第四話


 ヒスイと出会った日から、毎日何かしらの出来事が起きている。

 昨日は魔道を教えてもらう条件にヒスイの叔父である崇徳と顔を合わせることになり、今日は魔道使いのお偉いさんからヒスイとセットで監視されることになった。

 少し色々と考える時間が欲しいが、ヒスイを筆頭に周囲の環境は拓人を待ってはくれない。

 今日も放課後にヒスイに引きずられ、崇徳の元へと案内される。しかも今日は進もついている。

 マンツーマンの授業を同級生に見られいるようで気恥ずかしいが、他3人は全く意に介していない。ヒスイに至っては無心でクッキーを貪っている。謎のアウェー感が、より拓人を心細くした。


「魔道に必要なものは2つあると言ったな?もう1つは取得率だ」

「しゅとくりつ」

「所謂魔道の才能だ。これは主に5種類に割り振られる」


 崇徳は昨日拓人に舐めさせた、先端が焦げた試験紙のような3枚の紙をかかげる。


「1つは赤。物質や自然エネルギーに干渉する」


 崇徳がテーブルの端を掴む。すると、木で出来ている筈のテーブルがまるでスポンジケーキのように柔らかい音をたてて千切れた。二度見する拓人に「触ってみろ」と、崇徳が顎で指す。言われるがままに人差し指で机が千切れた断面を触ってみるが、ささくれが刺さってしまいそうなほどザラザラとして、硬い木の荒れた断面の感触が指に伝わるだけだ。

 現実味のない光景に、拓人は指を引っ込めて顔を顰める。

 それだけでなく、崇徳は千切れた痕に合わせるように手に持つ残骸を重ねて境界を指でなぞると、指が離れた端から千切れた痕がなくなっていく。最後にはテーブルは何もなかったかのように元通りになった。

 本来起こりえないことを実現させる力。その説得力が増し、拓人は息を吞む。


「2つ目は青。結界や封印など、境界に作用する。そこのクッキーを取ってみろ」


 そう言って崇徳は昨日ヒスイが持ってきたクッキーの余り物を指す。少し躊躇ったものの、言われた通りに拓人は手を伸ばす。いつの間にかヒスイもクッキーを貪る手を止め、おっかなびっくりの拓人を観察していた。

 そして拓人の手がクッキーに触れる瞬間、


 バチリ!


 静電気のような感触が指先に伝わり咄嗟に手を引っ込めた。予想外の衝撃に、痛みが走った右手を左手で胸の前に抱える。心臓がドラムの様に高鳴る拓人を、ヒスイはクスクスと笑った。

 季節は6月、しかも触ろうとしたのはクッキーだ。静電気は有り得ない。しかも衝撃が走った際に、クッキーが盛られた皿がドーム上の何かに覆われていた……ような気がした。


「……これが、結界?」

「そうだ。そして黄。自身、または他者の肉体に干渉し、回復や身体強化に作用する」


 崇徳はキャビネットを開き、今度は裁縫用の針を取り出す。そしてなんの躊躇いもなく、己の指先に針を突き刺した。その痛みを想像し、拓人は表情を歪める。

 対して崇徳本人は表情を一切変えることなく針を抜く。そして塩粒サイズの血だまりが少しずつ大きくなっていく様をまざまざと拓人に見せつける。


「よく見ていろ」


 そう言って崇徳はこよりを作るように血が出た人差し指を同じ手の親指の腹で拭う。そしてもう一度拓人の前に突き出すと、血を拭った跡こそあれど血が溢れるどころか針で刺した傷口すらなくなっていた。

 自身の目を疑うように崇徳の指に顔を近づけるが、崇徳の指紋がよく見えるだけだ。


「これで分かったな?この3種が主な魔道だ」

「……ん?でもさっき5種類って言ったよな?」


 拓人の指摘に崇徳は片眉を上げる。


「言ったな。重力や引力など、物理的なものに作用する黒魔道と、空間そのものや知覚の外など概念的なものに干渉する白魔道。だが、この2種は人間が扱える可能性は極端に少ない。よって、今回の大筋にはほぼ関わらない。『そういうものもある』程度に留めておけ」

