第51話 最期の手

 撤退を始めたケリーたちは、広い道を駆けていた。


 左右を森に挟まれたこの道は、奇襲に向いているため、あえて避けた道だった。


 「……最初から、こうするつもりだったのか」


 魔界軍は遠征軍を生かして帰す気はないようだ。残った騎士を広い道に追い込んで、とどめをさすつもりなのだ。


 狙いが定めやすくなった今、敵はどんな攻撃をしてくるのだろう。


 その答えは、すぐに空から降ってきた。


 翼を引き裂かれたドラゴンが、騎士たちを下敷きにしていく。


 道幅が広がって応戦しやすくなったドラゴン乗りたちは、騎士たちを援護するために低空飛行していた。


 彼らは自分が森に落とす影が脅威になっているなんて、微塵も思っていない。ドラゴンの亡骸で道を塞がれた騎士たちは、森に隠れることも、引き返すこともできず、ただ走り続けるしかなかった。


 汗だくになったグレイスターは、横たわるドラゴンを飛越するたびに、苦しそうな息を漏らしている。着地の反動は馬だけでなく、ケリーにもダメージを与えていた。


 『このまま、全滅してしまうのか……。』


 ケリーは絶望に押し潰されそうになりながら、背後をふり返る。ボスウルフが見えたと同時に、騎士の群れの中に牛柄の馬をみつけた。


 小さな馬は少女を背に乗せて、一生懸命に走っている。


 「エダナッ!」


 ケリーはすぐに手綱を引き、グレイスターとともに道を引き返した。すれ違う騎士たちが何か叫んでいるが、彼には何も聞こえていない。一秒でも早くエダナの元へ駆けつけたい。その強い思いだけが彼を突き動かしていた。


 「エダナ!こっちだっ!」


 エダナはケリーに気がつくと、驚いた顔で前を指さした。


 彼女のジェスチャーに何度も頷いて、ケリーが手綱を繰ったそのとき。背後から飛んできた倒木が、ヴェルーカや周りにいた騎士たちをなぎ倒した。


 ボスウルフが投げた木によって、馬は宙を舞い、騎士たちは地面に叩きつけられる。地獄のような光景は残酷に、そして鮮明にケリーの目前で繰り広げられた。


 転倒したヴェルーカは、死にものぐるいで立ち上がると、その場でジタバタと暴れ始めた。衝撃で位置のずれた鞍にエダナの姿はなく、手綱は倒木の枝に絡まってしまっている。


 ヴェルーカが逃げようとするたびに、手綱は強く締まる。手綱に邪魔をされて大暴れするヴェルーカの足元で、一人の騎士が必死に手を伸ばしていた。


 ――エダナだ!


 エダナは生きていた。だが、彼女はいつまでたっても立ち上がろうとしない。ボスウルフと大地の波が、もうすぐ後ろまで迫っているというのに。


 「まさかっ!」


 立ち上がらないんじゃない、立ち上がれないんだ。


 エダナの異変に気がついたケリーは、瞬時に駈歩の合図を出した。だが、どれほど強く蹴ってもグレイスターは動かない。


 「どうしたっ、グレイスター!動けっ!このままじゃ、エダナが!」


 ケリーの叫びは、グレイスターにはまったく届いていない。どんなに合図を送っても、馬はまるで動かず瞬きすらしない。


 グレイスターから咄嗟に降りようとしたが、足は鐙を脱ぐことはおろか、感覚すら曖昧になっている。ケリーの体は、彼が思っている以上に力を失い過ぎていた。


 エダナとの距離は随分あるはずなのに。ケリーの瞳は彼女の表情一つひとつを、しっかりと捉えていた。


 エダナは目の前に転がる剣へ手を伸ばし続け、ついに指先が柄を引き寄せる。彼女は柄をつかむと、片腕で上体を支えて剣を振り上げた。


 細い腕で掲げた剣が、小刻みに震える。


 上手く狙いを定められないのか、エダナは目を細めてじっと一点を見つめている。


 剣に怯えて、ヴェルーカは尻すごみをしている。ケリーはその様子を見て、ようやくエダナの行動の意味を理解した。


 エダナは覚悟を決めた顔で、一息に剣を振り下ろした。刃はヴェルーカを傷つけることなく、絡まった手綱だけを切断する。


 ヴェルーカが、ケリーたちに向かって一直線に駆けて来る。


 「駄目だ……ヴェルーカ!エダナを見捨てるのか!」


 ケリーの叫びも虚しく、ヴェルーカがエダナのもとへ戻ることはない。残されたエダナに目を向けると、彼女は安堵の表情で愛馬を見送っていた。


 彼女の背後には、すべてを呑み込む大地の波が迫っている。


 「エダナアアアアーッ!」


 波を先導するボスウルフが転がる倒木を飛び越え、大地の口が残骸もろともエダナを呑み込んでいく。


 大地の裂け目に落ちる直前、ケリーはエダナと目が合った。彼女は笑顔のまま涙を流して、何かを叫んでいた。


 「……っ!」


 立ち尽くす彼らの横を、ヴェルーカが駆け抜けていく。


 グレイスターは、放心状態のケリーをふり返って何度もいななくが、彼は何も答えない。乗り手の指示を失ったグレイスターは身をひるがえすと、ヴェルーカの背中を懸命に追い始めた。


 しばらくして、グレイスターがヴェルーカに追いついた瞬間、ケリーが顔を上げた。


 「ヴェルーカ、来いっ!」


 千切れたヴェルーカの手綱を握りしめて、ケリーはグレイスターを駆る。小さな牛柄の馬も引き離されることなく彼らについて走った。


 あれから、何が起こったのか。どれほどの時間が経ったのか……よく覚えていない。我を忘れて駆け続けた学生たちは、いつしか西の森を抜けて、見慣れた場所へたどり着いていた。


 疲れ切った馬は丘に駆け登ると、立ち止まってガクガクと膝を震わせた。連なる丘の彼方には、朝日に照らされた学舎の壁がぼんやりと浮かび上がっている。


 ここは……学舎前に広がる平原だ。


 騎士たちは静まり返った森を凝視したまま、呆然と立ち尽くしている。


 彼らを追いかけていた魔界の犬たちは、いつの間にか姿を消していた。森へ続く道には薄っすらと砂埃が立ち上っているが、あの恐ろしい地獄は跡形もなくなっていた。


 幻覚を見ていたのではないかと思うほど、森は静かだった。


 「終わった……のか」


 「ああ……終わった……終わったんだ……」


 絶え絶えに言葉を呟いて、騎士たちは朝焼けに染まる空を見上げた。傷ついた体を煌めかせながら、数頭のドラゴンが学舎に向かって飛んで行く。


 「ぐ……はっ!」


 突如、激痛に襲われたケリーは、腹を抱えて鞍から崩れ落ちた。痛みに七転八倒するケリーの周りを、グレイスターはそわそわと歩き回っている。


 やがて、血を吐いて動かなくなったケリーに、騎士たちが歩み寄る。近づいて来る足音、鳴き叫ぶグレイスターの声、誰かが呼びかける声……。耳に届くすべての音が、水中にいるときみたいにぼやけている。


 ケリーの意識はゆっくりと薄れ、山脈から登る朝日の光へ吸い込まれていく。


 世界が夜明けを迎える瞬間、ケリーは静かに瞼を閉じた。

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