第21話

  近くに診療所を構える医者が負傷者を一目見ては札を貼っていった。シールルトくんも例に漏れず、複雑怪奇な記号の書かれた紙札を貼られる。

 アルスはその記号の意味を知らなかった。老婆は知っているようだった。一瞬、硬直したのが窺えた。だが治癒術を続けるのだった。

―やめたまえ。その状態の者に魔凪マナを与え続けるのは、殺人罪になりかねない。

 医者が言った。老婆の手がまた狼狽を示す。アルスはただ呆然と、シールルトくんの弱々しく上下する胸元に貼られた札を凝視していた。

 負傷者は次々と運ばれていく。しかし最も緊急を要する状態にあるこの負傷者は、放置されたままだった。

 アルスは王囲憲衛警備隊の救護班をつかまえた。彼等も2人1組になって、別の負傷者の搬送中であった。

―その札の搬送者は、順番は最後になります。

 彼は訳が分からなかった。札が順番を示すものであることは薄らと理解したけれど。シールルトくんの状態は、最も早く、手当てが必要だろう。

 彼等の運ぶ担架の上の負傷者が血を吐きながら呻いた。腹を斬られている。アルスは退いた。そしてシールルトくんの傍らに戻った。すると、布か或いは肉の筋が裂けるような、ずびび……という厭な音がした。聞いただけで寒気がする、粘着質な質感をしていた。おそるおそる、傷口を見た。渓谷のようになった傷に尖塔のような結晶がいくつも生えている。立っていられなかった。後ろに仰け反り、尻から落ちた。

「アルス!」

 叱るような声が響いた。耳鳴りから解き放たれようなような感覚があった。今まで、耳に水が入っていたみたいだったことに気付く。

「無事か」

 ガーゴン大臣が近侍を連れて事件現場へやって来ていたのだった。アルスは目瞬きを忘れた。他に頼れるものを知らなかった。親子とそう違わない時間を過ごした頑迷固陋がんめいころうの親仁は、この放埓ほうらつ息子の異変に即座にさとった。

「怪我をしたのか」

「友達が……」

 彼は激しい呼吸で上手く喋れなかった。息を吸えども、吸えども、物足りない。

「友達……?この学生か」

 ガーゴン大臣はやっとそこに横たわる制服姿の負傷者に目を落とした。真っ先に札に視線がいった。

「札が……、傷が深くて、治癒術も、」

 大臣は最後まで話を聞かなかった。近くに王囲憲衛警備隊を呼び、城前広場へシールルトくんを運ぶよう命じた。そして彼等が処置しようとしていた負傷者へは、自身が赴くのだった。

 担架はなかった。襲撃によって外れた扉板を使って、シールルトくんは運ばれた。城前広場へ運ばれていく即席の簡易担架はもうひとつあった。だがアルスの意識には入らなかった。

 彼は虚ろに歩いていた。やがて付き添っていた担架が追い越していく。ただ親鳥を追う雛みたいに前を行くものへついていった。それも、徐々に距離が開いていく。意思も目的も漠然としていく。足が前後するために、ただ進んでいるだけだった。彼は恐ろしくなっていた。己が王子の成り代わりであるために、その友人であるからという理由でシールルトくんは運ばれたに違いない。あの場には、同じ札を貼られた者が他にもあっただろう。だがそれを度外視し、ガーゴン大臣に直談判をし、それができる立場にいたからこそ……

 では、そうでなかったらどうなっていたのか。庶民であったなら。肩書きを持たぬ、平々凡々として善良な小都民であったなら。

 天幕へと着いた。

 セルーティア氏は少し前に着いたばかりらしい別の負傷者の手当てをしていた。身体に纏われた分厚い布を下から切り上げたようなものは、肉であった。だが傷自体は浅いもののように思えた。その患者は身体中に奇妙な文様を刻んでいた。刺青であろうか。執拗な入れ方であった。

 シールルトくんは、その隣に置かれた。セルーティア氏は彼を見遣った。その惨状、深刻さも分かっていたはずなのだ。しかし、氏はやって来ない。

「セルーティア先生、シールルトくんが……」

「存じています」

 隻眼は、一瞬たりともアルスのほうを向かなかった。

「もうすぐで、」

「はい」

「じゃあどうして……」

 今、セルーティア氏が処置している負傷者よりも、シールルトくんのほうが見るからに重体であった。身体の表面を突き破られているだけのように見える。肩の骨から断ち切られ、肋骨を破り、内臓ごと斬られているわけではなかった。かろうじて腰が繋がっている状態では。