「はぁ」

「で、この基本3種……場合によっては5種の魔道の才能はパーセンテージで現す。そしてこの才能は誰しも合計値100%を最低でも持っている。ただし、基本的にこのパーセンテージは生涯で増えることも減ることもない」


 崇徳は机に試験紙のようなものを机に再び置いた。

 赤、青、黄……それぞれ崇徳が説明した種類と同じ種類と色だ。ようやく試験紙との接点に気が付いた拓人は、改めて観察するようにのぞき込む。すると、隣に座っていたヒスイも同じようにのぞき込んできた。


「この黒い線と線の間がおよそ10%の値。この取得率調査紙は取得率があるだけ焦げ付くの」

「……じゃあ半分まで焦げた青いのは、俺に50%分の青い魔道の才能があるってことか?」

「そう。で、3本半まで焦げてる黄色は35%、1本半の赤は15%。常人と同じ合計値100%の取得率かな」

「それって凄いのか?」

「うーん……まあまあ?」


 ニッコリと答えるヒスイに、拓人はガックリと項垂れる。

 結局のところこれが良いのか悪いのかよくわからなかった。圧倒的ダメ出しをされるよりかはマシだが、中途半端な結果に悶々とする。

 すると、真正面からスライムのようなベットリとした感触が伝わってくる。つい視線を上げると、ジト目で崇徳が見下ろしていた。おそらく説明をさせろという事だろう。

 その視線の君の悪さに、拓人は慌てて姿勢を正す。


「昨日教えた通り、魔道を使用するには道力が必要だ。取得率5%程度の魔道を使うには、1回の使用に道力を5消費する」

「……つまり、道力を沢山蓄えられても取得率が低ければそれ以上の魔道を扱うことはできないってことか」

「逆もある。どれだけ魔道の才能を持っていようと、貯蔵量の底が浅いと道力の外付けでもしない限り何もできない」

「外付け?」

「乾電池のようなものだ。もっとも、それらを使うのにもまず己の中の道力を操作できるようにならなきゃならん」


 そこまで言われて、ようやっと崇徳が言わんとしていることが分かった。

 要は、このままでは外付け道力の操作もできず、魔道の使い方を身に着けることもできない。魔道のレクチャーの先に進めないのだ。

 拓人の思考は顔に出ていたのだろう。呆れた顔で崇徳は見下した。


「やっと理解したな。ならさっさと雀の涙みたいな道力を捻り出せからっけつ」

「だからそのアドバイスみたいなのをさぁ!」

「感覚の問題だ」


 拓人と崇徳が揉める傍らで、突如1台のスマホが鳴った。

 音に釣られて視線を逸らした拓人は「話を聞け」と崇徳に足を払われその場に転ぶ。

 2人の様子に目配りもせず、持ち主である進は通話ボタンをタップした。


「はい、進です……はい、はい」


 スマホを耳に寄せた途端、進は満面の笑みで会話をしだす。声色もいつもの数段高い。

 所謂猫なで声で対応する進を、ヒスイは冷めた表情をした。


「…………え、いいんですか?…………なるほど、わかりました」


 通話を切ると、進は苦虫を嚙み潰したような顔をした。そして数拍置いて、覚悟を決めたように崇徳に声をかける。


「えーっと、崇徳さん」

「どうした」

「”上”からの指令です。今夜高濃度の魔道を感知した場所にヒスイと調査に向かってほしいとのことだそうです」

「そうか」

「それで……ヒスイの変体許可も出す、そうです」


 その一言を聞いた途端、それまでつまらなさそうにしていたヒスイの眼に光が宿った。

 抱えていたクッションを放り出し、進にズイズイと近寄る。


「場所と内容は?」

「隣町の一軒家。高出力の魔道を感知して先に調査に向かった魔道使いが帰ってこないらしい。もしかしたら魔物がいるかも」

「魔物!?」


 会話を小耳に挟んでいた拓人も顔を上げる。

 

