第33話
彼はセルーティア氏の姿を認め、慄えあがった。氏は顔面に大きな引っ掻き傷を負っていた。皮が捲れ、肉が
目眩がした。吐気を催す。
「どこか怪我をしましたか。診せてください」
もはや皮肉の部類であった。指先に燈火を携えた氏は平然としている。
「オレはありませんけど、先生は………」
言葉が続かない。出てこなくなった。氏は自身の状況を知らないのではないか。
「何故こちらにいらしたのです」
「それはこっちの台詞です。先生がこの森に入ったと聞いてきたんですよ。一体何故? この場所に何の用があるんです」
アルスは氏から目を逸らした。見ていられない。
「僕の昔の患者が帰ってこないとご家族の方から聞きましたので、探しにきたのです」
氏が容易に指先に炎を点したように、アルスもまた一瞬にして怒りを腹に点した。しかし自ら吹き消す。セルーティア氏とは
「それで、見つかったのですか」
「はい。この先にある岩に置いてきました」
「置いてきた?」
「その羆はヒトのオスを狙うのです。しかしヒトのメスでも脅威は脅威。セルさんを助けに行くには、彼女を置いていくのが無難でした」
嘆息を堪える。そしてアルスは手にしているものを確かめた。木でできた杖だ。子供の身の丈ほどもある。彼はそれを覚えていた。この身を裂いた巨魔人を一撃のもとに討ち取ったセルーティア氏の杖だった。尖端には赤味を帯びながらもどす黒い液体が塗られている。そしてその先に、毛の生えた塊が横たわってある。
彼の視線の動きを氏は把握していたようだ。
「この林に棲んでいた野生動物でしょう。乱波導を受け、魔のものと化してしまったのだと思われます」
足元に転がる毛皮から目を逸らし、改めて悲惨な有様の氏を見遣った。
「セルーティア先生は、町へ戻ってください。オレが先生の患者さんを連れて戻ります」
「いいえ。僕が行きます。セルさんもついてきてください。帰り道が安全とも限りません。先程の嘔吐感は、内臓を損傷したのではありませんか。胸部或いは腹部に痛みはありますか」
「いいえ、いいえ、違います。どこも怪我はしておりません。ですが先生、先生こそ、その怪我はすぐに手当が必要なのでは……」
治療したとしても傷ひとつ遺さず癒やすというのは難しそうな怪我について、氏はまったく意に介さないようだった。緊急時とあって、痛みもないのかもしれない。
「僕の怪我が気になりますか」
炎を点したのとは逆の手で、氏は輝く掌を顔面に当てた。剥かれた皮と抉れた肉が元の形に戻っていく。
酷い幻を見ていた気になった。セルーティア氏の顔面は、宿で分かれたときとまったくそのまま変わらない。アルスは束の間、凝らしてしまった。粗を探そうとした。傷のひとつでも見つけようと。だが見当たらなかった。少なくとも揺らめく緋色の光のなかでは見つけられなかった。
夜風が吹いた。血に染まった片目の当布が翻る。覆われていた爛れだけは、氏の力を以ってしてもそこに在り続けている。
「杖を返します」
セルーティア氏に身を挺して庇われたのだ。
「守ってくださってありがとうございました」
「感謝は不要です」
顔面の大部分に受けた傷を治した掌が杖の端から端までをなぞっていく。アルスの手にしていたものは光る粒子と化して霧散した。
「僕の傍から離れないでください」
アルスは恥ずかしくなった。無力で弱い自身が嫌になった。彼よりも若く見え、華奢な体躯の氏の容貌がそれを助長するのだろう。幼馴染の言葉が甦った。そして今になって理解した。何故リスティがこの旅についてくると言ったのか。
「オレは守るに値する立場の人間ですか」
「この現状にあっては、誰より守るに値する立場の人間です。或いは国王よりも然り」
彼は氏のあとをついていった。話のとおり、林のなかに
町へ帰る最中、行きで出会った小さな
「この女性は、林のなかに逃げてしまった猫を探しに、こちらへ行ったのだと家族から聞きました。その猫かも知れません」
しかしその猫だと推測しておきながら、セルーティア氏は町のほうへ進もうとする。
放っていこうとした小動物がその一言によって急にこの林に放置しておけなくなった。
「この猫かもしれないと?」
「可能性はあります」
だがやはり、セルーティア氏からその猫をどうしろと言うことはなかった。むしろ背を向け、町へ帰ろうとしている。アルスは猫を抱きあげた。喉を鳴らして振動している。野生にしては人懐こく、毛並みがいい。合点がいった。
狒々緋羆はその獰猛さゆえに積極的に人を襲い、浴びた返り血からとって緋羆と名付けられた……
道すがら聞かされた
予定よりも大幅に遅れて起床した。
食堂で朝昼兼ねた飯を食っていると、昨晩行方不明になった女の家族が礼を言いにきた。アルスは相席しただけの他人を装ってしまった。自分が林に入らずとも、セルーティア氏ひとりですべて収拾することができたのだ。何もわざわざ余計な手間を増やし、氏を危険な目に遭わせる必要もなかった。無駄であった。寝る時間を徒らに削っただけのことである。
ばつが悪かった。誰に対してでもない。自身に対して嫌になった。席をわずかに離し、混合豆の
女の家族はセルーティア氏の滞在を求めていた。だが氏は
家族は彼等の目的地を知るとテュンバロ行の馬車を手配した。家業のために馬車を手配することがそう難しくないらしかった。
『ありがとうございました、セルさん。そしてセルーティア先生。夜遅くにもかかわらず、娘を助けてくださって感謝の言葉も尽きません。本当にありがとうございました』
『い、いいえ……オレは何もしていなくて、全部、セルーティア先生が……』
『そんなことはありません! 捜索が打ち切られるところだったのです! セルさんがあのとき林へ飛び込んでくださったおかげなのです。きっとうちのばか娘は、またあの猫を探しに林に戻ったに違いありません。ありがとうございました』
馬車の窓から見える薄らと透けた山が横へと滑っていく。
「セルーティア先生。すみません。昨夜はどうも余計なことをして迷惑をかけて……怪我まで負わせました」
リスティは眠っていた。それがちょうどよかった。当のセルーティア氏は持参の紙束を捲っていた。
「謝罪は不要です」
「でも、させてください。不要な程度なら」
「何故、謝るのですか」
「自分の不甲斐なさを訴える相手がほかにないからです。自分の不手際を自分以上に知っている人が、今はセルーティア先生以外に……」
紙面を這う視線は止まったが、その目はまだ紙に落ちている。
「先程の会話のことですか。セルさんはあの場に必要でした。少なくとも僕に猫を手懐ける力はありませんでした。林を傷めずにあの羆を屠る技量もまた」
馬車が大きく揺れる。鈍い音がした。リスティが頭を打って、目を覚ます。
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