第32話

 だんだんと怒りが湧いてきた。セルーティア氏は王子の蘇生など、したくないのではあるまいか。うんざりした。しかし探すほか、今は道がない。

 にゃん……

 アルスは立ち止まった。魅力的な声を聞いた。見つけて、その姿を眺めたい。あわよくば撫でたい。約束しては次から次へと厄介事を増やすセルーティア氏の捜索をやめ、その小動物と戯れていたい。

 欲求は膨らむが、しかし氏を見捨てるわけにもいかない。


 王都を発つ前に、アルスはシールルトくんに会った。彼は目を覚まし、経過は良好だという。負傷前後の記憶は曖昧なようだった。

「シールルトくん」

 まだ万全ではないシールルトくんに、障壁の礼は早い。何故自分が入院しているのか、分かっていないようだった。巨大なまさかりに斬り裂かれる。恐ろしい体験だっただろう。全治にはまだ時間がかかる。彼の心身が共に好くなるまで、まだ言わないでおくことにした。何故彼が入院しているのか。アルスも知らないふりをする。

「ちょっと遠くへ出掛けるんだ、オレ。セルーティア先生も。仲良くしてくれてありがとうね」

 上体を起こせないシールルトくんは、気難しそうな表情をアルスの立つほうへ傾ける。

「別に仲良くはしていない」

「ええ? そうだった? でもオレは仲良くしてもらったと思ってたんだけどなぁ。学園のこと、よく知らなかったし……また戻ってきたら、シールルトくんのところに来てもいい?」

「拒否はしない」

 アルスはシールルトくんが気拙きまず下に目を逸らしたのを見た。

「おめでたいな、君は。ぼくを一方的に友人だと思い込んで、わざわざ挨拶に来たのか」

 アルスは微苦笑した。詳しくは言えないことがある。

「実際、お世話になったんだよ」

「律儀なことだ。セルーティア助教授と一緒なんだろう? 余計なお世話ついでに言っておく。学園では上に逆らっちゃいけない」

 そのような台詞を前にも聞いた。そして言った本人も妙な顔をする。

「どうして?」

 しかし、知らないふりをした。それは血塗れの光景と共に焼き付けられている。

「学園の鉄則だ。あそこは論文で偉くなるんじゃない。権謀術数で偉くなるんだ。君は出世できなそうだから」

「うん。肝に銘じておくよ。出世、したいもんな」

 シールルトくんはアルスを見詰めていた。危険な眼差しに思えた。記憶を手繰り寄せようとしている。

「明日の朝、出ると思う。シールルトくんは休んでる時間だと思ったからさ。遅くにごめんよ。じゃあ、お大事に」

 部屋を出ていこうとした。

「セルくん」

 シールルトくんは天井を見上げていた。

「ありがとう。礼は言っておく。君の声に寄り添われた気がする。勘違いなら忘れてくれ」

 アルスは嫌になってしまった。シールルトくんから顔を背けた。眉頭がぶつかりそうになる。感謝される資格などなかった。王都に王子が要る大切なときに、己の身可愛さで怖気付いた。王城の上層部で極秘裏に片付けるべき話に、民を巻き込んでしまった。

「照れるよ、面と向かって言われると」

「感謝していることは、感謝すべきだ。怪我なく、な。そのときはもう、守ってやれない」


 セルーティア氏を探し出さねばならない。王子の魂だけが無事でもどうにもならないのだ。

 小枝を踏み締め、荒れ果てた一本道を進んでいく。跡からして、人の往来があったようだ。昨日今日というほど直近では無いが、以前、ここで焚火をした者がいるらしい。地面に焦げのある場所を見つける。炭も転がっていた。

 アルスは狒々緋熊というものを図画でしか見たことがなかった。人を食い殺す恐ろしい魔獣らしいが、王都には出ないものである。彼には危機感が足りなかった。

「セルーティア先生」

 叫ぶ。

 ぐぉぉぉ

 咆哮かと思えば、風野通り抜ける音であった。辺りを見回した。青い髪の毛の束が、渦を描くように落ちていた。セルーティア氏の毛髪ではあるまいか。認めるやいなや、松明の火が消えた。視界は一瞬にして暗くなる。そして静寂に包まれた。風に揺らぐ木々によって、町の喧騒は掻き消えていた。隔絶されてしまった。

 アルスは振り返った。もと来た道を辿れば、人気ひとけのある場所まで戻れるのだろう。しかし町に戻れても、その先にあの平穏で退屈な日々はないのである。進む以外、赦されていない。小枝と落葉の絨毯を踏み分けていく。視角が大して役に立たないことが想像を膨らませる。セルーティア氏はどうなったのか。生きているのか。この後の自分の生活は。王都に戻ったら、何をすればいいのか……

