第22話

「だめよ。出世払いなさい。利子がどれだけついてると思ってるの」

 アルスを抱え起こして叱り飛ばしていた彼女の視線が空へ注がれる。空ではなかった。忽如として再登場した魔人に注がれたのである。

「幼馴染がいて、……」

「そうね。紹介なさい。あたしも夫に、あなたのことを紹介しないとだし」

 天幕が、次々と薙ぎ払われ、そこで治療を受けている者たちを晒した。彼等を気遣えるゆとりも、もうアルスにはなかった。

 巨大魔人が足を踏み出すたび、地面が揺れる。

「フラッド夫人」

 診察台を離れたセルーティア氏は、円刃刀でも縫針でもなく、大きな木杖を手にしていた。背からはやはりあの禍々しい気体のようなものを漂わせ、それは天空に晒されたシールルトくんに伸びていた。

「はい」

 リスティは険しい表情で氏を見上げる。

「セルさんをあちらの天幕まで運べますか」

「尽力します」

 セルーティア氏は、人ではないのかも知れない。朦朧としつつある意識のなかで、アルスは思った。ルフィオ将星しょうしょうがそうしたように、氏は一杖のもと、繰り出した炎で魔人を屠ってしまった。

 その間、リスティは瀕死の怪我人を引き摺っていた。歩くたびに、胸や腹の破れたところから血が溢れ出る。彼は天幕のあったところに辿り着くと、シールルトくんの横たわる簡易診察台に縋りついた。自力で身体を支えることはもうできなかった。間近に死が迫っているらしい。他の誰も見えなかった。シールルトくんだけしか見えなかった。この者としか分かち合えない寒々しさがある。

「自分のことはもういいなんて、突き放したこと、言うなよ……」

 アルスは目の前に横たわる、そう歳も変わらない人物が耐えていた感覚を思い、色濃い憐憫が湧かずにいられなかった。硬い繊維の診察台に置かれた手に手を重ねた。体温の差を感じた。それがやっとであった。天地の引っ繰り返るような眩暈に襲われ、崩れ落ちる。

「アルスくん……!」

 リスティの着ている物が汚れていく。アルスはぼやけた視界のなかでそれをすまなく思った。

 セルーティア氏がゆったりとした足取りで戻ってくる。だが、氏の背中から伸びる気味の悪い陰はすばやかった。アルスの裂けた肉を包む。そしてやっと、氏自身が傍らへやって来た。

「帯魔計を持っていますね」

 セルーティア氏が呑気な調子で訊ねた。聴覚はくぐもっていたが、かろうじて聞き取ることができた。血でぐっしょりと濡れた衣嚢から帯魔計を取り出した。手が震え、すぐに渡すことができずにいた。結局は取り落としてしまう。

「少し痛みます」

 膜手袋も嵌めず、セルーティア氏は帯魔計を握ると、てらてら光る生傷の襞の狭間へ素手を突き入れてしまった。痛みと衝撃に吐き気を催し、堪えることもできず、血反吐が地面を汚した。無意識に、シールルトくんの横たわる診察台のへりと、傍にいるリスティの腕を鷲掴みにし、爪を立てていた。

「先生……」

 リスティの顔は、氏を訝るようであった。

魔凪マナ治療はできません。この状態では負担が大きすぎます。セルさんの体質では魔凪による自然治癒は望めませんので、帯魔計を用いて魔凪による自然治癒を試みます。ここでは縫合と消圧をします。痛み止めと、抗魔剤、用魔促進剤を出します」

 セルーティア氏は説明しながら患者の傷を縫っていた。刺青めいた文様が、アルスの肌を這いはじめる。氏は彼の身に着けていた王族クリスタルを捥ぎ取って、屑でも捨てるかのように放った。リスティが拾おうとする。

「拾ってはなりません」

 アルスはふわりと意識が薄らいでいった。



「先生……いいんですか。大切なものなのでしょう」

「約束は果たせないかもしれません―とは、告知してあります」

「王子をどうこうというやつですか」

「怪我が治り次第、セルさんには王子の成り代わっていただくしか、道は……」



 同じ会話が延々と繰り返された。息が苦しくなってしまった。喉が押し潰されるように痛く、熱く、渇いていく。

 王子の代わりに成りたくない。王子として育ち、躾けられたレーラが王になるべきだ。気ままに外を出歩ける自由が惜しくなった。手放したくなかった。

 アルスは叫びながら目蓋を撥ねさせた。胸と腹の辺りが痺れる。違和感に身体が萎縮する。

「アルス……」

 幼馴染の声に、彼は完全に悪夢から覚めた。建物のなかにいる。天幕ではなかった。白い羽根の循環扇が回っている。目が回る。腕には点滴が刺さり、寝台に身を置いていた。彼は己の身に何が起きたのか分からなかった。最後に見たのは何で、何故ここにいるのか……思い出せそうで、すぐには叶わない。

「セレン……?あれ?」

 幼馴染は眉根を寄せた。

「先生を呼んでくるから」

「先生……ああ、セルーティア先生……」

 青い髪の、愛想のない、隻眼の、人格破綻した小柄な若い医者のことは容易に思い描けた。だが問題はその先だ。

「大丈夫。セレン、待って、行かないで……」

 腕を伸ばし、幼馴染の服の袖を抓む場面はどこか情けなく、滑稽であった。

「どうして危ないこと、するの」

「危ないこと……」

 そこから、厚布に雨漏りが染み入っていくように記憶が戻ってくる。


―先生……いいんですか。大切なものなのでしょう。

―約束は果たせないかもしれません―とは、告知してあります。

―王子をどうこうというやつですか。

―怪我が治り次第、セルさんには王子の成り代わっていただくしか、道は……



 厭な会話も、甦る。

「もうあんな思い、したくないよ」

 セレンが言った。アルスの脳裏にある光景が閃きかけた。

「セルさんは悪くありません。どうか責めませんよう」

 セルーティア氏が音もなく病室の出入り口に佇立ちょりつしていた。扉の開閉すら分からなかった。亡霊の仕草であった。足音もたてず、寝台へやって来る。アルスはそのつらを見ると、鼓動が速くなるのを感じた。あの恐ろしい会話は夢ではなかったのかもしれない。現実のものになるのだ。彼は逃げたくなった。

