第20話

  アルスはセルーティア氏を待たないことにした。この広場にいたところで、やることは雑用しかないのである。彼には別の目的があった。診察用天幕に戻ることも、シールルトくんを追うこともなく、街道の空地へ行くことにした。

 道にはたくさんの作業員が行き交っている。アルスはそれを王子の発掘作業のためかと思っていた。だが担架によって運ばれていくのが崩れ落ちた城の残骸だと知ると、溜息が漏れるのだった。

 昨晩怪鳥に襲われたところへ着くと、城勤めの制服に身を包んだ集団が目に入った。ガーゴン大臣が話を通したらしかった。

 彼はその人垣には近寄らなかった。城の中には派閥がある。王子の成り代わりという役目があることに疑問を抱く者もいれば、今の王子の気質に不満を抱く者もいる。そして王子の成り代わりについて賛成の声が多かったとしても、アルスはうんざりしてしまうのである。

 幸い、王立学園の制服を身に纏う彼に気付く者はいないようだった。街道を行き交う作業員たちに紛れていたこともあるのだろう。彼は来た道を戻った。だが天幕の広場は通らず、まったく別の道を選んだ。思案に耽り、あてもなく練り歩く。

 明日には棺が掘り起こされるだろう。セルーティア氏の治療で王子は目を覚まし、城が崩壊したときから、彼の頭上を覆う曇天は晴れ渡るに違いなかった。王城は壊れ、死傷者も行方不明者も数多くいるけれど……

 階段を下りていった。城から離れていった。南へ向かっていく。王都の空気は乾いていた。喉を潤すために近くの店で水を買う。王都では飲み水よりも果物ジュースのほうが安い。

 店先で水を飲んでいると、北側、城のある方角から人の波が押し寄せてきた。彼はそれが他人事であった。セルーティア氏が移動すれば、行列も移動するのであろう。彼は氏のことについて腐っていた。拗ねていた。臍を曲げていた。腹も立てていた。

 何事か気にしている店の従業員との呑気な雑談に華を添えるだけの出来事だった。

 城の残骸がさらに崩落したのだろう。

 少なくとも、彼の位置から見える部分ではないようだった。地響きはなかった。否、逃げ惑う者たちの人為的な地響きが起こっているために分かるものではなかった。

 アルスは人の波の上部を見遣った。空には頑として、途中から先を失くしている尖塔が突っ立っている。

―通り魔だ!通り魔に憑かれた!

 先頭を走ってきた男が興奮気味に叫んだ。やっとアルスは関心を示す。

―青い髪の兄ちゃんが斬られたって……

 それは近くから聞こえた、情報交換めいた噂話であった。しかし彼は一瞬戸惑った。セルーティア氏ではあるまいか。氏の身に何かあれば、それは己の安泰、安寧、安穏にも関わってくるのである。そこで佇立している場合ではなかった。後先も考えず、彼は人の流れに逆らった。そのうち人々を避けるのが厄介になって、脇道から遠回りしていくのだった。やがて現場へ辿り着く。人々がごろごろと石ころみたいに倒れていた。騒ぎを起こした犯人は、道の真ん中を占拠するように突っ立っていた。

 アルスはその前で呆然と立ち尽くしてしまった。それは正気の人間ではなかったが、狂気を携えているわけでもなかった。沈没船で対峙した怪女や、空地を襲撃した怪鳥と同類の、見た者の肌に訴えかけてくるような敵意を向けている怪物であった。巨大な姿は、もはや尋常の人ではない。その手に馴染むほど巨大なまさかりには、王立学園の制服を身に着けた人物が刺さっている。濃い色味のジレをじっとりと濡らし、その足元は真っ赤な池と化している。

 後姿しか見えなかった。だが服装からしてセルーティア氏ではなかった。けれども安堵はない。はなだ色の髪に、毛先を纏めた紐。彼はシールルトくんではないか。

 状況をすぐには理解できなかった。王立学園の制服を肩から突き破った鉞が燃え上がる。

 アルスに認識は、すでにその巨人が人ではないということだった。身を守るために武器を持つに値する相手であった。

 シールルトくんの身体が鉞の刃から引き抜かれる。彼の足元の大きな水溜りがさらに面積を広げていく。そして肉体が、その上に崩れ落ちていく。数日前に見えた王城のように。

 アルスは細剣を抜いた。だがそれは王立学園決闘部の練習用のものだった。片刃に加工され、護拳側のみ研がれた逆刃である。さらには鋒は丸みを帯びている。殺傷能力は高くなかった。

 あの魔人におそらく理性はない。つまり白刃に怯えるよしはないのである。頼れるのは培ってきた技量だけだった。

 シールルトくんから、人だったらしき化け物を離さなければならない。注意を逸らす必要があった。

 魔人は咆哮した。アルスは地面を蹴った。何に使うのか知れない巨大な鉞が振り上げられる。彼は恐ろしくなった。魔人の足元で横たわるシールルトくんは真っ二つになっているのではないか……

