第29話
「行きましょう、セレン様」
幼馴染とアルスの前に割り入るように進み出てきたのは彼よりも3、4つ年少と思しき少年であった。赤茶髪の一見短くされような頭髪に、襟足から三つ編みを垂らしている。護衛の務めを果たそうとしているのが小賢しく見える。得物で制されてしまい、アルスは彼女から退がった。
「じゃあ、また」
アルスは目の前にいる人物がセレンであることに疑いはなかった。だが彼女が彼女らしくないように見えた。
「うん……」
酷似した別人のように思えたのだった。その口元に浮かぶ微笑の陰険さは、彼女にはないものだった。
頼りないせいだ。王都には王子が必要だというのに踏み切らず、煮え切らない、ろくでなしの成り代わりのせいではあるまいか。利己心に溺れたせいではなかろうか。
幼馴染と、小さな護衛が通り過ぎていく。レーラ王子の骸と会うことは秘することにした、彼女は疲れているようであった。そして希望を持たないよう、セルーティア氏が言っていた。アルスもまた活路を見出さないように努めた。
彼は少しの間、そこに佇んでいた。この期に及んでまだ我が身の可愛さを捨てきれないでいる。平穏で退屈な暮らしが惜しい。しかしそうしてはいられないのだ。いずれにせよ、その暮らしは戻ってはこなかろう。
「セル様」
後ろから声がかかる。若さゆえの高さが残った、瑞々しい響きをしている。その主を彼は知っていた。何かの罰のようである。皮肉のようである。彼はおそるおそる振り返った。もし王子に成り代わったなら、王子から奪い取るのはその役目、存在理由、宝飾品だけではない。全配偶者と全婚約者もだ。
「ガーゴン大臣がお探しになっていました」
レーラ王子は忠義に殉じた側近の娘を婚約者にしていた。それが彼女である。名はロテス。王子の側近の娘だというのに、下働きのようなことをやっている。そして彼女が次期王妃になることを知っているんは、本人を除かなくとも、レーラ王子とアルスと、ガーゴン大臣である。本人も知らずにいる。
「そ、そうなんだ。すぐに行くよ」
アルスが17であった。彼女はそれよりも1つか2つ年少であったはずだ。となると、王子よりも3つは離れている。
「ご案内いたします」
「うん、じゃあ、よろしく」
アルスは自身が厭になってしまった。ひとりの少女を値踏みしていた。王子に成り代われば、変わるのはそれのみではない。突然、幼馴染の密かな婚約者というものが、自身に纏わる近しいものに感じられはじめた。このロテスという娘についてよく知りはしないというのに。ろくに話したこともない。傍にいることは多かったけれど、事務的な会話を交わした記憶しかなかった。
「セル様。お気分が優れませんか」
物思いに耽っていた。幼馴染から受け継ぐかもしれない婚約者という見え方が、耳を塞いでいた。
「平気、平気。ごめん、ごめん」
「入院中で手術後、間もないと伺っております。お気分が優れない場合は、すぐにおっしゃってくださいませ」
彼はこの娘が苦手であった。ガーゴン大臣から、彼女の
「ちょっと考えごとしてただけだよ」
ロテスが苦手であることについて、彼女には何の責任もなかった。ただこの娘と向き合うことは、選択しがたい己の可能性を見詰めることを意味する。正面切って対峙することを。
「崩壊の
「いいよ、危ないから」
「ですが……」
「君が怪我をしていいというわけでもないからね」
ガーゴン大臣が聞いたなら、叱りつけたであろう。王子の成り代わりの前に立つ城勤めと、立場を理解しない成り代わりの両者について
ロテスとともに、待ち合わせの場所へ向かった。かろうじて倒壊の危険度は低いと判じられた、
「よく来たな。雪道はつらかっただろう」
「滑ってきましたよ」
「怪我がなければよい」
