第37話
「いいえ。ついでに野暮用を頼んでもよろしいですかな」
繕うように浮かべられた胡散臭い笑みで、
「はあ、どうぞ」
「釣りは得意ですか」
「趣味程度にはやりますが、
訊ねながら、学者は虚空に手を翳し、釣具を出現させる。
「またまたご謙遜を。趣味ということは、上手いということですな」
異論は認めないらしい。彼は集めた貝殻も置いて、やって来た学生を走り去っていく。
アルスは離れていく2つの背中を見送っていた。何を釣るのかろくな説明はなかったが、適当な用事を言いつけておきたかっただけなのだろう。彼は岩場を慎重に渡り、岩壁の端を潜り抜け、岬の下に出る。目の前は2分割。
魚影を透かすほど澄んだ海水へ釣糸を投げ入れると、後は待機。釣りは自己流だった。集中するのは難儀だった。糸への注意は散漫していく。ロレンツァでの出来事を思い返し、そのまま王都での出来事へ引き続く。己の選択を顧みてしまう。仮想へ期待を抱き、現状に不安を膨らませる。しかし我に返ると、そこには
釣糸が引かれる。魚が食いついたのだ。竿を振り上げる。釣れた。板金製の
釣りは得意ではなかったが、城が崩壊した日、緋鮒が釣れた。そしてそれは王子の魂を宿していた。王子はアルスのこの趣味を知っていた。残酷な話だ。緋鮒に意思があるなどとは。
魚籠に入った魚を見遣った。食用か実験用か。
やがて彼の意識は果てしない空と海に拡散されていった。ぼんやりとしながら魚を釣る
苛立ちながら魚を待っていると、糸が水面ごと揺れた。白波が混ざる。白波は粗くなって押し寄せる。アルスは顔を上げた。あの学者を乗せた小舟が、離れたところに停まっている。人工クリスタルの力で稼動する、魔動小舟だ。
学者は舟の上で両手を振っている。砂浜に来た学生も一緒だ。
「少年! セル少年!」
大声を張りあげている。アルスも手を上げて応える。
「人探しを手伝ってはくれませぬか!」
承諾を身振り手振りで伝える。学者は舟着き場の方角を指した。そこで合流するつもりなのだろう。
重くなった魚籠を片手にアルスは海辺に踵を返す。
合流した学者はさらに顔色を悪くしていた。
「緊急事態ですか」
「ええ、ええ、そうです。おそらくは……おそらくは……確定的ではありませんが……」
「一体誰を探しているんですか」
学者は目を逸らした。
「ビーデルという、私の元教え子でして……」
「元教え子を探せばいいのですね」
「この街にはいません。おそらく、いないでしょう。詳しくは舟の上で……離れ小島まで、ご同行願えますか」
セルーティア氏とリスティのことが浮かんだ。しかし氏には、王子を優先しようとする気配がない。
「いいですよ」
大人が5人も乗れないような、小さく脆げな舟だった。アルスは座っていたが、学者は落ち着かない様子で立ったり座ったりしていた。
「まず……私の能力ではセルーティア氏には到底及ばず、何人かの研究生たちが私の研究室を去っていたことは、先程お話しましたね。そのうちの1人が、ビーデルくんです。今から向かう島で、民俗学をやるとかやらないとか聞いていたのですが」
「セルーティア先生の力に及ぶ人のほうが、少ないですよ……」
返ってくるのは卑屈な微笑であった。
「それで、そのビーデルくんというのが、
「迷惑とは? 火遊びとかですか」
溜息が返ってくる。それを話すのも我が恥だとばかりである。
「その話をするには、まずこの話をしなければなりません。王都の方には大変言いづらい話ですが、島には……凶賊といいますか、王都の安寧が行き届いていないのですな。島の村人に、恐怖政治を敷いているわけです」
アルスは眉間に皺を寄せた。戦争はもうない。飢饉も史書の話だ。
「それは、ずっと放置されてきたことですか」
「四方が海ですからな。都から離れ、閉ざされた土地ですから、横も縦も繋がりが深く、狭い関係ですから、漏らすことは赦されないのでしょう。そしてテュンバロの地域という扱いですから、そんな精霊司定でそんな横暴があるとは想像がつきにくく……」
アルスは話を止めた。
「あの、精霊司定都市ってなんですか」
ロレンツァも、精霊司定都市だという。
学者は不思議そうにアルスの目を覗き込む。
「"精霊の恩恵を優先的に供給する人口の多い都市"と教科書には書かれていますが……」
低まった声に疑惑が滲む。
「ああ、すみません。四則演算も危ういくらいなので……でも、王都というものがありながらそんなことが…・・・」
「王や王子も、津々浦々に目があるわけではございません。島に潜入する
アルスは思ったことと裏腹な返事をした。
「危険ですね」
住民を踏み
「はい。もし危険な目に遭うのが彼一人なら、それはもう半分、自己責任と言い捨てるほかありません。彼は最早、私の教え子ではないどころか、うちの大学の学生ですらないのですから。しかし、私が
学者は嘆息し、項垂れる。
「行政の、仕事ですね……確かに。学生のやることではないです]
アルスはばつが悪くなった。外方を向こうとしたとき、膝に乗せていた手を突如ひとつに纏められた。そして冷たく乾いた手に握り締められる。
「ビーデルくんと同年代の貴方には理解されないことだと思っていました。それでも部外の者に頼ることで内々で済ませようという私の情けなさが、私は恥ずかしい。
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