「おい、小僧」

「……俺の事?」

「そうだ。今夜、お前も来い」

「……は?」


 己の耳を疑い、聞き返した拓人に崇徳はもう一度、ハッキリとした声で告げた。


「今夜、調査に、お前も来い」



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「帰りてぇ~……」

「文句言うなよ。僕だって帰りたい」


 時刻は午後21時。良い子はそろそろ寝る時間だというのに、拓人は待ち合わせ場所の駅前で進と共に突っ立っていた。

 夜なので多少肌寒いと思い一枚羽織って来たが、湿度が高いがゆえに蒸した空気と相まって少し暑い。服選びを失敗したかもしれない。

 加えて進と二人きりというのも居心地が悪い。既に何度か言葉は交わしているが、ヒスイを抜きで顔を合わせるのは初めてだ。

 なので、これを期に今まで気になっていたことを質問する。


「お前って、魔道使い?ってやつなんだよな?」

「そうだよ。今更だな」


 棘のある言葉と同時に、熱めの湯舟と同温度のスライムのような感触が肌に飛んだ。驚い腕を確認すると、ベタついた感触がした部分だけ肌が赤くなっている。幸い火傷にはならなさそうだ。

 この感触は何度か体験している。粘着質な熱というのは、大抵はコンプレックスを刺激した際にぶつけられる。どうやら地雷を踏んだようだ。


「……過剰知覚者っていうのも、考え者だな」


 進はバツが悪そうに顔を反らす。どうやら拓人の体質もとっくに進たち魔道使いに共有されているらしい。情報元はおそらく崇徳だ。

 拓人としてはむしろ気が楽だ。怒りの余波で背中を押されても、氷のような棘を投げつけられても、”何事もないかのように取り繕う”必要がない。進たちからしたら、自分の思考が読まれるなどたまったものではないだろうが。


「魔道使いの家系なんだよ。ついでに偶々少し他人より才能を持って生まれたから、やらされてるだけ」


 溜息交じりに、疲れた声で進は続けた。火傷未満のケガを負わせた詫びだろうか。この瞬間にも、進の方だけベタベタしたものが張り付いているが。


「辞めれねぇの?」

「辞めれるならとっくに辞めてるさ」


 進は厚い雲に覆われた空を見上げ、重たいため息を吐いた。


「でも、僕にはこれしかない」


 その言葉の意図は拓人には分からない。憶測を巡らすにしても、拓人は進のことを知らなさすぎる。

 かといって、このことに下手にフォローを入れようものなら同情になってしまうだろう。それを進が望んでいないことだけは、なんとなく察した。


「……2人、遅いな」


 だから、拓人は聞かなかったフリをした。

 自分から言葉を投げておきながら最低な対応だ。だが、今まで人間関係を拗らせてきた拓人には、気の利く対応など期待されても困る。

 実際のところ、進からはもう変な感触が飛んでこない。下手に刺激しない方がいいのだろうと拓人も結論付けた。

 結局、質問する前以上に気まずい雰囲気の中、ヒスイ達がくるまで2人ぼっちで待ち続けた。



—--------------------------



 高校生になったばかりの男女が3人に、厳つい男が1人。見るからに怪しい集団は夜の町を歩いていた。時間帯もあり、今第三者に見られたら絶対に通報されるだろう。

 しかし、今はランニングをする中高年どころか運転する車すら通らない。不自然なほどに人気がない。誰もいない十字路で、崇徳は律儀に赤信号で足を止めた。拓人ら3人も釣られるように歩みを止める。

 彼らは今夜、調査というものをする。拓人はその場にいたせいで、偶然巻き込まれた。

 今回の調査は一軒家の調査と、事前調査から戻ってこない魔道使いの捜索。魔物がいる可能性が高く、万が一発見した場合は魔物は撃破。魔道使いの”形状”は問わないそうだ。

 


「魔物ってそんな身近なモンなの?」


 信号をただ待つのも退屈に感じ、夕方からずっと気になっていたことを質問する。

 魔物に近い生命体であるヒスイしか拓人は見たことがないが、もしや気づいていなかっただけでずっと日常の風景に紛れていたのだろうか?