「セルさん」

「オ、オレはどうなるんです」

「今後の治療方針のことでしたら、怪我が治り次第―」

 身構え、冷や汗をかいた。

「―帯魔計を摘出します。それまで王族クリスタルは城に返還します」

 アルスは息を忘れる。

「王子は……」

「すでに棺ごと掘り起こされたようです」

「そうではなく……そうではなくて、セルーティア先生……」

 懇願するような眼差しを、氏は冷淡に躱す。

「僕は王都の法を犯しました。これから裁判にかけられます。城に留置されますので、残念ですが、王子の治療は諦めざるを得ないでしょう」

 階段の頂上から背中を突き飛ばされた気分であった。おだてられて高いところまで梯子を駆け上がった途端、その梯子を奪われたような心地であった。アルスは自身に様々な管が繋いであることも忘れ、セルーティア氏に掴みかからんばかりであった。それを幼馴染が制していた。

「話が違う!」

「申し訳ございません」

「話が違います……オレは先生なら、レーラを治療できるって……」

「お詫びするほかありません」

 氏はまるで他人事のように淡白であった。裁判が控えていることについてもまったく緊張感がない。自身の身に降りかかっている現実として捉えていないのではあるまいか。

「セルーティア先生は、王子を治すために来てくれたんじゃないんですか!」

 叫んだ。吐き気を伴う咳が出た。

「アルス、落ち着いて」

 幼馴染が、暴れだしそうなアルスを寝台へ押し留める。

「申し訳ございません」

 相手のあまりに冷静な態度に、この興奮状態にある負傷者もてられてしまった。ここは病室で、瀕死のところを、この若く奇妙な医者に助けられたのだ。

「……すみません。お忙しいところを、ロレンツァから来てもらったのに」

「セルさんの謝るところは何ひとつありません。約束を果たせないのはこちらの責任です」

 アルスは項垂れた。まだ受け入れられない。想像もできなかった。王子として構える自身を想見することが。

「何をしたんですか。どうして先生が裁判にかけられなきゃならないのですか」

「理由は4つ。ひとつ、王都では、複数の患者を同時に1人で手術してはいけません。ふたつ、依託されていないにもかかわらず、王族クリスタルに触れたためです。みっつ、医療行為中に攻撃行為をしたためです。よっつ、医療用ではない帯魔計を処置に使ったためです」

「王都では……?ロレンツァだったら、許されたんですか」

「ロレンツァなら市長として僕が許可しました。法も変えてあります」

「セルーティア先生は、オレを救おうとしてくれただけじゃないですか」

 喋るのも疲れてしまった。大怪我を負っているからだろうか。厭な夢をみて、ろくに休めなかったからだろうか。

「医者も律法のなかで生きています。従わねばならない決まりがあります。そうでなくては抜け穴を見つける人がいます。秩序を乱しかねないこともあります。そのなかで、やるかやらないかは医者本人ではありますが」

「腹立たしくないんですか」 

「腹は立ちません。医者も扶持を稼ぐ必要があります。従わねばなりません。目の前の1人のために、明日、明後日の多くの患者を切り捨てるわけにもいきません」

 アルスはセルーティア氏という人間が分からなくなってしまった。

「それならどうして、オレを助けたんです。王都の法律を知らなかったんですか」

「いいえ、知っていました。王族クリスタルに物理的に触れられるのはレーラ王子か、セルさんか、僕だけです。法的にいえば、レーラ王子か、セルさんです。王子がいなければ、国は成り立ちません。そして今、その王子は仮死状態にあるのでしょう。医者の免許を捨ててでも王子の成り代わりのセルさんを助けるのは妥当な判断のように思います」

 ここでも、「王子の成り代わり」であった。アルスは狭い箱に押し込められた気分になった。

「オレが王子の成り代わりだから……セルーティア先生は、オレが負傷者だから助けてくれたわけではないのですね」

 彼は嫌味を言った。

「セルさんには息がありました。そして助かる見込みが十分にありました。その手段も難しいものではありませんでした。僕の返答は矛盾していますか。セルさんを処置しようとしたときの僕の行動原理について、整然とご説明できず申し訳ございません。ただ、セルさんにつきましては、多少の法的な束縛はあっても、その先に多くの命があることを見越したので、治せるから治しました」 

 澄んだ隻眼が恐ろしい。アルスは目を逸らした。

「今後あのようなことが起こったとしても、僕を庇ったりしないでください。セルさんは王子の成り代わりです。そして僕は人の身とは違います。セルさんが僕を庇うのは割に合いません」

「勝手に身体が動いたんです。オレだって自分の身がかわいいです。割りに合うとか合わないとかじゃないんですよ。セルーティア先生だってそうでしょうが」

 アルスはうんざりして答えた。

「お大事にしてください」

 セルーティア氏は礼をした。

「王子の成り代わりの身ですからね、大事にします」

 彼はまた嫌味をくれた。

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