第35話


 緋鮒を渡したのは"レーキエム錬金骨董品店"という胡散臭い看板を掲げた、薄暗い内装の店舗であった。アルスは扉を蹴破る勢いで飛び込んだ。金魚鉢を抱えていた女の口振りから、緋鮒へ用事は緊急を要しているようだった。

 一見すると客はいなかった。店員もいなかった。彼はろくに店内を見ていなかった。見回す余裕などない。店裏へ突っ切っていった。店裏は店頭以上に暗かった。窓は幕が降ろされているだけでなく暗い色で塗り潰された板を張り、家具もまた暗い色味で揃えられている。ところが一点だけ局所的に明るかった。人型の影絵が浮き上がっている。後ろ姿だった。その者は鍋とも壺とも判じられない容器を掻き回していた。小気味よい音が聞こえている。内容物は沸騰しているらしかった。昔に読んだ"国盗り魔女物語"を思い出す。挿絵その通りの光景であった。その本では、壺に投じられるのは若い蛙であった。だがあれは本である。実際は緋鮒なのかもしれない―……

 呆然としていた。同時に危機感も働いていた。彼は運動能力任せに鍋壺へ走った。目の前では緋鮒が宙を泳いでいた。否、泳いでいたのではない。降下しているのだ。降下しているのみだ。

 アルスの手は確かにその小さな躰を捉えていた。幼少期から鍛えられていた。発育に支障をきたすと師匠が苦言を呈されるほど過酷だった鍛錬がここに来てやっと実を結ぶようである。海に現れた巨大な怪魚にも王都を襲った大鉞の魔人にも通用しなかった水泡の努力がやっと顕れるのだ。

 掌のなかに幼馴染がいる。王子が。これですべて解決する。決着できる。平穏な日々に戻れるのだ。王城も住まいも失ったけれど。大臣に憎まれ口を叩き、幼馴染と散策し、副業に勤しんで小遣いを稼ぎ、たまには知り合ったばかりの学友の顔を覗きに行く。

 彼の足は床を放していた。魔術なしにいつまでも宙に横たわっているわけにもいかない。その身体は大鍋に落ちていくしかないのである。

『すみませーん』

 王都の裏通りで流行った諺がある。"客とは悪い時期に来るものだ"だ。アルスも城に隠れて傍ら仕事に励んでいたとき、先輩から幾度も聞かされた。

『金魚鉢が必要かと思いまして……』

 声からして先程の女であった。鍋を掻き回していた人物は唖然としていた。老翁であった。どこか陰湿な印象を与える皺を眉間や口元に刻んでいる。色黒で、外見から推定される年齢の割りには矍鑠かくしゃくとした体格のように思えた。アルスも少しの間、その唖然とした顔を見ていたが、やがて己の状況を理解しはじめる。高温の液体と破片をしとねにしていた。身体が動かない。しかし麻痺しているわけではない。衣服が濡れていく。熱い。けれどそれよりも、セルーティア氏に炙られた手が酷く痛む。だが、緋鮒を放してはいけない。けれども手が痛い。

「助けて!」

 表にいる客が金魚鉢を持っている。

 彼は叫んだ。こちらにやって来る物音がした。

「金魚を……金魚を!」

 それしか言葉が出てこなかった。金魚鉢が差し出され、アルスは慌てふためきながらも緋鮒を放る。そしてやっと自身の痛みに集中することができた。

「一体何だというのだ!」

 老人が怒鳴った。

「とりあえずそこの医科大に連絡します」

 金魚鉢の女が店を駆けだしていく。



 アルスは王都前テュンバロ医科歯科大学テュンバロ本校に運ばれた。医科歯科大学だが、病院が併設されていた。

 店主によるところでは「水主瑠璃みずるりと呼ばれる人工クリスタルの類似品を製造中、見ず知らずの若者が突然現れてこのような事件を起こしたのだという。

 アルスの浴びたものは高温状態の魔凪マナになる前の魔分子というものらしかった。ただちに洗浄が必要であるために、彼は車輪台に乗せられ処置室へ運ばれた。

 このとき彼は傍にいた金魚鉢の女の腕を掴んでいた。最優先事項は緋鮒である。王都の診療所を退院したかと思えばまた入院生活である。

 緋鮒は彼の枕元の台の上で悠々と泳いでいた。狭い金魚鉢のなかで金色の鰭を揺蕩たゆたわせている。アルスから見て2つほど年長の幼馴染は理知的な人物であった。だがそこに、知性は感じられない。円らな黒い眼は何を見ているのだろう。

