄している。
ヒスイの姿とか、どこに連れてったのだとか。
そこで、先ほどまで腹に巻きついていた尾が消えていることに気づいた。
「ヒスイ?」
試しに彼女を呼んでみれば、陸の上と同じように声が響き渡った。それでも、返事が返って来ることはなかった。
今まで、ヒスイは拓人が呼ばなくとも勝手に傍にいた。だからか、呼んでも姿を現さない事には流石に不安を覚えた。
「ヒスイ!」
今度は先ほどより声を張り上げて周囲を見渡す。やはり拓人の声だけが虚しく響いた。
代わりに、見回して別の影があることに気が付いた。
人影よりももっとずっと大きなそれは、暗い水の中でより濃い影となっていつの間にか目の前にあった。
拓人は試しに、体勢を縦に変える。そして歩くように足を動かすと、多少の抵抗はあったが陸と同じように一歩前進した。どうしてか、泳ぐという発想は出なかった。
そのままゆっくりと影に近づくが、歩けど歩けど影は大きくはなるが輪郭がはっきりとすることはない。影が城ほどまで大きくなり、とうとう諦めてしまおうとした時。影が何かを覆っていることに気が付いた。
「……泥?」
影─否、ヘドロのような何かが、城と同等の大きさの何かを覆いつくしている。輪郭がいつまでたってもはっきりしないのは、境界が周囲の水と溶けて混じっているからだ。
現に、もう少し近づいてみると拓人の正面にヘドロの穴がぽっかりと空いていた。大きさは拓人の背丈の2倍はある。目が錯覚を起こしていただけで、確かに目標には近づいていた。
まるで本当に城の入口かと思わせる穴を前に、拓人は少し考え込む。
危険は承知だが、このまま待っていても事態が好転するとも思えない。
「……行くか」
覚悟を決めて、一歩、足を踏み出した。
すると突然、正面の穴からとてつもない水圧が流れ出てきた。咄嗟に息を堪えようと口から僅かに息を吸った途端、器官全体が激しい痛みを訴え、噎せ返る。
ゴボリ。
今までずっと見えなかった気泡が、大量に拓人の口から吐き出された。
(これ、水だ!)
まさかここで本物の水に襲われるとは予想しておらず、空気を求めて拓人はもがく。
しかし、どれだけ手足を動かそうとも空気はない。それどころか水面がどこにあるのかすら分からない。今の拓人を傍から見たら、さぞ滑稽だろう。
(助、け……)
顔がこわばり、意識が遠くなる。
もう諦めかけていたその時、腹に覚えのある感触が巻き付き、勢い良く引き上げられた。
そして泥だらけの地面に、叩きつけるかのように打ち上げる。痛み以上に、ずっと求めていた酸素に体は歓喜した。
「ゴハッ!!ウェッッ……ゲホっ!ゴホッ!……はぁ、」
喉の中で空気と水が混ざり合い、汚い音をたてて器官の水を吐き出した。肩で呼吸をして、生きる為に必死に肺に酸素を届ける。じわじわと襲ってきた頭痛と軋む体が、これが現実だと確認させてくれる。
震える手足を這わせて、横向きの体を肘と膝を支えにして起こす。
──死ぬかと思った。
口の中に溜まった水と唾を吐きながら、どこか冷静になっていた。あの景色は走馬灯なのか、死後の世界なのか。まるで拒まれるように押し流されたことも含めて、夢だと断じるにはあまりにもリアルだった。
耳に入った水と相まって鼓動の音しか聞こえていなかったが、遠くから微かに悲鳴が聞こえた。
「どこに行くの?」
聞き覚えのある声と痛みがして、痛む頭を起こす。
手を伸ばせば届きそうな程近くにいたヒスイが、思った以上に近くにいた魔物の鳩尾を蹴り飛ばした。未だに異形の形をした足に蹴られた魔物は、2回バウンドして川の水と泥でグチャグチャになった地面に転がる。
衝撃的な光景に、また拓人の肩が跳ねた。
のしり、のしり、とヒスイは再び魔物との距離を詰める。魔物が見た目とは合わぬ、小鳥のような鳴き声を上げた。
「何?怯えてるの?」
ヒスイは躊躇なく魔物を踏みにじる。
「アンタは魔物。弱きを挫き、強さに喰われるだけの世界でしか生きられないモノ。だからあの家の人間と魔道使いを食べて、力を付けた」
曲がらぬ方向に圧力をかけられ、魔物の骨がミシミシと軋む。
気づけば拓人の体は傷だらけだった。打ち上げられた時の傷だけではない。ヒスイの殺意に充てられて、拓人の体まで刻まれているのだ。
