第34話
テュンバロは平地で、赤煉瓦で舗装されていた。様々な制服が行き交い、王都を見慣れていると一種異様な感じがある。
大通りには書店や文具店が並び、生体販売店もあった。実験台用と看板にはあった。この街の入口にあった小動物たちの銅像は慰霊碑だったのだ。王都と違い、飲食店は裏通りに集まっている。
前を行くセルーティア氏を見失わないようにしながらも、アルスは
氏は門を潜るのかと思われた。しかし踵を返す。氏の足取りは先程から建物に入ろうとしては引き返す。けれども迷っている様子はないのである。
おそらくセルーティア氏の意思ではないのだろう。だが行っては戻ってを繰り返しすぎている。氏は奇人だ。奇行こそ尋常であった。到底、アルスには理解が及ばない。けれども今は氏を信じるほかない。
結局、テュンバロ工業農業大学の敷地に入ることはなかった。氏は緋鮒の軌跡を辿ると学園通りと札のかかった大通りへ戻ってきてしまう。一体、王子の魂が入った緋鮒を携えた者は何を企んでいるのだろう。この移動は本当に王子に繋がるのであろうか。まるで追跡者を翻弄するかのようだ。決めては躊躇し、惑っている。
「探している人は、自分の持っているものがどういうものか分かっているんですか」
「魂を抜いた張本人ならば、或いは」
一瞬、アルスは寒気を覚えた。だが雑貨屋の店主の言葉を思い出した。買っていた客は小柄な女性だ。
セルーティア氏は隻眼で彼を一瞥すると、話は終わったとばかりに西へ歩いていった。
テュンバロの最西端には小高い丘がある。その頂上に一本大きな樹が聳え立っていた。王都が城を象徴としているのならば、テュンバロはこの樹であろう。とはいえ実際のところは実験台として散っていた小動物たちの慰霊碑こそがこの街の象徴であるのだけれど。
樹には白色や灰色、銀色とも判じられる薄紅色の花が咲き、さながら雲のように日の落ちかけた空にたなびいていた。
氏は急に止まり、アルスはその背中に追突した。薄紅色の花雲に見惚れていたのもあろう。
「あの先です」
アルスは身を傾けて、セルーティア氏の示す頂上を仰いだ。その途端、彼は眼前に稲光を感じた。立ち眩みを起こす。だが天気は晴れ。花を見紛うが、雲ひとつない。
「傷に障ったんじゃない、あなた」
後ろから来たリスティが言った。大した心配はしていないらしい。彼を追い抜いて氏と並んだ。
「ちょっと貧血なだけだよ」
先に丘を登っていく2人の後に続く。彼はまた己の身に起こる異変にたじろがなくてはならなかった。一歩一歩踏み締めるたびに、彼の目蓋の裏には見覚えのない光景が閃く。まずは焼かれた村である。本を読む趣味はなかったが、昔、何気なく読んだ戦記の空想が忽如として甦ったのであろうか。
頂へ着く前にセルーティア氏は振り返ってその場に
その頃には彼は胸の苦しさに動けなくなっていた。呼吸が荒くなる。身体がおかしい。四肢が動かない。関節が固まってしまった。けれども病質のものではないようであった。
「セルさん。動かないでください」
氏は手を構えると光を集めた。長い棒の形を持つと、その輝きは剥がれていく。氏の手には先日、狒々緋羆を突き殺した杖が握られている。杖はアルスに向けられた。火を吹く。分厚い肉を焼くような火の息吹であった。
身に迫る危機によって、硬直していた身体が咄嗟に動いた。セルーティア氏が狙っていたのは彼の衣嚢であった。それを手で防いだ。魔火に曝された皮膚は赤く爛れていく。傍で見ていたリスティは面食らっていた。頂上から金魚鉢を抱えた女も何事かとばかりの眼差しをよこして降りてくるところであった。後頭部に団子状に髪を纏めた小柄な女。雑貨屋の店主の言葉どおりである。
アルスはその女の姿を捉えた。視線が
セルーティア氏はリスティの前に腕を構え、接近を制した。
「故人の強い
氏は衣嚢を庇う腕を掴みあげた。その手は焼け爛れて赤く染まり、薄皮は煤けている。
「大事なものなんです」