 進は「先に説明しておけ」と視線で崇徳に語るが、彼は無視をして拓人の質問に答える。


「現世には3つの世界が隣接している。人間が住む【人界】、魔物が住む【魔界】、そして神が住まう【神界】。一部例外はあるものの、基本それぞれの世界とその種族は不干渉に徹している」


 如何にもファンタジーありきな話だが、自分の体質とヒスイの存在が既にフィクションじみているせいでそこまで気にならない。

 己の中の常識が揺らぐ気配を察しつつも、拓人は言葉を重ねる。


「じゃあなんで魔物がいるんだよ」

「稀に何らかの事情で世界を越える個体がいる。大抵は黙認されるが、今回のように人間に危害が及んだり一国レベルで揺らぐ事態を引き起こす個体は調査を行う」

「一国レベルを揺らがす個体って……」

「ん」


 自信満々でヒスイが手を上げる。何故誇らしげなのかはわからないが、わかりやすい例で非常に助かる。


「ん?それならヒスイは魔界生まれ?両親は?」

「私も知らない。教えて叔父さん」

「アレのことなど知らんでよし。何度も言わせるな」


 この話は終わりだと言いたげに、正面に向き直った。アレの一言で済ませるあたり、父母どちらが人間かどうかもぼかしたいらしい。

 ヒスイもろくな答えなど期待していなかったのだろう。口をすぼめて肩を竦め、それで終わり。

 それでも気になった拓人は、この場にいるもう一人に尋ねる。


「進は知らねぇの?」

「僕が話せばお前も僕も首が飛ぶ。以上」

「は!?」

「喧しい。騒ぐな」


 予想以上に物騒な返答に大きな声が出た。驚く拓人に、とうとう崇徳がヘビのような睨みを効かせた。その眼には初めて会った時にも浴びせられた威嚇のような凄みがあり、暗に「これ以上探るな」と語っていた。

 昨日ぶりに浴びた気迫に、拓人は足を竦める。

 途中から意外と気さくな反応をしていたので忘れていたが、きっと崇徳はやろうと思えば今すぐにでも拓人をどうとでもすることができる。そういう、人かどうかも疑わしい考えの持ち主だ。

 このままついていってもいいのかと、再び拓人の中で不安がもたげる。しかし、前にいた筈のヒスイがいつの間にか背後に回り、拓人の背を蹴り上げた。


「いっ……!なんだよ!」

「そこ、目的地」


 そこ、とヒスイが指さすのは信号の向こう側。横断歩道を越えた少し先に崇徳と進が立っているが、信号は相変わらず赤いまま。拓人がもたついている間に切り替わったのだろう。

 だが、ヒスイは拓人の腕を取り、躊躇なく横断歩道に足を踏み入れた。


「おま、信号!」

「いいじゃん、誰もいなんだから」


 先ほどはおとなしく信号を待っていたクセに、まるで意に介していない様子で進む。おまけにトラックが如き馬力で引っ張られてしまえば抵抗する気も起きず、拓人は腕が引っこ抜かれないよう足をもつれさせながらついていく。


「見せつけるじゃん。案外、満更でもないの?」

「?」

「進、お前正気か?どう見ても腕がもがれる寸前だったろ?」

「煩い。ここが目的だ」

「ここっ、て……」


 崇徳が顎で指した家は、拓人が想像していたものより一回り大きかった。テレビで芸能人の家探し番組でしか見ないような一戸建てだ。

 築数年で綺麗でありながら駐車スペースのタイヤ跡などの生活感もあるのに、空き家のように人の気配がない。

 ちぐはぐな雰囲気はさながら幽霊屋敷で、拓人の顔が引きつる。


「進、やれ」

「……はい」


 崇徳の呼びかけに、やや間をおいて進が応える。

 進は腕に抱えた分厚い本を片手で開き、ジャケットの内ポケットから1本のペンを取り出す。そのペンを直視した時、拓人は目を細めた。

 形はよくある万年筆。しかし、その色は昼間の青空をそのまま切り貼りしたかのように透き通る空色だった。

 これは決して比喩ではない。周囲の光源は外灯しかなく、互いの輪郭を把握するのがやっとなほど薄暗い。にも関わらず、空色は光輝くわけでもなく、空間がペンの形に塗りつぶされたようにそこにあった。

