第52話 額縁の英雄

 壁一面に広がる大きな窓の外には、夜の中庭が広がっている。ロウソクの灯り一つない小さなホールは、白く優しい月明かりに照らされていた。


 ケリーとの面会を終えたセロは、ドラゴン乗りの学舎の三階にある、この小さな空間へやって来た。何か嬉しいことがあったとき。そして、悲しいことがあったとき。セロは必ずここへ来ることにしている。ケリーと再会したあの日の夜も、セロはホールを訪れていた。


 このホールは彼にとって唯一、本当の自分に戻れる場所。セロの顔に固く張り付いた、偽りの仮面を外すことができるのは『彼ら』だけだった。


 「今日、ケリーが話してくれたんだ」


 一本の太い柱に掛けられた絵に、セロは語りかけた。木の額縁に入れられたその絵は色褪せ、人目につくのを恐れるかのように、ひっそりと飾られている。


 日に焼けた紙には、優しい微笑みを浮かべて寄り添う二人の青年が描かれていた。


 絵の左側にはレイ・ホートモンド、そして彼の右隣には、ジアン・オルティスが描かれている。古い絵の中の二人は英雄の紋章ではなく、他の学生と同じ四年生の制服を着ていた。これは、彼らが英雄になる直前に描かれた作品だ。


 「でも……わからないんだ。僕は、本当にケリーの支えになれたのかな……」


 セロは俯いて、苦渋の表情を浮かべた。


 『エダナァ……ごめん……ごめんな……』


 ケリーの泣いて詫びる声が、今も耳に焼き付いて離れない。第二回大草原遠征のすべてを話し終えたあと、彼は初めてセロの前で涙を流した。


 ケリーは泣き疲れて眠ってしまうまで、込み上げる嗚咽を必死に堪え、ただただ謝罪の言葉を呟き続けていた。


 「彼らは戦うために出陣したんじゃないんだ。それなのに、どうして……」


 絵の中の二人は何も語らない。静かに遠くを見つめて微笑んでいるだけだ。


 「ねえ、兄さん……僕はこれから、どうすればいいんだろう」


 独り呟くセロの声は、誰もいないホールの闇に吸い込まれて消える。月明かりに青く浮かび上がる彼の頬を、一粒の雫がつーっと伝い落ちていった。


 「ああーっ!セロさん、こんな所にいたんですね!」


 突然の大声に驚いて、セロは慌ててふり返る。そこには、丸いテーブルの間を小走りにやって来るタークの姿があった。


 「もう食堂、閉まっちゃいましたよ!ずっと待ってたのに来ないから心配しました」


 セロは頭を掻くふりをして、頬の涙をさっと拭う。タークはそばまで来ると、柱に掛けられた絵に興味を示した。


 「この絵を見てたんですか?」


 タークは絵を見上げて、不思議そうに首を傾げる。


 「もしかして……英雄さん?」


 セロが頷くと、タークは目をきらきらと輝かせた。


 「わあっ!ぼく、お二人の絵が学舎に残されているなんて知りませんでした!セロさん、こっちの飛行帽を被った人がドラゴン乗りの英雄さんですか?」


 セロは落ち着いて答えた。


 「……ああ、そうだ」


 「へえっ!やっぱり、英雄さんってかっこいいですね!」


 はしゃぐタークを、セロは静かに見守る。しばらくして、タークは残念そうに言った。


 「でも……いなくなってしまったんですよね」


 「……そうだな」


 セロが呟くと、タークはため息をついた。


 「……もし、ぼくが死んでしまっても、チャアには生きていてほしいなって思うんです。ぼくの代わりに、誰かがチャアを最期まで大切にしてくれたら嬉しいなって」


 タークのしんみりとした言葉に、セロは黙って首をふった。彼が口を開くまでもなく、タークはちゃんと答えを知っているようだ。


 「でも、ぼくには兄弟がいないから、それができないんですよね。……あーあ!家族だけじゃなくて、友だちにもドラゴンが継承できたらいいのに!」


 「兄弟がいたとしても、タークが死んでしまったらドラゴンも同時に死んでしまう。チャチャを継承したいなら、君が生きている間でないと――」


 話の途中で、セロは自身の発言に違和感を覚えて口をつぐんだ。


 「そうですよね……あっ、そうだ!じゃあ、ぼくが長生きすればいいんだ!そうすれば、チャアもずっと生きられるし、誰かにお願いしなくても、ぼくと一緒にいられますよね!」