動かなければ。そう思うのに、恐怖か全身の痛みのせいか、拓人の体は震えるばかりでろくに動かない。
「だけど残念、ここは人界。情と都合が蔓延る世界。弱い人間を食らおうとも、強い魔道使いを返り討ちにしようとも、その時点でアンタの道は潰えていた。最悪、あの家から逃げてれば生き残ることは出来たかもね」
拓人には、彼女がどうしてここまで無差別な殺意を抱けるのかが分からない。
「でも、」
もう上限かと思っていたヒスイの殺意が更に膨れ上がった。それまで全く動かなかった体が僅かに動く。
次に映るであろう光景が鮮明に思い起こされた。
ヒスイの殺意が拓人の肌を更に切る。怖くて、痛くて、逃げたくて、どうしようもなかった。でも、こんなヒスイはもう見ていたくない。
自由奔放で人の言うことを聞かないけれど、拓人の知るヒスイはこんな一方的な暴力を振るうようなヤツではない。今の姿はまるで……魔王のようではあるけれど、心まで暴力的に染まったわけではないはずだ。そう信じたかった。
前のめりになって、口の中で張り付いた舌を死に物狂いで動かした。
「私のモノに傷を付けようとした。その時点でもうこうなることは確定してたの」
だが、拓人が動くのはあと3秒、遅かった。
「やめ──」
—--------------------------
その後の記憶は曖昧だ。
崇徳か進かは分からないが、誰かが拓人の頭にタオルを被せて、ヒスイと河川敷から引き離した。
気づけば拓人は件の一軒家の前で座らされており、いつの間にかひっきりなしに動き回る大人たちをぼんやり見ていた。恐らく彼らは全員魔道使いか、それに関わりのある人間だろう。その証拠に、あれだけ大きな騒ぎが起きたのに、警察が1人もいない。
「被害者は?」
「小学生の少女と、そのご両親。あと、前調査に来た魔道使いが1名です。いずれも食いつくされ、骨だけの状態。長男である中学生の少年の遺体だけが見つかっていません」
「うえぇ……相変わらず容赦ないですねぇあの娘は……」
「ったりめぇだ。生まれが俺達人間とは違うんだ。だから次期魔王なんて噂を誰も否定しねぇのさ」
「でも魔王っていえば──」
「問題は何故魔物が召喚されたか、だな」
「行方不明の少年の方は?」
「少女の玩具に魔道の痕跡があったそうだ。そっちの入手経路を探った方がいいやも」
「先輩、あの男の子どうしたんでしょう?」
「崇徳殿のお連れだそうだ。下手に関わるなよ」
行き交う大人たちの会話で、今回の事件の話題が嫌でも頭に入ってくる。同時に、ねっとりと拓人を怪しむ感触がタオルを被っていても伝わり、手触りの悪いそれを握りしめた。
すると、コンクリートの砂利を踏む音がこちらに近づき、真正面で止まった。拓人がゆるりと頭を上げると、崇徳が立っていた。
「死にそうだな」
「……死にかけたんだよ」
相変わらず第一声から不躾で、流石の拓人も苛立ちが湧きたつ。
そもそも、拓人がこんな目に遭ったのはここに連れてきた崇徳が原因だ。
「なんで俺をここに連れてきたんだよ」
「お前は一度本格的な魔道とヒスイの力を見ておくべきだった。正直、魔道の方は思っていたより参考にならんかった……だが、アレの力を知るのには十分だっただろう」
鱗の翼、脊椎の尾、背中の目。外見だけでも恐ろしい見た目をしていたが……空を飛び、周囲を粒子に変え、魔物を踏みつぶした。
そうだ、拓人を殺そうとした魔物をヒスイはいたぶっていた。
「……あの魔物、死んだんだよな」
「そうだな」
「ヒスイが、殺したんだよな」
拓人の問いには沈黙しか返ってこない。
崇徳は答えを躊躇しているわけでない。何を今更と、当然のことを聞かれて呆れに近い感情を抱いている。
消えかかっていた記憶が、ぶわりと突然鮮明に蘇った。
骨が割れた。肉が潰れた。微かな悲鳴が血に溺れていった。
「普通、あんな簡単に殺せるか……!?」
絞りだした声は震えていた。
あの魔物に同情はない。既に4人も食べたのだ。だが、見知った顔がその化け物を素手で倒すのは訳が違う。
「それだけの力を持ってるんだ。見ただろう」
「それだけじゃなくて……!い、生きてたのに!あんなあっさり、虫を潰すみたいに生き物を殺せるなんて正気じゃないだろ!」
「何を苛立ってる?」
何を?苛立ってる?逆にどうして目の前の男はこうも他人事なんだ!?
