第28話

 アルスは勝手に中を覗き込んだ。雪が中心に溜まり、日差しを妨げ、一部濃い陰を落とす。医療器具が人工クリスタルによって生き物のような音を出していた。診察台には相変わらず全身を包帯で覆われた負傷者が寝そべっている。快方に向かっているのか否か、素人目には分からない。

 すべて、王子が不在のためである。

「こんにちは」

 後ろからかかった挨拶に、彼は反射的に振り向いた。悪戯をしようとしたのではないのだと弁解しかけて開いた口が、さらにあんぐりと開いて塞がらない。そこに立っているのはセルーティア氏である。頭から水をかぶったという表現では済まない、全身ずぶ濡れの有様である。肩に1人担ぎ上げ、反対の肩では1人引き摺っている。とりあえず自力で立てているのはリスティであった。彼女もしとどに全身、布も髪も色を変えている。

 アルスは肝を潰した。だが呆然としている暇はなかった。セルーティア氏の腕に縋るように立っているリスティが咳をする。彼は慌てて彼女を引き取った。

「セルーティア先生、ご無事だったんですね」

「はい―この患者に、何か異常がありましたか」

 人をひとり肩に乗せたまま、氏は診察台の上の負傷者を診るつもりらしかった。アルスも冷や水をかけられたような寒気を、その姿に覚えるのだった。

「いいえ。ちょっと立ち寄っただけです。それより、リスティとその人は大丈夫なんですか」

「僕の魔凪マナを浴びたので衰弱しています」

「怪我をしたのですか」

 話しながら、氏の首に嵌った緑色に光り輝く枷がないことにアルスは気付いた。

「いいえ。僕は溺れていたこの方を助け出そうとして、数日前に川に流されました。フラッド夫人もご一緒だったので、水中に結果を張り、その中で水位が下がるのを待っていました。ですが水位が下がる前に、おふたりの限界を感じましたので地上に戻ることにしました。この天気は乱波動のようですね。こちらの方はたいへん衰弱しているので、地上もまた毒の霧のなかにいるのと大差ありません。大至急、どこか休めるところに連れていきたいのですが、どこかご存知ですか」

 あまりに急なことで、アルスはすぐに頭に入ってこなかった。

「これから城に行くところですから、ちょっと訊いてみます。一緒に来ませんか」

「そうします」

 セルーティア氏は軽々と自身よりも大きな人物を担いでいた。氏も疲れているはずである。

「オレが担ぎます」

「セルさんは帯魔計を摘出したようですね。まだ日も浅いのではありませんか。フラッド夫人をお願いします」

「お願いね、アルスくん」

 しわがれた声でリスティは言った。そうとう疲れているようで、項垂れていた。耳飾りが揺れている。

「ありがとう、リスティ」

「何が?嫌味かしら」

 それから彼女は咳をして黙ってしまった。

 セル―ティア氏は彼等を一瞥し、急かすような所作を見せて天幕を出た。

「セルーティア先生、あの、首のものはどうしたんですか」

 脱走の心配はないと見做されて王都を闊歩していたはずである。実は、脱走を試みているのではあるまいか。氏には、やる気させあれば、それが完遂できる力があるように思える。

「壊しました」

「いいんですか」

 氏には脱走の意思があるというのか。

「僕の居場所が知られれば、救助しなければならなくなるでしょう。あの川の流れは自然のものではありません。遭難者を増やすことになりかねません」

 氏の生還が喜ばしいものであったことは言うまでもない。しかしアルスの迷いと躊躇をふたたび掻き回すものであることにも変わりなかった。残酷な希望を見出してしまう。眼前に吊るされたのなら、縋りつきたくなってしまうような期待を。そして氏はそれ等のことごとくを悪意もなく、無自覚に、無意識に打ち払うのだ。

「セルーティア先生」 

「はい」

「オレは王子に成り代わるべきですか」

「はい」

 即答であった。それは決まりきっている答えなのだろう。揺らぐことのない「正しさ」なのであろう。

「オレが王子に成り代わるとして、レーラ一個人のことも諦めなければなりませんか」

「命の話ならば『いいえ』。王子という役目についてならば『はい』。王子は2人要りません。しかし診てみないことには断言できません」

「これからレーラに会いに行くんです。オレから話を通しますから……診てくださいませんか。お考えください」

「行きましょう。王子の治療が許されるのだとしたら、それは僕の本意でもあります」

 だがアルスは理性によって、湧き出てきてしまう希望を打ち砕くよう努めた。

「セルさん」

「は、はあ……」

 意識するあまり、そしてその内容の後ろ暗さゆえに、畏まってしまう。

「これまでのことがありますから、あまり希望を持たせることは言えません」

 氏は読心術まで心得ているというのか。

「いや、その……はい」

「できるか否かの他に、させてもらえるかどうかの壁があります」

「ごもっともです」

「王都にご迷惑をかけるつもりはなかったのです」

「それはもちろん、分かっています」

 ただ空回りしているのだ。それはアルスも自身の体験で痛感している。

 慣れたように雪道を歩いていた氏が、突然立ち止まった。その小さな背中に、ぶつかりそうになる。止まろうとはしたけれども、足場は悪かった。氷の板と化している地面に滑ってしまった。転びかける。だがリスティによって転倒は免れた。

