第30話

 アルスは固まっていた。

「それはどういう意味なのでしょうか」

 ガーゴン大臣は、まるで彼の疑問を代弁したかのようである。氏の冷たい眼が大臣を捉える。その橙色の瞳はいつも人を射抜くようであった。

「生命という点では活動が可能です。ただし言語行為や身体活動については絶望的です。呼吸と目瞬きをするのが精々でしょう」

「負傷しているのですか」

「いいえ。魂がありません」

 氏はガーゴン大臣から視線を外し、呆然としているアルスを見遣った。

「どうなさいますか」

「どう、なさいますか……?」

 復唱することしかできなかった。問いの内容すらも頭に入ってきていなかった。

「はい。どうなさいますか。実質的な決定権はセルさんにはないでしょう。しかし、選択権はあります」

 唇が乾ききっていた。セルーティア氏が極悪非道な人物に見えた。外で踏み締めてきた雪のように身体冷たくなる。寒くなった。全身が凍瘡を起こしてしまうかもしれない。

「アルス……王都の規定に則れば、王子は生きているということになる。だが意識がない。となれば次に起こり得るのは、王子を擁立してきた者たちが、その立場をほしいままにするだろう」

 凍りついた首をガーゴン大臣に回す。

「何か、問題があるというのですか……」

「王子を擁立していたといえば、一見、王子の味方のように思えるだろう。だがそうではない。ときに、王子の魔凪のほうは……?」

「すぐにでも使えますが」

 ガーゴン大臣は頭を抱えた。

「なんですか……」

 会話の主旨は分からなかったが、それが深刻であることは窺えた。無知を咎めるような賢人の眼差しを受けて、アルスは怯んだ。

「王族とは、青人草の所有物です。つまり国民には適用される法が適用されないということです。不自由になった王子の魔凪マナを使用しても何等なにら問題ありません。或いは、精霊を脅かすほどの魔凪を持つこともできます」

「王子の魔力を使って国を好き放題にできる。行き着く先は支配だ、アルス。王族も貴族も市民もない。そこには支配者と、支配される者だけの世が残るだろう。王族を廃し、精霊を打ち倒し、クリスタルを私物化する。極論を言えばそういうこともできる」

 しかしその想像を、そう身近には感じられなかった。ガーゴン大臣は大袈裟に語っている。だが所詮、アルスには分からない領域である。

「ですが国民もただの人形ではありません。戦争ということもあり得ます。圧倒的な戦力を前にしますが、自身の命をなげうつことそのものが国の損失を意味するのだとしたら、抗議することは無駄ではありませんから。同時に、その気のない隣人が圧力をかけられることも十分想定できます。戦争とは、戦争する相手のみが敵というわけではありません」

「それならどうすればいいんです」

 誰かを咎めるような響きを持っていた。セルーティア氏は彼から目を逸らした。

「どうすればいいとは、王子の処置についてですか。それともセルさんの今後の身の振り方についてですか」

 だがアルス本人にも分からなかった。生かせば傀儡だ。けれども治療の見込みのあるのなら放っておくことを選ぶのも容易ではない。

「その魂というものは、どうにもならないものなのですか」

 ガーゴン大臣とセルーティア氏を所在なく眺めていた。アルスの頭のなかは自己保身でいっぱいだった。幼馴染のことを思い遣る心が一切ないわけではなかったけれど。

「復帰の道がないわけではありません。しかし時間がかかります。そして確実な方法ではありません」

 氏は平然としていた。同情も嘲笑も優越もない。

「構いません。王城の復建にも時間がかかりましょう」

「確約はできません。無駄骨を折ることになるかもしれません。希望は持たないでください」

「聞きましょう」

 大臣はアルスを王子に成り代わらせたいはずであった。複雑な胸中について聞かされはしたが、立場的にはそうなったほうが望ましかろう。しかしこれでは王子に成り代わられては困るようである。

「王子は広い意味で言って、王都にはいません。王子の魂を持つ者を探すことになるでしょう。そしてそれがすでに死亡している場合、王子の魂を取り戻すことは不可能です」

 王子の魂を持つ者を探す。口にするのは簡単である。だが王都にはどれだけの人が、そしてどれだけの生き物がいるというのだろう。鳥や虫、魚を含めれば途方もない。人ひとりの生涯で探し当てられるかどうか……

「お返事次第では僕が探査したいところではありますが、僕は囚人です。自由を許されていますが、それもあの首輪があってのことです。王都には、都民魔紋理情報保護法がありましたね」