拓人は血と泥と汗が滲んだタオルを投げ捨てる。どこまでも投げやりな男にこれまで積りに積もった不信感が爆発した。ふらつく体を無理やり立たせ、衝動的に崇徳に掴みかかった。
「だってわけわかんねぇよ!あんな、化け物みたいになるのに、一瞬後には俺達と同じように笑ってるんだぞ!?」
「あれはそういう生命体だ」
それはつまり、ヒスイの凶暴性は元からだったということだ。
拓人を見つけて笑顔になる時も、進に追いかけられて苦い顔をしていた時も、いつでも誰かを簡単に殺めることができる力と心を持っていた。
それは、あの家の家族を食べた化け物と何が違うのだろう?
「ならなんで先に教えてくれなかったんだよ!!アイツが化け物だって教えろよ!!!」
拓人が苛立ちのままに叫んだ瞬間、強い力で胸倉を持ち上げられる。
つま先立ちになりながら本能的に頭を上げると、瞳孔を開いた崇徳が息もかかるような距離で見下ろしていた。
「決めたのはお前だ。後悔も弱音を吐くのも自由だが、喚き散らすな。見苦しい」
それだけ言い捨てて、崇徳は拓人をその場に放り捨てた。
そのまま尻餅をついた拓人には見向きもせず、彼は踵を返してどこかへと歩き出した。
「うわ、汚っ」
霧吹きを持った進が入れ替わりでやってくる。
言われて自身の体を見下ろす。全身ずぶ濡れで、血と泥に塗れている。それだけななまだしも、崇徳に凄まれて情けなく腰をぬかしたままだ。これでは傍から見ればさぞ滑稽だろう。
「とりあえず消毒するから、目をつぶって」
そう言って、進は霧吹きの中身を雑に乱射した。中身は消毒液のようで、霧状の水分が全身にかかり、ピリピリと痛む。
「……今の俺って、どう見える?」
「正直に言っていいの?」
「……」
「ボロボロ、惨め、情けない。ぶっちゃけワガママなガキ」
進の言葉はトゲを通り越したナイフだ。口ぶりからして、先ほどの崇徳とのやり取りも見られていた。
けれど、魔道どころか道力すらまともに理解できていない拓人に、一体何ができただろう?分けもわからず死にかけて、どうしてこんなに惨めな気持ちにならなければいけないのか。
「15なんてまだガキだろ」
「自分から聞いておいて不貞腐れないでよ。僕はヒスイのおもりで精一杯なんだから」
不貞腐れるとは違う。理不尽で横暴な周りの奴らに、行き場のない憤りが溜まっているだけだ。吐き出すことも飲み込むこともできなくて、迷子になってるだけだから。
だから、少しくらい愚痴を言う程度は許してほしい。
そして一番の矛先は、やはりここに連れてきた元凶に向く。
「あんな突き放さなくてもいいだろ」
違う。あれは突き放すような態度ではなかった。
地を這う虫を見下ろすみたいに、興味の欠片もないものを見ているようだった。
崇徳が言葉を吐き捨てた時、拓人に伝わったのは胸倉を掴まれ引き上げられることによる痛みだけだった。それ以外は、”何も感じなかった”。
「あの人、基本他人には無関心だよ。育ててる義理があるだけで、身内のヒスイだって例外じゃない。その分お前は可愛がられてる」
可愛がられている?冗談じゃない。
出会ってからここ数日、拓人は恐喝されたり、理不尽なことに巻き込まれてばっかりだ。
ただでさえ自身の”体質”に振り回されているのに、今日のような悪夢のような出来事がこれからずっと続くのかと思うと、もう生きていく道のりが永遠に続いてどうしよもない気分になってくる。
「もうやだ……」
