第36話

 アルスは金魚鉢を持っていた女を傍へ呼び寄せた。

「お騒がせしてごめんなさい。名前、まだだったよね。オレ、アルス・セル―……」

 彼はリスティを一瞥した。意地の悪い笑みが返ってくる。

「王都で役人やってます」

 嘘を通す。金魚鉢の女は疑っているのか否か、わずかに首を傾げ、考えたふうな所作をとった。

「お若いのにすごいですね」

 信じたのか否か、彼女は無愛想だった。関心を持たれていないようである。そのために後ろめたさは和らいだ。

「自分はミーサと申します。お連れの方はロレンツァの若市長さんですよね。昔、見たことがあります」

 ミーサと名乗った彼女はセルーティア氏の出ていった方角を見遣った。半ば蔑んだような目付きは先程の騒ぎが理由か。

「そ、そう、金魚のことも看られるっていうから、ロレンツァから呼んできたんだ」

 嘘に嘘を重ねたが、実際セルーティア氏であれば金魚の診療もできそうなものである。

「手広くやってるんですね。ロレンツァの若市長は助教授もやっているとか聞きましたけど」

「すごいよね」

 手広すぎるあまり、苦々しい思いに苛まれている。まだ油断できない。セルーティア氏はもしかすると、王子を治療する気など最初から無いのかもしれないのだ。

「ひとつお訊ねしたいことがあって、それをお聞きしたら帰ります」

 ミーサと名乗った女の眉が揺らぐ。

「何?」

 彼女の態度にアルスも警戒してしまった。低い声が出た。

「シーゾンズという男をご存知ですか」

 シーゾンズ。記憶を辿る。聞き覚えはない。しかし幼少期から今現在まで、浅い関係を築く場面を思い返した。副業の知り合いではない。城の官吏でもない。立ち寄る店の常連客でもなさそうな。街で出会った同世代の知人たいにもいない。

「ごめん、分からないや。どういう関係の人?」

 ミーサの表情は曇っている。しかし返答を聞くやいなや、晴れやかなものに変わる。

「いいえ……その知り合いと、まったく同じことを言うものですから」

「え?」

「戦争に対する思想が強くて……」

 彼女は歯切れが悪くなった。アルスもまたばつが悪くなった。あれは自分の意思ではなかった。

「国に殉じたがるところとか……でも、ロレンツァの若市長が聖石信仰者だったのには少し驚きました。ロレンツァって、精霊指定都市でしょう。精霊信仰にかぶれていてもよさそうですが」

「精霊指定都市?」

 アルスはミーサからリスティへ目を移した。リスティは呆れた様子で顔を逸らす。彼はミーサに向き直ったが、怪訝げな視線が差さる。役人は知っていて当然のことなのだろう。

「あ……ちょっと、頭打っちゃっててさ、記憶がところどころ、曖昧っていうか……」

「そうですか。そういうことなら、お大事に」

「う、うん。色々と迷惑かけてごめんね」

 ミーサは金魚のように口を動かし、まだ何か言いたげであった。けれども言わないことを選んだらしい。目を伏せ、帰っていく。リスティが見送った。

 しばらくしても、セルーティア氏は戻ってこなかった。世間的有名人である。名目上弟子扱いの2人のことなど忘れ、接待を受けているのかもしれない。空が暗くなる前にリスティを帰し、アルスは枕元の台に置かれた金魚鉢を眺めた。呑気に泳いでいる。幼馴染がこの緋鮒になっていることがとても信じられなかった。不安を募らせる。氏は何をしているのか。


 朝になってもセルーティア氏はアルスの病室に顔を出すことはなかった。宿からやってきたリスティに病院へ問い合わせさせると、氏は入院患者を回診しているのだという。アルスは嫌な予感を覚え、跳び起きた。

「じゃあ、王子のことはどうなるのさ」

「先に金魚を持って帰るようにって」

 金魚を回収できればそれでいいのか。それで務めを終えたというのか。今は何よりも王子が必要なはずではないのか。

「どうする?」

 一気に身体が火照り、喋ることも忘れた。背中からは汗が噴き出し、腹のなかのものが熱湯に変わった。

「待つよ。金魚だけ帰っても意味ないでしょ……リスティは、帰りたい?」

「アルスくんに付き合うわ。とことんね。ここまで来たら」

 彼は看護師に処置されると、外へと出ていった。憤怒に焼かれていた。誰とも口をききたくなかった。ロレンツァから王都へ、王都からテュンバロまで付き合わせたリスティを冷たく振り切って、医療用の管も剥がしてきてしまった。

 観光をするでもなく、朝のテュンバロを徘徊する。行き交う制服の人々は、これから各々の大学や研究所へ向かうのだろう。アルスは脇道を通り、海に向かっていた。海を目指していたのではない。ただ人目を避けているといつの間にか辿り着いていたのだった。高台から水平線をのぞみ、やがて浜辺に降りた。