 氏が訊ねた。ガーゴン大臣が肯ずる。

「越境資格を持っている者はほかにいますか」

「いいや、おりません。ではその件については、非常時につき私が特別に許可を出したことにして、処理しておきましょう」

「ありがとうございます。ではすぐにでも探査します」

 セルーティア氏は礼をして去ろうとした。

「アルスをつけても?」

「え?」

 アルスはガーゴン大臣を見遣ったが、ガーゴン大臣の野心的な目は真っ直ぐ氏を穿っていた。

「手術後間もないのではありませんか」

「監視役が要りましょう。けれど内密にしておきたいのです。セルーティア先生の傍にいれば、体調面に於いても安心できましょうから。アルス、大変かもしれないが、いいな」

「分かりました」

 大臣はそれから部屋の隅にも目を遣った。

「ロテスくん、君も行きなさい」

 アルスは彼女の同時に「えっ」と声を出していた。大臣が呆れた顔で振り返った。その娘に苦手意識を抱いていることを見抜かれているようである。

「アルスはこのとおりぴんぴんして見えるが、手術をしてすぐなのだ。体力を消耗している。もしものことがあれば世話を頼みたい」

「承知しました」

 だが快諾したロテスに反し、アルスは大臣に噛みついた。

「看護付きの監視役なんて聞いたこともありませんよ」

「聞かせていないだけだ。他に適任がいないのだ。引き受けてくれるな」

 戸惑ったような娘の眼差しに気付いてしまう。彼女を迷惑がり、拒んだわけではなかった。無関係な彼女が共について来ることに同意したのだ。彼にも意地や矜持というものがある。

「……はい」

 

 セルーティア氏についていくと、王城を出て大通りを南下し、数日前まで氾濫していた川を沿っていった。アルスは驚いてしまった。彼の秘密基地ともいうべき場所へ向かっている。自然公園の西端にある雑木林である。王城が襲撃されたその日も、そこで釣りをしていた。潺湲せんかんとした水面にセルーティア氏は何の用だというのか。まるで散策しにきたような様子で、氏は辺りを見回し、次に行くところを探している。まるで気紛れを起こしたかのように。

 アルスは黙って見守っていた。ロテスも、余所見もせず、脇目も振らず、2人についてきた。

 彼はこの後の氏の動きについて読めてきていた。ただ、納得していなかった。

 セルーティア氏は結局、彼の予想のとおり、市場通りのほうへ出ていった。分かってはいたが、まだ納得していなかった。頭を抱えたくなった。そして氏の爪先は、大道店だいどうみせの雑貨屋へ吸い寄せられていく。この店についてもアルスは知っていた。

 氏が雑貨店の主人へ話しかけた。

「お忙しいところすみません。お訊ねしたいことがあるのですが、今、お話を伺ってもいいですか」

 雑貨屋には他に客はなかった。主に食器を取り扱っている。他には細かな装飾品や保存の利く食料を細々とやっているようだ。店主は気前好く氏に応じた。

「城が崩れた前後数日の間に、こちらに小さな生き物が運ばれたりはしませんでしたか」

 セルーティア氏は優秀な人物である。観光地の市長であるし、医者でもあれば大学の助教授でもある。しかし意思疎通、特に対人関係を築くのには難のある人物だった。とはいえ店に対する最初の挨拶は、アルスから見れば悪くないように感じられた。けれども店主は狼狽している。「小さな生き物」とはあまりにも漠然としているのだ。鳥か、狸か。鼠かもしれぬ。王都のこの周辺では時折、洗狢あらいぐまも出没する。虫といわれてしまえば小さすぎて把握しきれないものである。

 一歩も引くことを赦さず詰め寄るような氏の態度と、困惑する店主。アルスは居た堪れなくなった。

緋鮒あかぶなを、オレ、ここに売りにきましたよね。金魚鉢ごと」

 後ろに控えていたが、彼は両者の間に踏み入った。セルーティア氏の片瞳が冷ややかに横からやって来たアルスを捉える。

―ああ、それなら売りに出してすぐに買われたよ。

 店主はアルスの顔に覚えがあったらしい。

「どちらの方ですか」

 氏が訊ねた。しかしわざわざ、雑貨店の主人も買い手のことを詮索しなかろう。その答えとばかりに店主は戸惑っている。

「どういう人だか、覚えてます?」

 アルスが訊ね直した。氏の冷ややかな片瞳がまた彼を捉えた。鋭く。 

―覚えているには、覚えているんですがね……お客さんのことですからねぇ……

「僕は医者です。患者を探しています。ここで話してくださった情報を他に使ったりはしません」

―女性でしたよ、小柄な。テュンバロへ行くとか、なんとか。馬車の時刻を調べていましたから」

 雑貨屋の主人は簡易的な帳場に置かれた時刻表を指した。

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