「大事な金魚なんですよ」

 椅子に座っていた金魚鉢の女が顔を上げた。

「幼馴染が飼っていた金魚で……だから、見つかってよかったです。お代はちゃんと返しますから、もう少しだけ待ってください」

 すべてのことを打ち明けるわけにはいかなかった。しかしある程度、彼女は事の経緯を、納得できる程度の物語性を信じる権利があるように思われる。

「王都から来たんですね。王都の方かな、とは思ったのですが」

「そうです。どうしても、この金魚は……」

 国にとって必要なのだ。早急に王都に帰らなければならないのだ。だというのに、彼は寝台に横たわり。管に繋がれている。

「テュンバロならもっと高い値段で売られていてもおかしくない、綺麗な金魚でびっくりしたんですよ。鰭と鱗に傷がないし、鱗も艶があって。だから買ったんです。でもちょっと……簡単に手渡した手前、あまり説得力ないですね」

 彼女は途中、言葉を詰まらせた。眉根を寄せた。けれども何事もなかったかのように続きを話す。

「幼馴染の方のお世話がきっと細部まで行き届いていたのでしょう」

 しかし事実は違った。その幼馴染こそがこの緋鮒なのである。

 しばらくすると、セルーティア氏とリスティが病室を訪れた。ロレンツァの市長という肩書きは何かと融通が利くようだ。面会の受付時間はすでに過ぎていた。

 金魚鉢を持っていた女は帰ろうとしたがアルスは引き止めた。咄嗟であった。彼女を帰してもいいはずだ。緋鮒を返還した今、用は済んだはずである。だが彼女が帰ろうとした途端、焦ってしまった。その理由は分からない。この女をアルスはよく知らない。それは恋心というものとも違った。

「お代返したいからさ、もうちょっとだけ。オレの友達のことも、紹介したいし……」

 彼女は控えめに承諾を示すと、ふたたび隅の椅子に腰を下ろす。氏の冷ややかな隻眼が彼女を一瞥する。アルスは慌てた。

「さっきはどうも失礼しました。先に王都に帰っていてください。オレはこの有様ですから。一刻を争うのでしょう」

 テュンバロでも寝て過ごすことになるらしい。彼本人に負傷している意識はなかったのだ。氏は冷ややかな隻眼をくれるばかりである。賛否は読めない。リスティのほうは納得していないようだった。

「ごめん、リスティ。遠くからついてきてもらったのに、こんなことになっちゃって……」

「それは別に構わないけど、アルスくん1人置いていくっていうのに少し気が引けただけ。でも仕方ないわね。一刻を争う、のでしょう?」

「ええ、少しだけ?」

 彼はおどけた。まともに受け答えるには、自分が情けなかった。

「それで十分でしょう? これくらいよ」

 リスティもこの年少の連れに甘いらしい。指で程度を示す。

「あの遺品は処分されましたか」

 入ってきて早々に病室を見回していた氏は一点に橙色の隻眼を留めた。そしてそのまま口を開く。表情は見えなかったが、見えたところで読めた人物ではない。処分していないことを確信している物言いであった。その眼差しは例の物品を入れた箇所に向いている。

「そんなにこれが危ないものなら……王国千巡万歳!」

 顎が勝手に動いた。まるで咳嗽がいそうのように喉を突いて出る。

「直ちに捨ててください。魔物になりかかっています」

「王国万歳! 千巡万歳! 国王千年国万年! 艱難即滅国名不滅! 尊王排敵!」

 己のまったく知らない、口にしたことも、しようとしたこともない言葉が滑らかに漏れ出ていく。病院で叫ぶことではない。王都の広場で似たような文言を声高に繰り返していた群集を蔑んでいたほどだ。