 

「Ton(音)、Licht(光)、Karosserie(肉体)……alles(全て)、schneiden(絶つ)。Mit dieser Welt(現し世と)、alles(全て)、alles(全て)」


 進は不思議な単語を呟きながら、空色のペンで手にある本に何かを綴る。

 すると、拓人の足元から少しずつ重力が抜けていき、中に揺蕩うような心地に包まれた。同時に、音は水の中のように遠くなり、視界は眩暈のように揺らぐ。何も考えられない意識だけが、肉体から剥がされるかのように薄れていく。

 気を失いそうになる瞬間。バタム、と本を無造作に閉じる音でハッと我に返る。慌てて周囲を見渡すが、特に何も変わりはない。形容し難い感覚を覚えたにも関わらず、体調も大した違和感はなさそうだ。

 ……唯一、ヒスイだけが二日酔いでもしたかのような顔をしている。


「これ、気持ち悪いから嫌い」

「……何、今の」

「僕の魔道で簡易的に周囲の空間を切り離し、別空間に固定した。これで大体何しても、周囲に影響が及ぶことはないよ」

「固定……?」


 まだ魔道の知識がないに等しい拓人には、進の言葉の意味の半分も理解できない。


「あぁぁぁぁ──────……だるいから早く終わらせよ。”アイツ”じゃなさそうだし」


 頭上で手を組み、伸びをしながらヒスイがぼやく。その声には周囲に興味がない時よりも覇気はなく、どうやら本当に調子が悪いらしい。

 彼女はフラフラと玄関へと向かい────


 バキャリ。


 扉を蹴破った。

 金具が転がる音が、家の中へと遠のいていく。


「バッカ!ヒスイ!!」


 進の馬頭に振り向くことなく、ヒスイは家の中へと姿を消す。

 前言撤回。少なくとも、マイペースは健在のようだ。


「いくら何しても近所に通報されないからって、扉を蹴破るヤツがいるか!そもそも、僕の魔道は展開中は周囲に影響が及ばないだけで、解除して現世に戻ったら壊れた物品はそのままなんだぞ!?これどうやって上に報告するんだよ!しかも魔物がいる前提の報告なのに真正面から威嚇するような行動をとって────…………」

「注意事項は分かったな。お前はオレと来い。2階を回る」

「あぁ、そう……」


 1人騒ぎながらヒスイに続く進の背を見ながら、拓人はぎこちなく頷いた。

 破天荒過ぎるヒスイはある意味、拓人の反面教師になっている面もある。だが、進はあの破天荒にことにずっと前から振り回されていたのだろう。拓人は少しだけ同情した。



—--------------------------



 2階に上がり、一番手前にあった扉を崇徳が開ける。扉を開けたとこで空気の流れが発生したのか、目の前にワタや羽毛が舞い上がった。

 中はおそらく子供部屋だった場所。というのも、本棚は倒され、机の上の宝箱は荒らされている。人気キャラのぬいぐるみは布団とともに引き裂かれ、中身が部屋中に散乱している。