「どうしたんですか、先生」

「強い詠蛍エーテルの波動を感じました」

「はい?」

 セル―ティア氏のガラス玉のような黄橙色の目がアルスを一瞥した。

「暴走はしていません」

 そしてまた歩き始めた。

 アルスは横から軽く小突かれる。リスティが耳を寄せた。

「毒を薄めなくても薬として飲める人もいるってこと」

「フラッド夫人の夫君がそうでしたね」

 氏はまた立ち止まり、2人を顧みる。

「そうなんです」

「え?何、どういうこと」

「魔凪とは精霊によって、大陸クリスタルの瘴気を適応させたものです。詠蛍エーテルとは、精霊を介さずに得られる力のことです。セルさん」

「はい……」

 冷ややかな眼に射抜かれる。

「王子に成り代わったとき、知ることになるでしょう。安心してください。暴走はしていません」

 だがその一言から、アルスは胸騒ぎが止まらなくなってしまった。足場が悪いというのに、一歩一歩、踏み締めることができない。滑り、滑り、膝を着く。支えなければならない相手に頼っている始末であった。

「ちょっと、大丈夫?傷開いたんじゃない?」

「だ、大丈夫。ちょっと、脚が痒くなってきただけ……」

「霜焼けじゃない?」

「城に着いたら薬を差し上げます」

 氏が口を挟んだ。

「面倒をおかけします……」

 

 城へと着く。ある程度、瓦礫は撤去されたらしい。だが正門は潰れ、倒壊の危険性が高いために回り道をしなければならなかった。比較的無事な南西の門をくぐっていく。

「あたしも入っていいの?」

 関係者以外立ち入り禁止の看板があちこちに貼ってある。避難所の案内も貼られていた。リスティは自嘲的なつらをして訊ねた。

「要救護者ですから、一緒に来てください」

 人気ひとけはほぼなかった。だがぽつぽつと見廻りの者がいた。被害状況を視察しているらしかった。立ち入り可能区域は城の残骸のほんのわずかな範囲であった。外からはまだ立派に聳え立っているように見えても、内側から見ればいつ崩れてもおかしくない状態にあるようだ。起きてか迅速に対処するのだけが王都の官吏の仕事ではない。未然に防ぐのも務めであった。

 立ち入り可能区域には幸い、医務室も含まれていた。立ち入り禁止されている"関係者以外"のため、外部に開放もしていた。入ってみると長年付き合いのある看護師長が今日もそこにいた。事情を話すと快く場所を提供した。看護師長はアルスの登場に喜んだ。幼少の頃より看ていた彼が入院したことも聞いていたようだが、多忙のあまり、面会の時間が割けなかったらしい。しかしアルスは見舞品が届いていることを知っていた。

「ありがとう、師長」

 看護師長に凍瘡の手当てをしてもらっていると、幼かった日々を思い出した。城内も王都の街並みも変わっていく。そしてまた実際に変わってしまった。人々も変わっていく。立場も変わっていく。見方も変わらなければならない。アルスは目頭が熱くなった。

「懐かしいわねぇ。昔もこうやって、手当てをしたっけね。そうだ、さっきセレンちゃんを見たわよ。背中の具合が好くないのかしらねぇ?」

 だが炙られるような目頭もすぐに冷めた。

「セレンが?」

 ガーゴン大臣が呼んだのであろうか。彼女もレーラ王子とは幼馴染の間柄であったし、もとはといえば、彼女はレーラ王子の婚約者の候補として王都に連れてこられたのだった。結局、彼女は別の相手を探し、王子の婚約者にはならなかったけれど。

「見慣れない服装してたわね」

「メデューさんは、日輪の神招かんなぎですね」

 セル―ティア氏は担いできた負傷者の処置をしながら訊ねた。

「そうです」

 王子であるレーラと、王子の成り代わりのアルスと、何故、幼馴染の間柄であるのか。彼女にも役目があった。

「でも―」

「あの詠蛍エーテルはメデューさんのものです」

 彼はたじろいだ。幼馴染は、日輪の神招かんなぎの役目から降りたはずである。いいや、降りられていない。降りられなかった。

「セレン……」

 訳の分からないことばかりが起きている。王都がそうである。幼馴染にもそうである。

「セレンは、怪我人です。そんなことをして大丈夫なんですか……」

 魔凪だの詠蛍だの、アルスにはよく分からないことである。だが負荷がかかることは身を以って知っている。

「この異常気象について日輪と交渉するのでしょう。翼ががれていますから、そうとうの負担はかかるかと思われます」

 アルスは医務室を飛び出した。どこにいるのかは知らないが、ひとつだけあてがある。儀式の間という祭壇がある。そこに違いなかった。ガーゴン大臣に呼び出された場所とは反対方向であった。

 そして案の定、幼馴染はそこにいた。麻袋のような布を纏い、儀式の間の前に立っていた。青白い顔が光量の足りていない空間に浮かんで見えた。遅かった。彼女はすでに何らかの儀式を終えていた。赤い翼を片方背負っている。

「セレン……」

 呼びかけると、幼馴染は疲れた表情を見せた。王都に住まう者といわず、今現在王都にいる者は、おそらく誰も彼れも程度の差こそあれ、疲れているはずだ。

 アルスは立ち尽くす。

 幼馴染は彼のほうへやって来た。ぼろぼろの笑みを見せる。妙な刺々しさのある微笑に、アルスは寒くなった。

「わたしがアルスを守るから、だから、安心して……」

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