ついに堪えきれずに零した一言は、拓人が想像していた以上に震えていた。目の前がじわりと滲んで、溢れる前に目蓋を閉じる。上を向いて誤魔化してしまいたかったけれど、伏せていた拓人は隣にいる進に悟られたくなくて、伏せたままを保つ。声と一緒に息まで殺して、喉まで余分に痛めて余計に惨めになった。
声だけで泣きそうになっていることなどとっくにバレていると、冷静だったなら気づけただろうに。
「僕もやだよ」
進の返事は、共感とは似て非なるものだった。
伏せたままの拓人の頭は一瞬カラになる。
「魔道も、魔道使いも、全部ぜーんぶ理不尽なんだ。君が思っている以上にね。魔道使いの家に生まれようと、何も知らない一般家庭に生まれようと、巻き込まれる時は皆巻き込まれる。今回の件の一家みたいにね」
思い出す、あの化け物の姿を。
あの恐ろしいモノに4人の人間が襲われて死んでいった。
うち3人は、きっと何が起こったのかを知る間もなく。
「僕らはあくまでスタートラインに立ってるに過ぎない。何も知らずに死んでいくか、死に物狂いで生き続けるか。僕らはたまたま、後者の選択肢も与えられたに過ぎない」
そして、後者の選択を選んだのは拓人だ。
3日前の土砂降りの中、「番になって」と微笑んだヒスイの言葉に頷いたのは、紛れもなくあの日あの時を生きていた拓人である。
「だからさ、いい加減に覚悟決めなよ。ヒスイの傍にいるってのはそういうことだよ」
最後にそれだけ言い残して、進はその場を後にした。
まるで見透かしたかような言葉だった。
確かに、今までの出来事はどこか現実味がなく、ふわふわと揺らいだ覚悟で流されるままだったことは否定しずらい。
ヒスイが人でないことは最初から知っていた筈だった。だけど、心のどこかで知っていたつもりになっていた。つもりになっていたから、ヒスイの知らなかった一面を見て、パニックになって、呆れられた。
「しょうがないだろ」と、どうにか自分を正当化しようとしていたけれど、どうやら周りの奴らは許してくれないらしい。
今もう一度、あの日の選択を改めて迫られたとして。もしも取り消すことができるならどうするか?
断ったとして、ヒスイから無事に逃げられるだろうか?
もしかしたら、殺されるかもしれない。
「死にたくねぇなぁ……」
何も考えずに、するりとその言葉は出た。
あ、そうか。俺、死にたくないんだ。
大勢の感情に嬲られ、自身の体質を理解したあの日。人の感情に肉体を弄ばれて死んでいくんだとまだまだ先の見えない人生に絶望していた。
ヒスイと出会って、この体質がどうにかなるかもしれないと聞いて、その手を掴んだ。
そして魔道を知った。
「魔道……」
ヒスイが家の中の物を粒子に変える力を、崇徳は魔道だと言った。
確かに、あんな力があるならば、人の感情に振り回されずに生きていける術だってあるだろう。
……その為には、強くならなければならない。
「……なれるかな」
ヒスイのような暴力的な力とまでは言わない。せめて、拓人が他人の感情を気にせず人前に立てるくらいに。
傷と泥でクシャクシャになった両手を広げる。
僅かだが、この体にも今少しだけ道力があるらしい。それを使いこなせなければ、強くはなれない。
「……進!」
ずっとヘタれていた腰を上げ、拓人よりも年上と思われる少女と話す進を追いかける。
今にも萎えそうな自信は無視した。
とりあえず、今嘆けることは嘆いた。後悔も弱音を吐くのも自由らしいので、残りは後日に取っておくことにする。
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