 崇徳が家に入る前に「土足で上がれ」と言っていたが、この惨状で納得した。これでは割れたガラスが床の何処かに隠れでもしていたら確かに危険だ。

 それにしても、この荒れようは異常だ。

 入るのも躊躇われる部屋に、それでも崇徳は躊躇なく足を踏み入れる。部屋の照明を点け、荒らされた部屋を物色し始めた。


「なぁ、俺にできることって……」

「ない。強いていうならあまりオレから離れるな。何かあっても知らんぞ」


 まるで脅すような言葉に、慌てて拓人も部屋に入る。

 荒らされている箇所を重点的に探る崇徳の背を眺めながら、拓人は頭の隅に引っかかっていたことを口にした。


「”アイツ”って、誰?」


 崇徳が手を止め、肩越しに振り返る。

 ヒスイがこの家に入る前に言っていた”アイツ”が何なのか、ほんの少し気になった。


「ヒスイが仕留め損ねた魔物だ」


 それだけ言って、崇徳は再び物色を再開する。

 ヒスイが、仕留め損ねた?

 ヒスイのこともまだまだ理解が浅い拓人だが、流石に違和感を覚えた。そして疑問を見透かしたように、手を動かしながら崇徳がまた口を開く。


「アイツの前髪、独特だろう」

「あ、おう……」


 それは薄々思っていた。

 ヒスイは横髪を多めに残した状態でポニーテールにしている。だが、毛束の量が左右で明らかに違う。前髪の右側が左側に対して前髪にしている範囲が広いのだ。

 独特なセンスだと思い、下手に言及しないでいたのだが……まさかそこに繋がるのか。


「1か月前、ヒスイは魔物を仕留め損ねた。強さ以上に狡猾な個体だった」

「狡猾な個体?」

「魔物にも個体によって知能や能力に大きな差がある。奴は保護対象だった人間に擬態し、ヒスイを不意打ちで仕留めようとした。ヒスイは怪我こそ負わなかったが、代わりに髪の一部を切り落とされた。魔物は脱出経路も確保済みで、不意打ちに失敗するや否やすぐさま逃げた」


 ヒスイを不意打ちする度胸もさながら、あのヒスイの足の速さから逃げられるだけで生命体としては相当なものだろう。


「それでヒスイはその魔物を倒そうとしてんのか」

「ああ。仕留め損ねてからの荒れようはめんどくさいの一言に尽きる。上層部にその魔物の調査を恐喝したり、癖のある魔道使いや一般市民に八つ当たりを繰り返していた。執着とまではいかないが、余程逃がしたことが悔しかったんだろう」

「……?俺の前ではそんな素振りなかったけど」

「お前と会ってから落ち着いたからな」


 なんだ、それは。

 まるで精神安定剤のような扱いだ。それでも、不思議と嫌な気分ではなかった。

 むしろちょっとした優越感すら感じ、拓人の口は上下左右に捻じ曲がる。そんな自分に気恥ずかしさを覚え、慌てて手で口を抑えた。崇徳が背を向けていて助かった。

 一方の崇徳は、手にした女児用の宝箱の中から1つの指輪を取り出した。


「ここはもうない。次に……どうした」

「い、いや、なんでも……それ、何?」


 崇徳が手に持っているのは、水族館のお土産コーナーにありそうなイルカを模したリングだ。勿論オモチャだろうが、子供のおしゃれ用なら十分なクオリティーだ。

 指輪を片手に廊下に出る崇徳を慌てて拓人も追いかける。


「魔道の痕跡が僅かにある。触媒にでも使われた可能性があるな。だからこうして、証拠品として集めておく」

「……おっさん、意外と仕事熱心だな」


 もっと自分勝手で、このような仕事も適当にこなす人だと思っていた。

 しかし、予想に反して崇徳は真面目に調査をしている。おまけに、拓人の質問にもある程度答えてくれる。


「オレもヒスイも魔道使いの連中に目を付けられている。これ以上の揉め事は面倒くさい。だからこうして己の有用性をある程度見せつけておく」

「なんか、大変なんだな」

「ああ、大変だ」


 雑な感想に雑な返事をされる。適当なところはとことん適当なところは、案外拓人は嫌いではない。魔道の指導はもっと具体的に行ってほしいが。

 すると、下の階からバタバタと騒ぐ音が響いた。


「……そろそろか」

「なにが、っ熱ッッッっヅ!!!」


 何がそろそろなのか。尋ねようとしたが、拓人はそれ以上にうなじに感じた熱にその場に転がるようにうずくまる。そして拓人の真上を通り過ぎる風を切る音と、パタパタと細かい液体が頭上から振ってきた。