彼は叫んだ。しかし自分の意思ではなかった。セルーティア氏に
「晶石の恵みに還りなさい」
アルスは衣嚢のなかに手を伸ばす必要性に駆られた。だが四肢は動かない。関節は固まっている。氏の隻眼に敵意の炎が燃え上がる。
金魚鉢を抱えた女はこのやり取りを戦々恐々とした様子で窺いながら、丘を降りていってしまった。リスティもまた苦しい立場にいた。彼女を追うべきか否か迷ったようだ。結果、野放しにできなかったらしい。一度は降りかけた足は金魚鉢の女を諦め、アルスとセルーティア氏の対峙の場面に引き返す。
「セルーティア先生? 何を考えているんです」
「セルさんの持ち物を出してください。援護します」
まるで仲間割れであった。氏は杖を構えたまま微動だにしない。柔らかな風が薄紅色の雲を掻き鳴らし、氏の青い髪を靡かせる。
リスティは訳が分かっていなそうであったが指示に従う。アルスは恐ろしくなってしまった。衣嚢の中身を暴かれていく。攻撃性を帯びた隻眼が瞬時に物品を検分していく。そして黒いリボンが取り出された。アルスは一度呼吸ができなくなった。心臓が跳ね上がった。セルーティア氏の杖に不穏な煌めきが纏わりつく。
彼は自由を手にしていた。耐えがたい衝動に呑まれる。黒いリボンを毟り取り、走り出した。一目散に丘を駆け下りる。行くあてはない。見知らぬ土地である。さらにはこの麻痺薬のごとき正体不明の激情も長くは続かなかった。魔火に炙られた手の痛みを思い出す。思いつきにも似ていた。全力疾走は徐々に勢いを失い、やがてただの歩行よりも衰えたものに変わっていく。まったく知らない場所だ。日も落ちていく。
アルスは溜息を吐いた。黒いリボンを手にして往来に佇む。
これは一体、どういうことになるのだろう。王子の身代わりになるはずの人物が、秘密裏に王都を抜け出し挙句の果てに失踪した。誰に迷惑がかかるのか。まず間違いなく、ガーゴン大臣であろう。アルスは首を振った。逃亡したつもりはないのである。しかし彼はセルーティア氏の前から走り去ってしまったときの心境を理論立てて整然と説明できそうにはなかった。戻らなければならない。あの丘に戻り、氏とリスティに謝らなければ。だがどこから来たのか分からなくなってしまった。セルーティア氏ならばこちらの場所を探り当てることができるであろう。あまり動くべきではない。否、しかし今先程の行いで、氏の怒り狂い、この件を見限ってしまったら……
いいや、いいや。氏はそういう気質の持ち主ではないはずだ!
アルスは所在なく黒いリボンを見詰めた。何故、今になってこの物品がこうも意識を掠め取っていくのか。考えてみた。答えは出ない。氏とリスティのことばかりが気になってろくに考えてもいない。心細くなり、近くの店と店の狭間に隠れて座り込んだ。王都ならば、どこでもある程度地形が似ていた。北に向かい高くなっていく土地を上っていけば王城には辿り着けるものだった。王城に辿り着ければ、城前公園から街道に出ればよいのだ。
「さっきの人ですよね」
その声とともに、外灯が点いた。逆光して顔は暗く塗り潰されている。けれども金魚鉢を抱えているのが見えた。ところが緋鮒が見えない。白く反射しているだけなのだろうか。座って間もないが、彼は跳び上がった。
「金魚は……?」
女は「えっ」と目を丸くした。彼は勢い余ってその頑丈とはいえない肩を鷲掴んでいた。触れるやいなや、胸が爆ぜるような衝撃に襲われる。頭も吹き飛ぶかと思われるほどの、恐ろしい光景が駆け巡った。しかしどれもひとつとして取り出して眺めることはできない。一瞬で忘れてしまった。
アルスは手を放した。努めて落ち着く。暗さゆえの見間違いかもしれない。
「金魚は?」
「そこの店の主人がどうしても今すぐ金魚が必要だというので、渡してしまいました……」
肝を潰す。あの緋鮒を求めてここまで来たのだ。
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