 空は青く澄み、海は淡い藍色をして、彼の視界を横に二分する。柔らかな風は磯の香りを含んで、指で擦りつけたような雲を泳がせている。穏やかな光景であった。とても王都では城が崩壊し、王子が仮死状態にあるとは思わなかった。テュンバロには観光に来たのだ。そう思わせる。焦りも怒りも空しいものだった。虚構に腹を立てている。空想で不安になっている。錯覚のために、大切な友人を冷たくあしらってしまった。

 海鳥が鳴いている。さざなみに宥められる。一体何をしに来たのか。

ざら……ざら、ざら……

 砂を漁る音が聞こえた。子供が砂遊びをしているのであろう。高を括って振り向くと、見覚えのある男が砂を掘っていた。アルスの視線に気付いたのか、その者も顔を上げる。血色の悪い、髭面の男だ。船酔いによってさらに顔色が悪くなっている様を知っている。

「あ……!」

 互いに顔を見合わせた。面構えは記憶にあるが、しかし肝心の名前が出てこない。

「これはこれは。ロレンツァに無事辿り着けたようですな?」

 相手もまた、アルスのことを覚えている口振りである。

「ええ、まぁ……」

 その間に一度王都を経由しているが、誰が説明もなしにそのような事情を把握できるだろう。

「観光ですかな? 浮かぬ顔をしてこの辺りにおりますと、通報されてしまいますぞ。この近辺は"そういうこと"が多々起こりましてですな……主な理由は学業不振が大半を占めておりまして。次いで学内排他、その次つまり第3位が抗議の意を示すための―……」

 この学者の男の名は思い出せなかったが、話が長かったことは思い出せた。

「浮かない顔なんてしていましたか、オレ。むしろ綺麗な海に感心していたくらいなのですが……」

「綺麗なものには常に、魔物が棲みついていますからね」

 まさに、ロレンツァの市長のことではあるまいか。

「うんざりですよ……」

「おっと、やはり何か悩みごとが?」

 血色の悪い髭面の学者は砂から貝殻を摘まみ出す。

「潮干狩りですか」

「講義で貝殻を使おうと思いまして。ご存知ですかどうですか、テュンバロでは王都と違って、子供は6年間教育を受ける義務というものがありますからね。少し前までは権利だったのですが、権利では軽視されてしまうのです。テュンバロ市長が義務としましてね。若手の育成にもちょうどいいでしょう。それで、1年目の子供たちに、貝殻を使った講義をしようと思っておりまして」

 アルスは半ば乱雑に相槌を打ち、話が終わるのを待っていた。

「それじゃあ、貝殻を集めればいいんですね。手伝います。暇ですし……」

「観光中にやるようなことではございませんな。海を知らないでもないかぎり」

「観光じゃないです。お遣いです。まぁ、すっぽかされたようなものですけど」

 この名を思い出せない学者から道具を借りて、アルスは貝殻を集めた。その間、名も立場も伏せ、ある高名な人物がある差し迫った状況にありながら約束を果たさずにいることを相談した。的確な助言を求めてるわけではなかった。それならば具体的なことを説明する必要があろう。

「はあはあ、セルーティア助教授ですか……」

「えっ」

「昨日、セルーティア助教授がテュンバロに来たという噂を耳にしましてね。私の教え子たちも私の講義など放っぽって、セルーティア助教授の教えを乞いに行くだなんてはりきって行ってしまいましたよ。それはそれとしても、偏屈ぶりは界隈で有名ですのでね。悪意もなく悪行ともいえないので、巻き込まれる人々はやりきれないものですな」

 次々と容器に貝殻が放り込まれていく。アルスの手は止まっていた。

「先生も大変でしたね。セルーティア助教授と、実際に会ったことは?」

「先生だなんて、そんなそんな……実際に会ったことはないですな。直接的な関係はありませんが、まぁ、苦い思い出はあります」

「……といいますと?」

 青白い髭面に自嘲が浮かぶ。

「一時期、セルーティア助教授の研究室が開かれると我が工農大でも話題になりましてね。結局は噂に過ぎなかったのですが。いやぁ、私の教え子たちも移籍を検討していたらしく、何件も相談を受けたものです。戻ってきたのもありますが、居づらさを感じて大学自体を辞めていくのもありました。若い子が無理をして、そんなことを考えなくてもいいのに……真面目で思慮深い子ほど、追い詰められていきますな」

 貝殻で満たされた容器を、顔色の悪い学者が持ち上げたとき、浜辺に学生が駆けてきた。砂が爆ぜる。学生は顔色の悪い学者に向かっていって、アルスを気にした後、学者のほうに耳打ちする。血色こそ良くないが、飄々とした学者の顔に動揺が走る。彼はアルスを見遣る。目が合ってしまった。

「どうかしたんですか」

 何か用がある。直感がそう告げる。しかし重なった視線は千切られてしまった。

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