 熱せられた刃物を当てられたような、初めての感触にヒュウヒュウと喉が鳴り、脂汗が止まらない。おそるおそる、うなじをなぞるが特に傷はない。いつもの過剰知覚によるものだ。

 しかし、こんな熱と鋭い痛みを同時に味わったことはない。ヒスイですら、こんな感情を剥きだすことはない。今放たれたものはきっと明確な、殺意だ。

 途端に腹の底から恐怖がせり上がる。


「殺気が丸出しで助かったな。あと1秒伏せるのが遅ければ、オレが引き倒していた」

「……ヒッ!」


 震えながら見上げた拓人は、悲鳴を堪えることができなかった。

 人型のトカゲのような化け物の鎌のような爪を、崇徳は素手で受け止めていた。爪を掴む手は流血しているにも関わらず、彼の声はむしろ昂っている気さえした。


「見たところ、ただの鱗属か。雑魚だな」

「ゥ……ギ、ギィ、ガァカカ……!」

「だが、道力が肉体に反して多い。まあ当然……喰ったよな」


 崇徳は化け物の腕を空いている片手で掴み、扉に叩きつける。そして化け物が壁からずり落ちる間もなく、扉ごと化け物を蹴り飛ばした。

 ギャアギャアと甲高く騒ぐ音に、拓人は蹲ることしかできない。対して崇徳は流れる血もそのままに、悠然とした歩みで蹴り飛ばした化け物に近づいていく。

 きっと、あの化け物は殺されてしまうのだろう。現在、拓人の師にあたる男によって。


「死ぬ……死んじまう……」


 その呟きは、殺されかけた自分に対する恐怖心からか。はたまた、今まさに崇徳になぶり殺されそうになっている化け物に対してか。

 そこに哀れみはない。あの化け物はきっともう既に人を殺していて、そして拓人も殺そうとした。でも、ただ目の前に確かに存在する命が、害と利益を理由に淘汰される。

 それが例えば、離れた場所で事実を聞くだけならば、こんなに取り乱しはしなかっただろう。むしろホッとしていたに違いない。

 しかし現実は、拓人の目の前で、拓人の知人の手で惨たらしく死んでいくのだ。

 人間の都合を押し通される現実が、拓人にはどうしようもなく恐ろしく感じた。

 数秒前に通り過ぎた死と、今目の前に横たわる死に板挟みになり、どうにもできない。

 ただ現実から目を背けるように蹲るしか、拓人にはできることがない。



「叔父さん、どいて。それ私の獲物」


 彼女の声が、ヒリついたうなじを冷やした。

 今まさに化け物に手をかけようとしていた崇徳の手が止まり、首だけで振り返る。


「先に逃がしたのはお前だ」

「少し遊んでただけ。ああ、でも、すぐに仕留めておけば良かった」


 パチリ!

 皮のような者が弾ける音がして、その次に床の軋む音がした。

 おそるおそる目線だけ上げて、とうとう拓人は言葉を失う。

 目の前には僅かな光に反射する、甲冑のような鱗に包まれた足。その真上から、ヒスイの声は聞こえてきた。


「そいつ、私のモノに手を出した。未遂だろうと関係ない」


 パキパキと、骨格が急速に変化する音がする。

 ヒスイは羽織っていたシャツをその場に脱ぎ捨てた。すると、剥き出しになった肩甲骨まわりから、非生物的な関節と鱗にまみれた翼が生えだした。脊椎の半分を引きずり出すように生えた尾は、苛立たし気に壁を叩く。


「徹底的にぶちのめす」


 荒々しく翼を羽ばたかせ、尾を床に叩きつけるその姿は、背後から見ただけでも確かに人ではなかった。

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