「理由をお知りになりたいのですか。2つあります。ひとつ、こちらの方のほうが到着が早かった。ふたつ、早急に処置をした場合、こちらの方のほうが生存率が高いからです」

「シールルトくんは教え子ですよ」

 アルスは患者に薬剤を振り掛けている氏へと食ってかかった。そして発してから、その内容に自身で驚く。

「ではこの方は、僕の教え子でないがために、助かるところを後回しにすべきというご意見でよろしいですか」

 氏は平然としていた。侮蔑もなければ賛意もない。

 アルスは青褪めた顔でその患者の顔を見た。彼の顔からさらに血の気が失せた。

「だってその人、犯人ですよ」

「救える命を救います」

「最悪だ!」

 誰に対して、何に対してなのか分からなかった。セルーティア氏が頼りにならないと知ると、アルスはまだ微かに息をしているシールルトくんのもとに戻った。あまりにも傷が深いため、最期に手を握ってやることも躊躇われるのだった。一体何が、誰が"最悪"なのだろう。氏を頼るしかない非力な自身にではあるまいか。息を引き取るまで、ただ傍観していることしかできないというのだ。

「セルくん……」

 鏡面のような眼をしたシールルトくんが呼んだ。耳を寄せる。腕をがっちりと掴まれる。死に瀕している者の力とは思われなかった。だからこそ、不安になる力加減であった。べったりと肌理きめに半乾きの血がこびりつく。

「……シールルトくん」

「学園では、上に逆らっちゃいけない」

 結晶の下がまた色濃く滲みはじめた。口から赤いものを噴き出す。傷を覆う不均等な剣山が植物のごとく成長していく。さらに血が流れていく。

「ぼくのことは、もういいですから……あの、患者を、」

 掠れ、消え入るような声音であった。蝋のような顔色で、薄い目蓋が戦慄きながら下りていく。

 アルスは目を閉じた。諦めた。あまりにも短い交友関係だったが、彼は何にも批判的なこの友人が嫌いではなかった。無力に対して、恥ずかしくなった。何もできなかったのだ。

 診察台の下にできた赤い水溜りを、踏みにじる足がある。硝子ガラスの割れるような音を伴って傷口を覆う結晶が砕かれる。セルーティア氏がアルスの横に立っていた。だが喜びはなかった。氏は、彼の思うような人間ではなかった。

「セルさん」

 天幕にいる人たちは、ことのき、恐ろしいものを見た。セルーティア氏の背中が、羽化する蛹のごとく裂けていく。黒煙とも、暗い靄ともいえないものが漏れ出ている。それは揺曳しながら、先程処置していた患者へと伸びていく。不可解なそれは、人の手を模しはじめた。セルーティア氏とは異なる動きをしながら手当てをしている。

「セルさん」

 アルスは数度目の呼びかけで、それに応じた。

「はい」

 恐ろしい宣告をされると思った。

「約束は果たせそうにありません。申し訳ない」

 約束。約束とは何だったであろうか。

 天幕が揺れた。アルスはまたあの巨大な魔人をそこに見た。至近距離に。診察台を潰して、セルーティア氏の真後ろに立っている。体躯に見合った魁偉な爪が、天幕を薙ぎ払った。そしてまた振りかぶる。患者を処置する奇妙な医者にそのまま下ろされるはずだった鋭いきっさきの前に、アルスは躍り出てしまった。腹と胸の皮膚を破られていく感触があった。わずかに反り返った爪の先に引っ掛かった彼の躯体はやがて宙を舞い、他の天幕を巻き込んで地面へ叩きつけられた。

 痛みの前に、猛烈な吐き気を覚えた。彼は背中から落ちたが、身を捻って、込み上げてくる熱気をそこにぶちまけてしまった。まだ自身が引き裂かれていることに覚えがなかった。真っ赤な吐物を目にして激しく戸惑う。急激な焦燥に襲われる。

 周りを見ている余裕などなかった。真後ろに迫る「死」というものに、意識をとられた。

 暇潰しに魚釣りをしていた頃に戻りたい。そしてその金で、大して美味しくもない果物を齧りながら家へと帰る暮らしが恋しい。幼馴染の入れる茶の味が懐かしい。彼女の作る飯を食っておけばよかった。退屈ながら穏やかな日常が脳裏を駆け巡っていった。

「アルスくん!」

 彼はここ最近聞き馴染みの声に、泣いてしまった。城前広場にいたらしきリスティが騒ぎに気付いて飛んできたのだ。

「ごめん、リスティ……オレ、」

 焦っていた。何か言い遺すことはないか。喉の辺りで言葉が行列を作り、入り乱れ、渋滞している。

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