 にぁん……

 脚に柔らかなものが当たった。彼は呼吸を止めてしまった。だがそれがあの魅力的な鳴き声の持ち主だと分かると、その生物を拾いあげた。人懐こい。背筋を一撫でしただけで、抱きあげた毛尨けむくは重低音を響かせる。彼は目的を忘れて遊んでしまった。撫でられ飽きた毛尨に腕を蹴られて思い出す。柔らかな躯体を置いて、また一歩踏み出す。しかし着地するところで、足首にあの毛尨が纏わりつくのだった。蹌踉よろめく。体勢を立て直すことができず、彼は転んだ。咄嗟についた手から、地面が濡れていることに気付いた。雨だろうか。しかし今まで足元に泥濘ぬかるみは感じられなかった。雨の直後の湿気もない。おそるおそる掌を鼻の近くに添えた。生臭さと鉄錆びの匂いがした。彼は息を呑んだ。血だ。

 地に這う体勢のアルスに、彼を転ばせた生き物は身を擦り寄せて喉を震わせる。彼はこの小型の生き物に好き放題されていた。彼は暗い視界で頭を真っ白にしていた。凄まじい恐怖体験が甦ったのだ。偶然によって生き延びたに過ぎない体験が。今度はどうなるのだろう。また同じ目に遭ったときは……

 手が震えた。しかし立ちあがらなければならなかった。膝を払い、そして進む。敏くなった嗅覚が、緑の匂いのなかから獣臭さを探知した。低い息切れも聞こえる。それが小さな体躯から放たれるものとは思えなかった。おそらく大きな身体を持っている。たとえば図画で見た狒々緋羆だとか。

 獣臭さが濃くなった。肌に触れる空気の質感が変わった。それは明らかな変化ではなかった。けれど警戒を強く促すものだった。

 アルスは後ろへ跳んだ。吉とでるか、凶とでるか、少なくとも視認はできなかった。悪臭を帯びた風圧が頬を掠める。全身の毛が逆立った。地面が抉れたらしいのが、音と揺れで分かった。

 悪態のひとつも出てこなかった。逃げる選択があることも忘れた。思考停止。索敵しようと努めるが、呆然としていた。

「セルさん」

 半ば生存を諦めていた人物の声がした。近くにいる。けれど巨躯の凶獣が目の前にいる。返答することもできない。氏を探すのが先か、目先の脅威から逃れるべきか。平穏な暮らししか知らないアルスには判断ができなかった。

 また獣臭い風圧がやすりよろしく皮膚を逆撫でていく。脇からは、繁茂する草木を掻き分けてし折る音もあった。彼の判断と選択の能力を超えていた。

 気配が迫る。正体不明の生物に何かされるはずであった。ところが眼前に視界よりもいっそう暗い陰が影がり込んだ。

「セルさん、逃げてください」

 声は目と鼻の先から聞える。おそらくこちらに背を向けている。何故逃げるのか、その意図の伝わらない冷戦沈着な語気であった。

「先生を探しにきたんですよ」

 しかしアルスは子の緊急性を理解していた。どういう方法であるか確かめることはできないが、なんらかの手段でセルーティア氏は巨躯の生き物の動きを封じ、二者の間に割り込んでくるらしかった。

「しかしセルさんの身に何かあっては困ります」

「オレは先生の身に何かあっては困るんです!」

 ふと、話していた相手の気配が消えた。それをさとった直後、わずかに離れたところで、またもや草木の圧し折れていく音がした。それなりの重量がある落下物があったようだ。

 すべては感覚であった。反射と咄嗟であった。状況を把握することはできず、またそのような時間はなかった。アルスは足元に器物が転がったことを耳で認知していた。そして掴み、踏み込む。師匠の教えには沿っていなかった。対象を捕捉できていない自信のなさが姿勢に現れていた。それでいて一撃必殺しなければならない力加減で構えていた。硬く重いものを貫いているらしい。嫌悪が湧く。粘着性のある汁気を感じる。微かな光が見えた。やはり何か貫いている。光はその影越しに見えた。ただでさえ暗い視界がさらに色濃くなる。アルスは顔面に温かいものを受けた。非常に獣臭く、鉄錆び臭い。知るすべがないのは、幸いか。

 彼は手にしている器物を引き抜いた。べっとりと濡れている。厭な感触と質量と、抵抗がある。ごわついた硬いものは毛足の長い束子たわしを思わせる。

「セルーティア先生……」

 動物を刺し貫いたのだ。その手応えはあった。緊張感が薄らいでいく。それは恐ろしいことだった。彼は理性によって臨戦体勢を保っていなければならなかった。油断はするものではない。してしまうものなのだ。

「目が見えていらっしゃらないのですか」

 目は見えているはずである。だが光量が足らないのだ。

夜目よめが利かない体質タイプでして……」

「そうですか」

 返事とともに、アルスは多少の色味と輪郭を取り戻した。

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