 無事に問題解決までたどり着いたタークは嬉しそうに笑ったが、隣りにいるセロは難しい顔をしていた。


 「あれ、セロさん?大丈夫ですか?……あのー、セロさーん……!」


 タークの声が、考えにふけるセロに届くことはなかった。


 ……乗り手が生きていなければ、ドラゴンの継承はできない。では、兄を失った自分は一体、誰からディノを継承したのだろう。


 ドラゴンの継承は乗り手と血の繋がりのある者が、ドラゴンに血を捧げることで成立すると言われている。これはあの日、セロがディノを継承した方法とほとんど同じだ。


 だが、セロの継承には明らかにおかしな点がある。


 一つは、彼の兄であるジアン・オルティスが亡くなっているのにも関わらず、ディノが生還しているということ。そして、そんな掟破りな状態であるにも関わらず、セロへの継承が成立してしまっているということだ。


 こんな話を聞けば、誰もが作り話だと思うだろう。いや、悪い冗談だと一蹴されて相手にしてもらえなくてもおかしくない。


 しかし、今のセロはこの笑えない冗談に、思わず微笑んでしまいそうになるような、小さな可能性を見つけていた。


 彼のなかで、希望が芽生えようとしている。


 セロの体は震え、無意識に自分の身を抱きかかえた。この限りなく不可能に近い現象を可能にする、たった一つの方法……。


 ――まさか、兄さんは生きているのか……?


 なぜ、こんなにもわかりやすい矛盾に、今まで気がつかなかったのだろう。セロは恐る恐る絵の中の兄に目を向けるが、空の英雄は依然として彼方を見つめているだけだった。


 「さん……!セロさーん!おーいっ!」


 セロが我に返ると、タークが両手を口の前で構えて大声で呼びかけていた。現実に引き戻されたセロは、慌ててタークに謝った。


 「あ、ああ……すまない。ちょっと考え事をしていたんだ。……どうした?」


 タークはわざとらしく腰に手をあてると、怒っているのか困っているのか、よくわからない顔をした。


 「なんだか、セロさん変ですよ?急に黙っちゃったと思ったら、震えて寒そうにしてましたし……疲れがたまって、風邪をひいたんじゃないですか?」


 「いや、本当に考え事をしていただけだ。僕のことは気にしないでくれ。……それで、何の話をしていたっけ?」


 疑うような目でセロを見つめて、タークはしぶしぶ口を開いた。今度は少し怒っているように見える。


 「ぼくが長生きをすれば、チャアとずっと一緒にいられるっていう話をしていました。そしたら、セロさんが急に喋らなくなっちゃったんです」


 「ああ、そうだったな。タークがずっと元気でいてくれたら、チャチャも喜ぶんじゃないか?良いアイデアだな」


 「え……そ、そうですか?」


 珍しくセロに褒められて、タークは照れくさそうに笑っている。とても嬉しそうにはにかむ彼を見つめて、セロはそっと呟いた。


 「ターク……君は本当にすごいことを発見したかも知れないな……」


 「うん?何ですか?」


 「いいや、何でもない。さあ、そろそろ部屋に戻ろう」


 セロは絵に背を向けて歩き出した。


 もし、兄が本当に生きているのだとしたら……セロの過去は大きく覆されることになる。考がえれば考えるほど渦を巻く疑問に、彼の頭は早くも混乱し始めていた。


 しんと静まり返った部屋に舞う埃が、カーテンの隙間から漏れる光に煌めいている。ベッドの上で目を閉じても、次々と浮かんでくる思考のせいで目が冴えてしまう。


 穏やかに眠るタークと違って、セロはなかなか眠れそうになかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る