「何言ってるの、アルスくん。それって……」

 セルーティア氏は枕元にある回球筆を手に取ると、杖にして黒リボンを押し込んだ花瓶へ向けた。

「晶石の恵みに還りなさい」

 まるで聖石信仰者のようだった。軽快な音がする。氏の指には回球筆の破片が抓まれている。花瓶は粉砕され、黒いリボンは灰燼と化していた。

「何するんだ!」

 管に繋がれていたアルスは目を血走らせ、自分よりも小柄で痩躯の氏に掴みかかり、床に押し倒した。氏の当布が翻り、爛れた目元が露わになる。

「ばか野郎! なんてことを!」

「アルスくん!」

 部屋の隅にいる金魚鉢を持っていた女も椅子から立ちあがり、戦々恐々として様子を窺う。

 リスティは彼を羽交い絞めにしてセルーティア氏から引き離した。

「放せっ!」

「アルスくん、おかしいわ、あなた!」

「放せ! 放せ! オレは御国のために散るんだ! ……それは嫌だ!」

 狂人から開放された氏は徐ろに起きた。そこだけ切り取れば、さながら優雅な朝の目覚めといったところだろう。リスティに反して呑気なものであった。

「セルさんは憑かれています。問題の品は焼き払ったのですが、少し遅かったようです」

 氏はリスティに拘束されている狂人へ手を翳した。光が集まっていく。

「大丈夫なんですか、今のアルスくんに、そんな……」

「已むを得ません」

 しかしアルスはリスティの腕を振り払った。またもや氏の痩身を突き飛ばし、猿猴のごとく走り出した。窓を破って、病院の外へ逃げる。ところがそう易々と二度も三度も見逃す氏ではない。放出される機を失った魔力を握り潰し、新たな光をつめると、窓に向かって解き放つ。まだ残っていた硝子も窓枠も爆発四散する。そこには窓どころか壁がもうなかった。

 アルスは撃ち落されていた。氏は落ち着いた足取りで壁の穴をくぐった。そして倒れている入院患者に掌を構える。彼には意識があった。

 彼は動けなかった。氏は視認できない何らかの方法で、その四肢を封じているらしい。

「晶石の恵みに還りなさい。大地一体を祝福します」

 セルーティア氏は馬乗りになった。そして光り輝く拳を振りあげる。だがアルスの落ちてくることはない。氏は腕を掴まれていた。リスティである。己が住む土地の市長を雑に放り投げた。彼女は無防備に四肢を投げ出すアルスを転がしうつ伏せにすると、彼女も馬乗りになった。片腕を拾う。

「アルスくん。抵抗するなら締めあげるけど、どうする」

「オレも訳分かんないんだって。オレ、病気なの?」

 アルスは首を伸ばし、リスティを見上げた。眉を顰めていた彼女の表情に憐憫が滲む。

「違います。病気ではありません。故人の強い魔凪マナを携帯していたのが原因でしょう。人々が魔力として使える力はもう朽ちていますが、思念が残ってセルさんに干渉してしまったのです。魔凪還りといいます。覚えておいてください。原因のものを破壊したので、今は様子を見ます」

 氏はリスティを見遣った。

「フラッド夫人。申し訳ございませんでした。ありがとうございます」

「え? いいえ……こちらこそ、失礼な態度を……でも、いつものセルーティア先生ではないような気がしました」

「そうでしょうか。僕はそうは思いませんでした」

 壁の大穴から金魚鉢を持っていた女が顔を覗かせている。アルスはその姿を見遣った。何故あのリボンに固執したのだろう。

 セルーティア氏はこの迷惑患者を院内に戻し、管を刺し直すと、壁を破壊したことについて施設の関係者と相談にいってしまった。

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