 余所見をしてしまった。横臥する知り合いに気を取られてしまった。頼れるのは培ってきた技量といえども、所詮、実戦経験のない少年の虚ろな威勢である。

 横を閃く鉞をどうにか受け止めるので精一杯であった。そして唯一の頼みであった練習用の細剣などは脆くも砕け散るのであった。圧倒的な膂力りょりょくの差を知らしめられる。体格が倍以上も違うのだった。

 眩暈に襲われる。これが絶望というのだろうか。膝から力が抜け、立っているのだやっとだった。腰は骨も肉も失くしたかのように軽く感じられる。埋もれていた実感と恐怖が、等身大となって目の前に現れる。

 彼の挙動が遅れたそのとき、脇から火の玉が飛んできた。恐ろしさからわれに帰る。道に転がっている負傷者の放ったものらしい。

 巨鉞の魔人にとって、アルスは無害な羽虫同然であった。立ち上がる力のない、しかし魔火を放つ弱りきった負傷者のほうが有害で目障りであったに違いない。理性などなくとも、生存戦略は心得ているのだろう。

 魔人は火を投じた負傷者のほうを振り返った。禍々しい鉞が天に聳え立つ。あたかも、それが王城の成り代わりと言わんばかりに。

 しゅの保存の本能か、このときのアルスのなかに、すでに恐怖は消えていた。具体性について本人も説明のできそうにない義務感と衝動によって、丸腰のまま、大刃が薪割りの如く、骨を断ち、皮膚を突き破っていく……かのように思われた。アルスは負傷者を無意識に抱きしめ、迫りくる衝撃と痛みに備えていた。だがやって来ない。彼と鉞との間には障壁が立っているのである。それは濁ったり透けたり、安定しなかった。術者は魔凪マナの扱いに長けていないようだった。

 先程と同じような地響きが起こるほどの夥しい跫音があった。南側からやって来る。王都は血の海と化して終わるのだと思った。ところがやって来たのは武装した王囲憲衛警備隊であった。先頭を歩くのは、ルフィオ将星しょうしょう。彼女の一槍のもと、巨大鉞の巨大魔人は斬り捨てられた。甲高い音をたてて地面へ叩きつけられた鉞は、たちまち小さくなっていく。そしてそれは魔人もそうであった。

「アルス様」

 ルフィオ将星は得物を振った。槍についた血飛沫が地面に模様をつける。

「お怪我はございませんか」

 彼は凍りついたように固まっていた。そして頭を殴りつけられたかのような反応を示して、シールルトくんへ駆け寄った。

 シールルトくんは、真っ赤な湖のなかに沈んでいた。抱え起こすことも叶わない大きな怪我であった。肩から腰にかけて、ざっくりと斬り開かれた傷はあまりにも大きく深く、肉体はかろうじてつながっているだけのように見えた。けれども、ゆっくりと浮沈する胸元からしてまだ生きているらしかった。

 アルスの肩に手が置かれる。その意味を知ってしまった。言葉を交わさなくとも理解してしまった。肩に手を置いたのはルフィオ将星である。手甲を外した素手は外貌どおり、薄く柔らかく嫋やかであった。

「治癒術は、ダメなんですか……」

 縋るような声は震えていた。

「他人の魔凪は負担です。解毒に体力をつかいます。たないでしょう」

 ルフィオ将星の音吐には、いくらか同情が含まれていた。

「じゃあ、シールルトくんは……」

「失礼します」

 見渡せば、あちらこちらに人が倒れていた。派遣された王囲憲衛警備隊は武装をしていたし、すぐに救助活動に移れるような状況ではなかった。近隣住民たちが屋内から出てきて手伝っている。ルフィオ将星もいつまでもアルスといずれ早いうちに屍となる学生の傍にはいられなかったのだろう。去っていく。だがアルスはそこに立っていた。返しそびれた帯魔計を手にしてみたが、治癒術を使える気配はなかった。

 ややあって、彼に近付いてくる人物があった。老婆であった。服装といい、佇まいといい、見覚えがある。広場に行くときに縋ってきた老婆である。彼女は青褪め、震えていた。

―このおぼっちゃんに、助けてもらったんです……

 老婆は戦慄しながら、傍らに座り、膝を血で染めた。そして白い四つ折りの手巾を取り出すと、シールルトくんの土気色の頬にこびりついた血を拭った。

―こんな老いれが代わりに生きていたって、仕方がないのにねぇ……

 骨の浮き出た手が治癒術を試みる。一時、傷は塞がったかのようにみえた。だがそれはまた開いて、引き裂いた布のような肉はじっとりと濡れて光っていた。アルスは視界が白く爆ぜる感じがした。

 加減された魔凪では、この傷に纏わりついた魔力に勝てなかった。かといって、加減を誤れば、この大怪我人の肉体に強烈な負担をかけることになる。

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