ガーゴン大臣にロテスとともにいるところを見られたくなかった。「或いは未来の伴侶かも知れぬ」と言われたことを思い出してしまう。揶揄のようでもあれば、野望のようでもあった。
「しもやけになりましたよ」
陰湿に言ってやってから、彼は王子の入っている箱を見遣った。
「開けていいんですか」
「私が開けよう」
しかし大臣は躊躇しているらしいのが、その鈍い手つきから見てとれた。人生のほとんどに、この横盗り
「いいのか、アルス」
「逃げたいですよ。でも多分、ここではそれ以外に感想なんてないです、きっと」
強がればよかった。だが強がらずともいい気がした。
ガーゴン大臣は箱の前で礼をすると、蓋に手を添えた。けれどもすぐに開きはしなかった。部屋の隅に控えているロテスへ目を遣った。
「君も見ておきなさい」
彼女の父は、誰に殉じたのか……
「大臣は、もう見たんですか」
「見た」
蓋が開いた。白い布がまず見えた。後から入れたものらしい。大臣はそれを取り払う。王子の骸が露わになる。寝ていると見紛うような姿をしていた。このまま揺らせば目を覚ましそうであった。燃え滾った焔をそのまま頭に戴いたような緋色の髪は艶やかで、凋落を感じさせない。
期待していた情動が起こることはなかった。その骸はあまりにも綺麗であった。幼馴染を喪った悲哀も、やがて等しく訪れる死への不安も物言わぬ骸への恐怖もない。それは生前のままであった。ゆえに、その目蓋が持ち上がらないことに苛立ち、腹が立ちはじめる。
彼は眠っている幼馴染に手を伸ばそうとした。だがガーゴン大臣に止められる。
「触ってはいけない」
アルスには幼馴染であった。だが相手は王子である。国を守る唯一無二の存在である。同胞はいない。取って替われるけれど。
「セルーティア先生が医務室にいます。ガーゴン大臣、どうしますか」
ガーゴン大臣は彼と目を合わせた途端、ふいと顔を逸らした。嫌な予感がするのだった。官吏が守るべきは国と民であるが、実際官吏が守るのは金と立場と己の身。大臣がよく口にしている。新聞記事が。王子が。しかし官吏も人である。金を得、食わねば生きてはいけない。
大臣の皺を一筋増やすことになる。それを哀れに思った。
「事後報告しよう。例外というものもある」
希望が膨らんでしまうことをアルスは恐れた。
「次、いつ、この機会があるとも分からん。セルーティア氏を呼んできなさい」
アルスは氏を呼びに医務室へ戻った。足がふらついていた。ここ数日はおかしかった。それが終わるかもしれない。平穏な日々に戻れるかもしれない。城や
曖昧のなかを泳いでいるのが苦しかった。希望とは狂犬だ。闘牛だ。抑えておくことが難しい。それでいて落胆を恐れている。
医務室へ転がりこんだ足取りは
「セルーティア先生……」
「はい」
氏らしい、突き放したような応答であった。
「王子を頼みます。よろしくお願いします」
処置をしていた手が止まる。
「承知しました」
近くにいた看護師と代わり、セルーティア氏はアルスについてきた。まだ期待は持てない。治療にも限度がある。夢のなかを行きつ戻りつしているような心地であった。
大臣は氏に、氏の無事について一言二言話していた。そしてすぐ木箱へ誘導した。氏は静寂を手に入れた王子へ手を翳す。アルスは固唾を呑んだ。これで未来が決まるとさえ思った。まともに息ができなかった。氏の気紛れで、どうにかなるとすら思った。
「分かりました」
セルーティア氏の診察が、実際よりも長く感じられた。その淡々としたことばかり言う口が開かれたとき、焦燥のあまり息を忘れた。
「王子のこの状態については治療が可能です。ただ、目が覚め、生命活動が戻るのみです。意識については、難しい……いいえ、戻らないと考えてください」
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